企画展「甲飛14期生」②

1月 26th, 2013

角田義久 氏(甲飛14期・震洋)の場合

 

 昭和19(1944)年4月1日、土浦海軍航空隊甲種飛行予科練習生として、憧れの七ツ釦に身を包み、大空に羽ばたく夢と希望を胸に、晴れの入隊式に臨んだ。

 既に3日前隊門をくぐり、入隊手続きを済ませ、150名の分隊に分けられ、第1班から第6班まで各班25名の班も決められた。私は第10分隊第3班に所属した。

 すぐに被服の支給となり、鍔(つば)のついた軍帽、濃紺ジャケット型の上衣には金色に輝く七ツ釦、下着には褌(ふんどし)まであり、白い事業服(通常着)2着と、黒の短靴2足、それに手箱の中に裁縫道具一式と洗面用具が入っていた。支給された被服は総べて新品、他人の物と区別するため、自分の名前を墨で書くのに随分と時間がかかり、短靴は踵(かかと)の外側に小刀で彫るのだが、革は固いし小刀は切れず苦労した。最後に家を出るとき着て来た衣類を荷作りして送り返し、後は入隊式を待つばかりだった。

 入隊式は午前10時、第一種軍装で第一練兵場に整列、高らかに響き渡るラッパの音に軍艦旗が掲揚され、司令官らしい偉い人が台の上に立ち、「第14期甲種飛行予科練習生を命ず」と宣告され、正式に予科練習生になることができた。

 入隊式の日には赤飯と尾頭付きの御馳走だった。訓練は翌日から始まり、何を言われても勝手が分からず戸惑っていると「貴様達はお客様じゃないぞ!何をモタモタしとる!」と昨日は優しく面倒見てくれた班長も、恐ろしい顔で怒鳴りだした。

 5月末に適性検査があり、操縦班と偵察班に分けられ、私は偵察班で操縦桿を握ることはなくなった。偵察班には通信の他に、物理、科学、気象、航法といった多岐にわたる学科も修得しなければならなかった。

 東京大空襲があった数日後の3月中旬、分隊150名のうち80名に「特班」命令が下された。軍人勅諭に「上官の命を承ること、実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」と示され、上官の命令には絶対服従しなければならない。誰からも事情説明など一言もなく、特班の意味も分からず、その場で質問する人もなく解散となった。この人選にはどのような基準で誰が関わったかなど一切知らされなかった。自ら志願した覚えもなく、全く本人の意思にも関係なく極秘の内に進められ、突然分隊長からの命令となった。

 

 昭和20年3月22日卒業の日を迎えた。特別軍用列車に乗り込み午後2時に土浦駅を離れ、行き先も知らされずに西へ西へと走り続けた。博多を抜け諫早駅に停車したとき、そこで何人かの軍人が乗り込み「貴様達の行くところは川棚で、震洋艇の訓練を受けるのだ」と初めて行き先と目的を聞かされた。

 震洋艇はいずれもベニヤ板の船体にトヨタトラックのエンジンを取り付け、艇の前部に250キロの高性能爆薬を装着し、侵攻する敵艦船に夜陰に乗じて高速で体当たりし爆破させるものである。兵舎は木造平屋のバラックで、訓練は到着早々に開始された。大村湾に突き出した木の桟橋に、俗に青ガエルとか④艇とか呼ばれる緑色の小船が何十隻も係留してあった。訓練は燃料補給から始まり、始動からクラッチの離し方や舵の取り方など、実際に動かしながら説明を受け、交代で操作してみると案外簡単にできた。しかし海を走るとなると思うようにならず、相当に技術や経験を積み、勘と度胸も必要だった。操縦や襲撃訓練以外に、十三粍機関銃とロサ弾(ロケット式焼霰弾)の実弾発射もあったが、このようにしてわずか2ヶ月間で技術を修得し、訓練を修了した。

 昭和20年5月25日、第55震洋隊は第12突撃隊附を命じられ、6月14日に横須賀経由で鵜原(千葉県勝浦)に着任した。7月には物資搬入と共に基地整備が進み、震洋艇を格納する横穴式の地下壕もほぼ完成した。こうして出撃命令に即応できる態勢が整えられ、密かに出撃の機会を待ち受けていた。(「震洋隊の回想」から抜粋)

地域づくり総務大臣表彰をいただきました!

