我が故郷の芸術家と言えば?と問われたとき「横山大観」と答える茨城県人は多いことでしょう。水戸に生まれ育った大観は、茨城を代表する、しかも「BIG」な芸術家でした。
横山大観で通っている大芸術家について1つ、2つ。
彼は横山家へ養子に入る前「酒井秀麿(ひでまろ)」という姓名でした。水戸藩士・酒井家の子として彼は生まれました。1868年(明治元年)に生まれたとき、水戸藩内は明治維新の大混乱の渦中にあったと言われます。現在の水戸市城東2丁目に酒井家はあったとのこと。実は私が生まれ育った家とは50メートルしか離れていない所です。大観はある面で頑固者でしたが、私も自身を思い合わせ「水戸っぽ」らしさに同胞の親しみを感じています。
「大観」という雅号の由来は様々に言われています。ただ、気宇の大きな人間・画家を目指す、といった意味で理解して大過ないでしょう。繊細にして豪放、その人間性は大観の画風そのものと言えます。大観は生涯の師・岡倉天心の影響を受け老荘思想に親しみます。秀才でもあった彼は、一言で言えば「生きる道」に深い関心をもったのです。自分は何者か?自分はどこへ行こうとしているのか?大観は1958年(昭和33年)に90歳で亡くなるまで、それこそ一生懸命にその課題を追求した男子でした。(でも、大観には、十分な学力がありながら現在の東京大学への入試制度でズルをして結果受験資格を失ったという、気が小さいと言うかお茶目と言うかの側面もあったのです。)
予科練平和記念館にも横山大観ゆかりの品があります。予科練生が入隊する際に贈られた日の丸2旒(りゅう)です。「近思尽忠(きんしじんちゅう)」「武運長久(ぶうんちょうきゅう)」と揮毫されています。「近思尽忠」とは、身の回りを常に反省し忠義を尽くすこと、「武運長久」とは武人(軍人)としての運が長く続くこと、という意味でよいでしょう。この2つの言葉について詳しい説明はいらないと思います。大観は「お国のため」という思想を強くもった人で、戦時中は絵の売り上げを戦闘機や戦艦を作るために寄付したこともありました。そのため、戦後に戦争協力者と見なされ苦しんだ時期があったようです。
大観と予科練生には共通する点が多いように私は感じています。最大のことは「お国のため」「信じるもののため」に身を挺して守るという心です。元予科練生も戦後は苦しんだ時期があったとのこと。大観と予科練生の生き方こそ違え、一生懸命さの悲喜こもごもに私はやはり考えさせられます。
予科練生しかり、予科練生に関係した方々しかり、また戦争を経験した方々しかり、そうした方々のご経験をまずはしっかり受け止めたいと私は思います。そして、いろいろ考えてみたいと思います。
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後日、別途広報いたしますが、7月、8月の予科練平和記念館イベントについてお知らせいたします。
①7/16(土)「おはなしおさんぽの会」
話題の絵本をママ解説員が読みます。すずしい館内でのんびり絵本を楽しんでください。
※参加は無料です。
◇時間 10時30分~ と 14時00分~
◇場所 予科練平和記念館ラウンジ
②7/17(日)元予科練生のお話会 「対談 激闘予科練」(語り継ぐ元予科練生の体験)
・旗艦愛宕「総員退艦!」 ・体験目撃「重巡愛宕の最後」
◇対談者 橋原 正雄 様(元予科練丙種12期生)
戸張 礼記 氏(元予科練甲種14期生・予科練平和記念館歴史調査員)
・昭和19年10月22日夜、第2艦隊は、ブルネイを出航、レイテ沖海戦に参戦した。
・その頃、予科練甲14期生は、決戦の大空めざして、猛訓練に明け暮れていた。
・しかし、23日の朝、待ち受けていた米潜の魚雷6本が、1番艦愛宕を狙って発射された。
③7/24(日)歴史調査員講演会 「阿見大空襲の悲劇」
◇講師 赤堀 好夫 氏(予科練平和記念館歴史調査員)
・昭和20年(1945年)6月10日の朝、阿見町は予科練を中心とした霞ヶ浦沿岸全区域に
わたる米軍の大空襲により甚大な被害を受けた。これらの様子を、当時、被災された
方々のお話を中心に講演していただく。
(②③共通)
◆場 所 予科練平和記念館20世紀ホール
◆時 間 14:00~15:00
◆観覧料が必要です(予約不要)
お問い合わせは予科練平和記念館まで 電話 029-891-3344