よくわかる予科練平和記念館-児童向コンテンツ-
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昔の小学校の通信簿(つうしんぼ)「甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)」で成績(せいせき)がつけられました。
この予科練生(よかれんせい)は全部「甲」です。

茶色のほうが夏服です。本当は真白でしたが、攻撃(こうげき)されてしまうため目立たない色になりました。

予科練(よかれん)の教科書
中がみられるようになっているものもあります。今とどうちがうのかみてみてください。

授業のようす
すわるしせいも注意されます。

5メートルの
飛び込み台

霞ヶ浦(かすみがうら)で
ボートの訓練(くんれん)
おしりがいたくなります。

夜の自習時間
こっそり手紙を書いたりもします。
見学のポイント
- 家族とはなれてきびしい訓練(くんれん)をしている予科練生(よかれんせい)にとって、ふるさとからの手紙(てがみ)はとてもうれしいものでした。
- 予科練生(よかれんせい)が手紙(てがみ)を送るときには「検閲(けんえつ)」をうけました。軍のひみつが書かれていないか、弱音をはいていないかなどが調(しら)べられました。

白い箱の中に手紙がはいっています。

検閲(けんえつ)に合格した手紙(てがみ)には、「検閲済(けんえつずみ)」のはんこが押されます。
かべに書いてあるのは、佐賀県(さがけん)から入隊した福山資(ふくやまたすく)さんがお母さんに書いた手紙です。
検閲(けんえつ)を受けていない手紙が残っているので、予科練生(よかれんせい)の本当の気持ちを知ることができます。

ぼく福山資です。
お父さんが亡くなったので、進学しないで予科練にはいりました。手紙が本になっているのでみてください。

訓練(くんれん)で乗る
93式中間練習機(ちゅうかんれんしゅうき)
骨組みが木で、まわりに布がはられています。

6ヵ月後には
実際に戦う飛行機に乗ります。
零戦(ぜろせん)
彗星(すいせい)
見学のポイント
- 日曜日に隊の外に出ておなかいっぱい食べたり、「クラブ」とよばれた民家で遊んだりすることが予科(よか)練生(れんせい)の楽しみでした。
- 戦時中は、生活のすべてが戦争(せんそう)のために自由をうばわれました。食べるものも着るものも不足して、こどもたちは竹やりの訓練(くんれん)をしたり、軍需(ぐんじゅ)工場(こうじょう)(軍(ぐん)で使うものをつくる工場(こうじょう))にはたらきに行ったりしました。

予科練(よかれん)の学食(がくしょく)や
クラブを再現しています。
見学のポイント
- 戦争(せんそう)が激(はげ)しくなって、日本の大きな都市(とし)はほとんど空襲(くうしゅう)を受け、たくさんの人が亡くなりました。1945(昭和20)年6月10日、土浦海軍航空隊(つちうらかいぐんこうくうたい)にも、B-29爆撃機(ばくげきき)によるおおきな空襲(くうしゅう)がありました。
- この日は日曜日で、予科練生だけではなく、町の人や面会(めんかい)にきた家族なども空襲(くうしゅう)にまき込まれてしまいました。わかっているだけでも300人以上の人が亡くなっています。

B-29からおとされた
爆弾(ばくだん)のはへん
さわることができます。

天井とかべに空襲(くうしゅう)のえいぞうがうつります。

人間魚雷回天(ぎょらいかいてん)

回天の隊員
右はじに予科練(よかれん)の制服を着た人がいます。
僕はもう、お母さんの顔を見られなくなる
かも知れない
お母さん、よく顔を見せてください…
特攻隊員が母へ
のこした最後の
ことば
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20世紀は「戦争(せんそう)の世紀」と言われています。 この100年間に、世界中で日本の人口と同じぐらいの数の人が戦争(せんそう)や紛争(ふんそう)で命を落としているからです。 争(あらそ)いのない世界にするにはどうしたらいいのでしょう。 みなさんも考えてみてください。 |
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