1月 18th, 2013

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

 

先日、ここ茨城にも大雪がふりました。

交通には不便をきたし、雪かきも大変でしたが、

真っ白い雪がしんしんと降り積もっていくさまは、とてもきれいでした。

 

まだまだ雪が溶けきらず、道路なども凍っているところがあります。

足元にはどうぞ十分にお気をつけくださいね。

 

記念館にも、ところどころに雪が残っています。

 

 

 

そしてすごく寒いです。

雪うさぎを作って写真を撮ったらかわいいんじゃないかな、という

かすかなやる気はいっぺんに吹き飛ばされました。

 

 

このような寒い今日ですが、水戸市からリリーベール小学校6年生の

元気なみなさんがきてくださいました。

 

 

リセ風の制服がとてもかわいらしいです。

みなさん熱心に話を聞いてくださってありがとうございました!

 

 

さて、この度、阿見町が行っている、予科練平和記念館を核とした歴史の伝承と

観光振興の点が評価されて、

「平成24年度 地域づくり総務大臣表彰 地方自治体賞」を

受賞することになりました!!

 

この賞は、地域を良くしようと頑張る団体や個人を表彰するもので、

1983(昭和58)年に創設され、今回30回目となる歴史ある賞です。

これまでに、880の団体や個人が受賞しているそうです。

 

当館は、来月で開館して丸3年になります。

まだまだ至らないところがたくさんありますが、

こうして評価していただけることはとても嬉しく、励みになります。

これからも、予科練の歴史を永く後世に伝えていくために頑張ってまいりますので、

今後とも当館を見守っていただければ幸いです。

 

詳しくは総務省HPをご覧ください。

 

総務省HP 報道資料

http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01gyosei09_02000012.html

 

 

 

最後にもう一つ。

予科練1期生の伊藤進さんが天国に旅立たれました。

99歳でした。

あまりに突然のことで心が定まりませんが、もしかしたら

きっと、地上を離れて大空を自由に飛んでいらっしゃるか、

真っ白い船で大海原へ漕ぎ出していらっしゃるのではないか、と

思ったりもしています。

本当にすばらしい方でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

企画展「甲飛14期生」①

1月 12th, 2013

 新年を迎えてから、はや10日が経ちました。七草粥を皆さん食べたでしょうか。鏡開きしたお餅を美味しくいただけたでしょうか。

 何と言っても健康が一番だと思います。皆様の今年一年のご多幸をお祈りいたします。

 

 さて、予科練平和記念館では昨秋より引き続き、3月31までの会期で企画展「甲飛14期生~特攻が始まった年の入隊者たち~」を開催しています。これから数回にわたり、展覧会の内容をご紹介していきます。

 甲飛14期生は昭和19年(1944年)4月以降10次に渡って入隊された方々で、予科練史上最高の4万1千人超を数えました。10月にフィリピンが陥落する際、初めて零戦による特別攻撃が始められた年であり、同年11月からは人間魚雷「回天」による特攻も始まりました。

 前年の18年には戦略上の要衝であったアッツ島、ガダルカナル島からの撤退があり、日本の敗戦が事実上秒読みに入る時代にあたります。戦死者も多数に上りました。

 このように、昭和19年は敗戦の影が日毎に濃くなりながら、未だに日本が徹底的に抗戦しようとしていたときと言えるでしょう。

 昭和19年の予科練入隊者は、甲飛14期の他甲飛15期約3万6千名、乙飛22期約1万2千名、同23期約1万3千名、同24期約1万2千名、特別乙飛6期~10期約2千4百人であり、総計約11万6千人にも上るわけです。

 戦局悪化といいながら、全国から優秀な人材がこれだけ集められたということにたいへん驚きます。

 しかも、昭和19年には飛行機の残存数、燃料不足の点からも、飛行機搭乗員としての訓練はできないことが分かっていた上で予科練生は募集されたわけで、後世に生きる者としては憤りを禁じ得ないやり方でした。

 甲飛14期生の進路は多岐に渡ります。一つ一つの事例をご紹介しながら、優秀な人材が集った予科練の翻弄された実態を通して、戦争がない社会作りのヒントを得ていきたいと考えています。

 

横田正大 氏(甲飛14期・整備兵)

 

