「回天」の発案者、黒木博司大尉は大津島回天基地での訓練開始2日目に殉職します。
それは、昭和19年(1944)9月6日でした。その日は午後に入ると風がたいへん強くなり、ふだんは穏やかな瀬戸内の海に白波が立つばかりでなくうねりさえ大きくなったと記録されています。
海の状態を危険と判断した指揮官によって訓練中止が決められたものの、黒木大尉は再考を強く求めたようです。盟友とも言える仁科中尉から「今日はやめた方がいいでしょう」という進言があったそうですが「天候が悪いからといって敵は待ってくれない」と訓練続行を黒木大尉は望み、ついには17時40分に樋口大尉が操縦する回天に同乗し訓練に出ました。
訓練時には見張りをする船が付きましたが、この時の訓練に付いた2隻は遭難した回天を発見することが出来なかったそうです。その後、捜索隊が編成されましたが、黒木・樋口両大尉が乗った回天が発見されたのは翌朝9時のことだったと伝えられます。前日の様子が嘘のような、いつもの穏やかな海に戻っていたそうです。
訓練コースをやや北に外れた水深約15メートルの海底で、先端から約3分の1ほど泥をかぶり海底に突き刺さった状態で回天は発見されました。引き上げられハッチが開かれたとき、取り乱した様子もなく2人は息を引き取っていたということです。
両大尉は、酸素が尽き絶命する間際まで手帳に事故原因などを書き記していました。
今回の特別展でも黒木大尉の手帳のレプリカを展示していますが、これからその内容を抜粋してご紹介します。
【黒木大尉】
「十九年九月六日 回天第一号海底突入事故報告」
・当日一八時一二分(中略)海底に突入せり。
・調深五メートルに対して実深二メートル、前後傾斜は二~三度、時には四~五度となりしことあり。
→実深2メートルの位置にいたとき深度計を5メートルに設定したため回天が急に先頭を下に向ける形で海底に突っ込んでしまったということ。
・五分間隔に主空気一分間放気(中略)気泡を大ならしむ。
→事故等があったとき回天から空気を放出して泡を出し、位置を知らせること。この日は大時化だったため捜索隊が気泡を発見できなかった。
・一九時四〇頃「スクリュー」音二を聞く。前者は直上にて停止せるものの如し。但し爾後遂に何等の影響なし。
・(中略)最初の実験者として多少の成果を得つつも、充分に後継者に伝ふることを得ずして殉職するは、不忠申訳なく、慚愧に耐へざる次第に候。
・仁科中尉に 万事小官の後事に関し、武人として恥なき様頼み候。
・(中略)父上、母上、兄上、妹御達者に。
・呼吸苦しく思考やや不明瞭、手足ややしびれたり。〇四(時)〇〇(分)死を決す。心身爽快なり。心より樋口大尉と万歳を三唱す。
・〇六〇〇、猶二人生存す。相約し行を共にす。万歳。
【樋口大尉】
指揮官に報告。予定の如く航走、一八・一三潜入時、突如傾斜DOWN二〇度となり、海底に沈座す。その状況、推定原因、処置等は、同乗指揮官黒木大尉の記せる通りなり。事故のため訓練に支障を来し、まことに申訳なき次第なり。後輩諸君に、犠牲を踏み越えて突進せよ。
七日〇四〇五。呼吸困難なり。訓練中事故を起こしたるは、戦場に散るべき我々の最も遺憾とするところなり。しかれども犠牲を乗り越えてこそ、発展あり、進歩あり。我々の失敗せし原因を探求し、帝国を護るこの種兵器の発展の基を得んことを。周密なる計画、大胆なる実施。
〇四三五、呼吸著く困難なり。
〇四四〇、生即死。
〇四四五、国歌斉唱す。
〇六〇〇、猶二人生く。行を共にせん。
〇六一〇、万歳(壁書)。
回天の操縦はとても難しかったと聞いています。回天の生みの親とも言える黒木大尉が訓練開始早々に殉職したことはその一端をうかがわせるでしょう。
黒木大尉、樋口大尉の無念さはその遺書と言える手帳の内容からもうかがえます。
この殉職を契機に、仁科中尉を中心として、むしろ結束して訓練に励んだと伝えられています。