企画展「甲飛14期生」①

1月 12th, 2013

 新年を迎えてから、はや10日が経ちました。七草粥を皆さん食べたでしょうか。鏡開きしたお餅を美味しくいただけたでしょうか。

 何と言っても健康が一番だと思います。皆様の今年一年のご多幸をお祈りいたします。

 

 さて、予科練平和記念館では昨秋より引き続き、3月31までの会期で企画展「甲飛14期生~特攻が始まった年の入隊者たち~」を開催しています。これから数回にわたり、展覧会の内容をご紹介していきます。

 甲飛14期生は昭和19年(1944年)4月以降10次に渡って入隊された方々で、予科練史上最高の4万1千人超を数えました。10月にフィリピンが陥落する際、初めて零戦による特別攻撃が始められた年であり、同年11月からは人間魚雷「回天」による特攻も始まりました。

 前年の18年には戦略上の要衝であったアッツ島、ガダルカナル島からの撤退があり、日本の敗戦が事実上秒読みに入る時代にあたります。戦死者も多数に上りました。

 このように、昭和19年は敗戦の影が日毎に濃くなりながら、未だに日本が徹底的に抗戦しようとしていたときと言えるでしょう。

 昭和19年の予科練入隊者は、甲飛14期の他甲飛15期約3万6千名、乙飛22期約1万2千名、同23期約1万3千名、同24期約1万2千名、特別乙飛6期~10期約2千4百人であり、総計約11万6千人にも上るわけです。

 戦局悪化といいながら、全国から優秀な人材がこれだけ集められたということにたいへん驚きます。

 しかも、昭和19年には飛行機の残存数、燃料不足の点からも、飛行機搭乗員としての訓練はできないことが分かっていた上で予科練生は募集されたわけで、後世に生きる者としては憤りを禁じ得ないやり方でした。

 甲飛14期生の進路は多岐に渡ります。一つ一つの事例をご紹介しながら、優秀な人材が集った予科練の翻弄された実態を通して、戦争がない社会作りのヒントを得ていきたいと考えています。

 

横田正大 氏(甲飛14期・整備兵)

 

 昭和19(1944)年6月、新設間もない愛知県碧海郡矢作村の岡崎海軍航空隊に入隊する前日、多数の同期と大阪から夜行列車にゆられて岡崎へ。期待と不安が交錯した複雑な気持ちは何ともいえない。

(中略)

 毎日の教課は少しずつ整備教育に重点がおかれ、エンジンの分解結合を何回もくり返しているうちに前期教育も終了間近になったある日、整備教育成果のテストが格納庫の片隅で実施された。

(中略)

 昭和19(1944)年12月、岡崎海軍航空隊をあとに不安と希望をもって都城海軍航空隊に転属となった。基地につくとわれわれの所属する部隊はフィリピンに転任したあとで、やむをえず関係の兵舎に配属となり「彗星」艦爆の整備にはげんだ。年があけて昭和20年2月初旬、また部隊移動で都城から串良基地(鹿児島)に出発した。

 4月以降、予科練出身者が飛行服の内に七ツ釦の軍服をつけ特攻隊として出撃する姿を何回も見送った。出撃機の中にはエンジンの調子が悪く帰還すると昼夜をとわず整備する整備員の努力は大変なもので、搭乗員との心のつながりを感じるのはこんなときである。

 9気筒エンジンからはじまり、18気筒複列エンジンの整備まで体験したが、予科練に入って空飛ぶ夢は実現できなかったが、整備員として戦力の1つの源となったことに誇りを思っている。

 昭和20年以降、沖縄に向け集結し、2日目には夜間攻撃にて飛び立つ特攻機も全国から串良基地を出撃する隊が多くなり、整備員は昼夜の別なく友軍機と掩体壕内で整備した。

(中略)

 昭和20年7月、整備部隊は転任で観音寺航空隊へ移動した。ここは練習航空隊で、練習機が列線に並んでいる。空襲が激しいので近くの小学校の講堂を宿舎にし町からはずれた道路にそって迷彩した建物(格納庫)に2機づつくらい待避させており、整備員はそれを巡回して整備していく。

 やがて昭和20年8月15日、天皇陛下の放送があるから集合という伝令が各格納庫にあり、作業を中止して宿舎の小学校に集まった。翌日から飛んでくる「グラマン」も低空できては、わが方に手を振っている姿を見たり、まわりの状況から戦争に負けたことがはっきりしてきた。(「月刊豫科練」から抜粋)