 昭和19(1944)年6月、新設間もない愛知県碧海郡矢作村の岡崎海軍航空隊に入隊する前日、多数の同期と大阪から夜行列車にゆられて岡崎へ。期待と不安が交錯した複雑な気持ちは何ともいえない。

(中略)

 毎日の教課は少しずつ整備教育に重点がおかれ、エンジンの分解結合を何回もくり返しているうちに前期教育も終了間近になったある日、整備教育成果のテストが格納庫の片隅で実施された。

(中略)

 昭和19(1944)年12月、岡崎海軍航空隊をあとに不安と希望をもって都城海軍航空隊に転属となった。基地につくとわれわれの所属する部隊はフィリピンに転任したあとで、やむをえず関係の兵舎に配属となり「彗星」艦爆の整備にはげんだ。年があけて昭和20年2月初旬、また部隊移動で都城から串良基地(鹿児島)に出発した。

 4月以降、予科練出身者が飛行服の内に七ツ釦の軍服をつけ特攻隊として出撃する姿を何回も見送った。出撃機の中にはエンジンの調子が悪く帰還すると昼夜をとわず整備する整備員の努力は大変なもので、搭乗員との心のつながりを感じるのはこんなときである。

 9気筒エンジンからはじまり、18気筒複列エンジンの整備まで体験したが、予科練に入って空飛ぶ夢は実現できなかったが、整備員として戦力の1つの源となったことに誇りを思っている。

 昭和20年以降、沖縄に向け集結し、2日目には夜間攻撃にて飛び立つ特攻機も全国から串良基地を出撃する隊が多くなり、整備員は昼夜の別なく友軍機と掩体壕内で整備した。

(中略)

 昭和20年7月、整備部隊は転任で観音寺航空隊へ移動した。ここは練習航空隊で、練習機が列線に並んでいる。空襲が激しいので近くの小学校の講堂を宿舎にし町からはずれた道路にそって迷彩した建物(格納庫)に2機づつくらい待避させており、整備員はそれを巡回して整備していく。

 やがて昭和20年8月15日、天皇陛下の放送があるから集合という伝令が各格納庫にあり、作業を中止して宿舎の小学校に集まった。翌日から飛んでくる「グラマン」も低空できては、わが方に手を振っている姿を見たり、まわりの状況から戦争に負けたことがはっきりしてきた。(「月刊豫科練」から抜粋)

新年来たりなば

1月 5th, 2013

2013年、新しい年がはじまりました。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

新年最初の週末、いかがお過ごしでしょうか。

 

私Wは、元予科練生の方々から年賀状をいただいて

年のはじめから一人で嬉しくなっています。

伝説の予科練一期生、伊藤進さんの年賀状には、

数えで今年100歳になられることが記されていました。

本当に本当におめでとうございます!!

伊藤さんファンの私としては広くお知らせしたいと思い、

新年最初のブログでご紹介させていただきました。

ますますのご健勝とご活躍をお祈りいたしております。

 

 

昨日4日から、予科練平和記念館も通常通り開館しています。

今日も気温が低くてとっても寒いですが、午前中はよいお天気でした。

 

 

館の前の桜は、小さな芽をつけて空に向ってぐんぐん伸びているような感じがします。

 

 

「冬来たりなば 春遠からじ」

日本のことわざだと思っておりましたが、実はイギリスのロマン派詩人

パーシー・ビッシュ・シェリーという人の詩の一節なんですね。

(奥さんのメアリー・シェリーは、あの「フランケンシュタイン」の作者です。

どんなご夫婦だったんでしょうか・・・)

同じイギリスには「夜明け前が一番暗い」、日本には「夜まさに明けなんとして益々暗し」

ということわざがあるそうです。

 

そうであるならば、今年の日本は朝日がのぼって夜が明けるかもしれませんね。

美しい朝焼けが見られるかもしれません。

 

「希望」は与えられるのを待つものではなく、苦しくても自らの内に自ら

育てるものだと思います。

今辛いことも多いけれども、その分大きな幸せを抱えることができる力を

蓄えているんだ、と思って、へっぽこな私も

今年一年頑張っていきたいと思います。

 

 

館内からも澄んだ青空が見えます。

 

みなさんの一年が、この青空のように澄みきって、どこまでも行けそうな

わくわくした日々になりますよう、心からお祈りしております。

 

