「予科練」とは
「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練行って熟練の搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始しました。
14才半から17才までの少年を全国から試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をするもので、飛行予科練習生制度が始まってから、終戦までの15年間で約24万人が入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。
予科練平和記念館建設の目的
茨城県阿見町は大正時代末期に、東洋一の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊が設置されて以来、昭和14年には海軍飛行予科練習部、いわゆる「予科練」が神奈川県横須賀から移転し、翌年には予科練教育を専門におこなう土浦海軍航空隊が設置されました。
予科練教育の中心としての特別な性格を受け継ぐとともに、長く海軍の町としての歴史を歩んできた阿見町は、わが国の近代史の中でもひときわ光芒を放つ特別な時代を過ごし、日本が経験してきた戦争と平和を考えるうえで、忘れることのできない多くの事柄をその風土と歴史の中に刻み込んでいます。
このような歴史的な背景の中で、予科練を主体とした貴重な資料を保存・展示するとともに、戦史の記録を風化させることなく次の世代に継承し、命の尊さや平和の大切さを考えてもらうため「予科練平和記念館」を建設しています。
霞ヶ浦海軍航空隊と予科練
写真:霞ヶ浦海軍航空隊水上班航空写真
明治維新以降、日本は、富国強兵により軍備拡大と近代化、海外貿易による市場獲得を推し進めていました。そんな中で「日清戦争」「日露戦争」「第1次世界大戦」を経験していくことになります。
日露戦争以後、軍備の近代化に腐心していた日本は、航空機の必要性を感じ、航空術研究所を横須賀市の追浜(おっぱま)に設け、飛行訓練を開始しました。そして、大正5年、海軍で最初の航空隊である「横須賀海軍航空隊」を誕生させました。
また、第1次世界大戦で航空機が次世代の中心的役割を担うと感じた海軍は、海軍航空の発展と拡充を図るため、陸上機と水上機の両方の訓練が可能である阿見を選定し、大正11年、阿見原に「霞ヶ浦海軍航空隊」を、霞ヶ浦湖畔には「霞ヶ浦海軍航空隊水上班」を開設しました。
さらに、海軍は、若年から技術を習得させ熟練した航空機搭乗員の養成をするため、昭和5年に、「海軍飛行予科練習生」(通称:予科練生)制度を設け、「横須賀海軍航空隊」の一隅に「横須賀海軍航空隊予科練習部」を置きました。同年には、73倍の狭き門を突破し第一期生が入隊することとなります。後に「横須賀海軍航空隊予科練習部」は、予科練習生の増員等の理由により、昭和14年に「霞ケ浦海軍航空隊」に移転してきます。これが「霞ケ浦海軍航空隊飛行予科練習部」の始まりです。
飛行予科練習部は、「霞ケ浦海軍航空隊水上班」の敷地を拡張し、翌年の昭和15年に霞ケ浦海軍航空隊から独立し、阿見で2番目の航空隊「土浦海軍航空隊」が誕生しました。
参考:昭和20年8月ころの霞ヶ浦周辺地図
(主な海軍施設)
霞ヶ浦周辺には、海軍施設が多数点在していました。
- 霞ヶ浦航空隊本部
- 海軍気象学校
- 海軍酸素工場
- 第一海軍航空廠舟島倉庫
- 海軍射場
- 第一軍需工廠(しょう)
- 掩体壕(えんたいごう)地区
- 海軍航空要員研究所
- 第10海軍航空隊司令部地下壕
- 北砲台
- 第一海軍工廠工員養成所
- 横須賀海軍施設部
- 海軍軍需部霞ヶ浦支部本部地区
- 海軍軍需部霞ヶ浦支部燃料庫地区
海軍航空隊周辺の状況
阿見においては、「霞ヶ浦海軍航空隊」の発足により、大正10年に阿見郵便局が開設され電信電話の架設も行われました。
また、交通網も発達していきました。大正9年には、土浦-江戸崎間の乗り合いバスが運行を開始したり、11年には、土浦駅から「霞ケ浦海軍航空隊」に通じる新しい道路も開通したりしました。さらに12年には、土浦-阿見間に常南電気鉄道が開通することとなりました。軍人や施設建設に伴う工事人さらに商人の移動により、阿見村の人口は急速に増加し、中心部である青宿には、新たに新町(昭和2年)と呼ばれる町並みが形成されました。
新町はそれまで田畑地でしたが、商店街・飲食街となり軍人やその家族はもとより、一般の人々の生活用品購入の場ともなっていきました(居酒屋・旅館・風呂屋・酒屋・魚屋・時計屋・床屋・雑貨屋・自転車屋・病院・置屋・派出所ーなど)。