皆様、暑さが続きますが、お元気にお過ごしでしょうか。
暑さが続くと書きましたが、今年は暑中に涼しいどころか肌寒いくらいの日も経験するなど、例年とは違う夏の要素が感じられます。
しかしやはり、今は太陽の季節、ひまわりの季節、そして蓮の季節です。阿見町の特産品の1つでもあるレンコンは、当記念館周辺の蓮田でもすくすくと成長しています。朝には純白の花が咲き乱れています。
さて、過ぎる7月のこととなりましたが、7/24(日)に当館歴史調査委員による講演会が開催されました。「阿見大空襲の悲劇」と題され、赤堀好夫氏に講師をお願いし、またアシスタントとして中川龍氏にもご助力いただきました。
ご存じの方が多いと思いますが、阿見町は霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊など海軍の重要拠点が存在していたため空襲の標的となり、1945年(昭和20年)6月10日にB29 による大空襲を被りました。
講演では、本土空襲が始まる以前の戦況について概説があった後、大空襲を受けた当時の土浦海軍航空隊、また阿見町の状況について説明がありました。それによれば、空襲当日、土浦海軍航空隊には約1万人がいたのではないかと推定されるとのこと、また阿見町の約45%が軍施設で占められていたとのことでした。
その後は空襲や兵器の具体的な内容に入りました。内容を箇条書きに記します。
◇サイパン、グァム島の航空基地から東京までの距離が約2300㎞。B29の航続距離は約6~7トンの爆弾を搭載して約5200㎞。つまり日帰りでの爆撃が可能であった。
◇阿見町における攻撃目標は4箇所(土浦海軍航空隊、舟島格納庫、気象学校、木原送信所)で、グァム、テニアン島から出撃した68機のB29から合計約1500発の250キロ爆弾が落とされたのではないか、とのこと。(爆弾数は爆弾孔の数から推定されたもの)
◇午前8時に空襲警報発令の後まもなく第1波が来襲し、午前9時頃の第5波まで攻撃が続けられた。午前9時45分に空襲警報解除。
◇土浦海軍航空隊関連の戦死者を含め、阿見町全体では約400人の戦死者が出たと推定される。戦死者の火葬はなかなか進まず、また身元不明者も多かったとのこと。
以上、講演の一端を箇条書きでご紹介しましたが、これだけのことでも胸苦しく、また胸が詰まるような思いがします。
以前、このブログでも書きましたが、私は戦争を体験した者ではありません。ですから空襲の場合でも、その恐ろしさ、悲惨さは想像力で補うことしか出来ません。しかし反面、私が生きている現在、戦争を体験し、その実体験から戦争をしてはならないと考えるようになるなら、先人の厳しくも貴重な戦争体験を無にしてしまうことになるでしょう。
喉元過ぎれば熱さ忘れ、とはよく言われることですが、決して忘れてはならないことがあると思います。この世の巡り合わせで戦争を経験された方からその体験談を伺うことは、戦争を経験していない世代の者にはたいへん貴重な経験となります。
予科練平和記念館では今後もこのような機会を設けて参りますので、1人でも多くの方のご参加をお待ちしております。