 

さて、新年早々お知らせがあります。

去年末に予科練平和記念館で調査協力、資料提供した

テレビ番組が放送されます。

NHK総合テレビで放送中の「ファミリーヒストリー」という、毎回様々な方の

家族のルーツをたどっていく番組で、みなさんもご覧になったことが

あるかもしれませんね。

1月中に放送される①俳優・歌手の髙橋克典さん、②(株)ローソン代表取締役社長の

新浪剛史さんのルーツを取材した回に、当館も協力しています。

 

①1月7日(月)22:00~22:50 NHK総合

「ファミリーヒストリー 高橋克典~特攻を覚悟した父・絶望の中で音楽と出会う~」

 

歌手・俳優の高橋克典の父は、戦時中、特攻隊で死を覚悟した。

ある偶然で死を免れるが、多くの仲間を失った。戦後にはその記憶に悩み、

16歳で酒に溺れた。絶望の中で音楽と出会い、横浜の市立高校で音楽教師となる。

なかなか生徒たちの気持ちをつかむことができない中で起きた一つの事件。それがきっかけで、

生徒たちから慕われるようになる。

さらに、満州・柳条湖事件後のリットン調査団。家族との深い関係が明らかになる。

(NHK ファミリーヒストリー HPより)

 

 

髙橋克典さんの父、勝司さんは、1944(昭和19)年に

甲種第14期予科練生としてここ土浦海軍航空隊に入隊しますが、

1945(昭和20)年に入って戦局が末期的な様相を呈し、

6月1日付けで予科練の訓練は中止されてしまいます。

 

練習生たちは水上・水中特攻部隊に配属されたり、土木作業や松根油作りに

従事したりと、さまざまにわかれていきました。

土浦海軍航空隊ではグライダー特攻の訓練を行う予定でしたが、

6月10日にB-29による大規模な空襲をうけて壊滅的な被害を被ったため、

急きょ秋田県合川町(現北秋田市)の国民学校(現合川東小学校)を兵舎として、

甲14期生の一部がグライダーの訓練を行うことになりました。

 

髙橋勝司さんも、この秋田基地でグライダーの訓練を受けたお一人です。

予科練平和記念館には、この時の練習生が班ごとに写っている記念写真があります。

これは、髙橋さんと同じく秋田基地で訓練をなさっていた方が寄贈してくださったもので、

戦後、この時の仲間で集まったときに、当時の上司が持っていたこの班ごとの写真を

焼き増ししてくれたものだそうです。

 

番組内でもこの写真が出てくると思いますので、ぜひご覧になってみてください。

授業や訓練を受けている様子の写真も、記念館が提供しています。

また、もしカットされていなかったら、よれよれに疲れた私Wもちょこっと映るかもしれません。

 

 

②1月28日(月)22:00~22:50 NHK総合

「ファミリーヒストリー 新浪剛史 編」

 

みなさんも日頃お世話になっているでしょうか。

コンビニ「ローソン」の代表取締役社長さんです。

この方のご親族にも予科練生がいました。

前述の髙橋勝司さんと同じ甲14期生ですが、空襲で戦友を亡くしてしまいます。

自分の身代わりのようにして戦友を亡くしてしまったことを、とても悔いていたそうです。

戦友の名前は、空襲で犠牲になった方の慰霊塔に刻まれていました。

 髙橋さんの回と同じように、訓練や授業風景の写真を提供しています。

 

どちらの回も、きっと見ごたえのあるものだと思いますので、

お時間があいましたら、ぜひご覧ください。

 

NHK ファミリーヒストリー

http://www.nhk.or.jp/program/famihis/

 

 

 

新年のご挨拶

1月 4th, 2013

 新年、明けましておめでとうございます。

 

 旧年中は、予科練平和記念館にご来館いただき、誠にありがとうございました。

 当館では、新たな年を迎え、なお一層充実した内容をご提供し、皆様のお越しをお待ちしております。

 “今を生きる人たち”に阿見町の歴史遺産である予科練の歩みを正しく伝承し、次世代への橋渡しをすることが予科練平和記念館の大きな役割と考えております。

 これからも魅力ある館運営に努めて参ります。

 今後とも、一層のご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げ、新年のご挨拶といたします。

 

平成25年1月吉日

予科練平和記念館 館長 加藤力男