フロアマップ
6番と7番の展示室では映像が流れます。 暗いところで大きな音がなりますので、気をつけて見てください。
見学のポイント
- 予科練(よかれん)の入隊試験(にゅうたいしけん)は14才半から受けられます。一次試験(いちじしけん)(身体(しんたい)けんさ・学力テスト)・二次試験(にじしけん)(適性(てきせい)けんさ・面接(めんせつ)など)があり、むずかしい試験(しけん)でした。第1期生の合格倍率(ごうかくばいりつ)はなんと73倍です。
- 戦争(せんそう)がはじまると、予科練生(よかれんせい)をたくさんぼしゅうするため、かっこいい七つボタンの制服にかわり、宣伝(せんでん)のための映画もつくられました。
- 当時日本の領土(りょうど)だった現在の台湾(たいわん)と朝鮮半島(ちょうせんはんとう)からも100人の予科練生(よかれんせい)が誕生(たんじょう)しました。
試験(しけん)問題(もんだい)や
合格証(ごうかくしょう)も展示しています。
昔の小学校の通信簿(つうしんぼ)「甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)」で成績(せいせき)がつけられました。
この予科練生(よかれんせい)は全部「甲」です。
茶色のほうが夏服です。本当は真白でしたが、攻撃(こうげき)されてしまうため目立たない色になりました。
見学のポイント
- 予科練(よかれん)ではパイロットになるための基礎訓練(きそくんれん)をします。飛行機のりろんやつくりを学び、たいそうや水泳、すもうやマラソンなどいろんな種目で体をきたえました。
- 軍隊(ぐんたい)で必要なことだけではなく、国語や英語、数学、化学、物理などふつうの学校で学ぶ科目も勉強しました。今の高校生から大学1~2年生ぐらいのレベルの勉強をしたそうです。
- みじかい間にたくさんのことを勉強するので、いつもテストがありました。一人ができないと、班(はん)の全員が「バッター」という太い棒(ぼう)でお尻をたたかれることもありました。
予科練生(よかれんせい)が使っていた
つくえを再現しています。
どんな勉強をしていたのでしょうか。
予科練(よかれん)の教科書
中がみられるようになっているものもあります。今とどうちがうのかみてみてください。
5メートルの
飛び込み台
霞ヶ浦(かすみがうら)で
ボートの訓練(くんれん)
おしりがいたくなります。
夜の自習時間
こっそり手紙を書いたりもします。
見学のポイント
- 家族とはなれてきびしい訓練(くんれん)をしている予科練生(よかれんせい)にとって、ふるさとからの手紙(てがみ)はとてもうれしいものでした。
- 予科練生(よかれんせい)が手紙(てがみ)を送るときには「検閲(けんえつ)」をうけました。軍のひみつが書かれていないか、弱音をはいていないかなどが調(しら)べられました。
白い箱の中に手紙がはいっています。
検閲(けんえつ)に合格した手紙(てがみ)には、「検閲済(けんえつずみ)」のはんこが押されます。
かべに書いてあるのは、佐賀県(さがけん)から入隊した福山資(ふくやまたすく)さんがお母さんに書いた手紙です。
検閲(けんえつ)を受けていない手紙が残っているので、予科練生(よかれんせい)の本当の気持ちを知ることができます。
ぼく福山資です。
お父さんが亡くなったので、進学しないで予科練にはいりました。手紙が本になっているのでみてください。
見学のポイント
- 予科練生(よかれんせい)は操縦員(そうじゅういん)(パイロット)か、偵察員(ていさついん)(ナビゲーター 基地(きち)と通信(つうしん)をしたり、進む方向を決めたりする)の進路にわかれます。
- 予科練(よかれん)を卒業すると「飛行(ひこう)練習生(れんしゅうせい)」になり、訓練用(くんれんよう)の飛行機に乗ります。約6ヶ月でむずかしい飛び方までできるようになります。
- 卒業した人たちは日本海軍(にほんかいぐん)の主力となって戦いました。太平洋戦争(たいへいようせんそう)のきっかけとなった真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)(1941)に出撃(しゅつげき)した人のうち、約40%が予科練の卒業生(よかれんそつぎょうせい)でした。
空と雲をイメージしています。練習機の布もあります。
訓練(くんれん)で乗る
93式中間練習機(ちゅうかんれんしゅうき)
骨組みが木で、まわりに布がはられています。
6ヵ月後には
実際に戦う飛行機に乗ります。
零戦(ぜろせん)
彗星(すいせい)
見学のポイント
- 日曜日に隊の外に出ておなかいっぱい食べたり、「クラブ」とよばれた民家で遊んだりすることが予科(よか)練生(れんせい)の楽しみでした。
- 戦時中は、生活のすべてが戦争(せんそう)のために自由をうばわれました。食べるものも着るものも不足して、こどもたちは竹やりの訓練(くんれん)をしたり、軍需(ぐんじゅ)工場(こうじょう)(軍(ぐん)で使うものをつくる工場(こうじょう))にはたらきに行ったりしました。
予科練(よかれん)の学食(がくしょく)や
クラブを再現しています。
見学のポイント
- 戦争(せんそう)が激(はげ)しくなって、日本の大きな都市(とし)はほとんど空襲(くうしゅう)を受け、たくさんの人が亡くなりました。1945(昭和20)年6月10日、土浦海軍航空隊(つちうらかいぐんこうくうたい)にも、B-29爆撃機(ばくげきき)によるおおきな空襲(くうしゅう)がありました。
- この日は日曜日で、予科練生だけではなく、町の人や面会(めんかい)にきた家族なども空襲(くうしゅう)にまき込まれてしまいました。わかっているだけでも300人以上の人が亡くなっています。
B-29からおとされた
爆弾(ばくだん)のはへん
さわることができます。
天井とかべに空襲(くうしゅう)のえいぞうがうつります。
見学のポイント
- 戦争(せんそう)が激(はげ)しくなると、日本の飛行機やパイロットの数はどんどん足りなくなりました。少ない力で確実に攻撃(こうげき)するため、「特別攻撃(とくべつこうげき)(特攻(とっこう))」 作戦が行なわれました。
- 「特攻(とっこう)」とは、爆弾(ばくだん)をつけた飛行機や魚雷(ぎょらい)に乗って体当たりする、自分の命とひきかえにした攻撃方法(こうげきほうほう)です。予科練(よかれん)の卒業生(そつぎょうせい)も、2800人というたくさんの人が「特攻(とっこう)」で亡くなりました。みんな今の大学生(だいがくせい)ぐらいのねんれいで、夢(ゆめ)も未来(みらい)もたくさんあった人たちです。
白い光は、戦争で亡くなった
予科練生(よかれんせい)の数をあらわします。
人間魚雷回天(ぎょらいかいてん)
回天の隊員
右はじに予科練(よかれん)の制服を着た人がいます。
僕はもう、お母さんの顔を見られなくなる
かも知れない
お母さん、よく顔を見せてください…
特攻隊員が母へ
のこした最後の
ことば
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20世紀は「戦争(せんそう)の世紀」と言われています。 この100年間に、世界中で日本の人口と同じぐらいの数の人が戦争(せんそう)や紛争(ふんそう)で命を落としているからです。 争(あらそ)いのない世界にするにはどうしたらいいのでしょう。 みなさんも考えてみてください。 |
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