回天の出撃は昭和19(1944)年11月8日から始まりました。訓練開始から約2ヶ月後でした。イ36潜、イ37潜、イ47潜という大型潜水艦3隻にそれぞれ4的の回天が搭載され、計12的の回天が大津島基地から南太平洋を目指したのです。この初回の出撃は「菊水隊」と命名されています。
当時のイ号潜水艦(全長100mを超える大型艦)は、日本と例えばアメリカ西海岸・カリフォルニア沖まで往復できるほどの航続距離をもっていました。ですから、回天特攻隊は瀬戸内の訓練基地(大津島、光など)から外洋へ出撃したのです。また、終戦間際になると、本土防衛のため日本の太平洋沿岸に設けられた基地回天隊において出撃待機をした場合もあります。
「菊水隊」には、訓練中に殉職した黒木大尉の盟友・仁科中尉も名を連ねています。仁科中尉はウルシー環礁を目指したイ47潜に乗り込んでいました(イ36潜もウルシー環礁を、イ37潜はパラオ・コッスル水道を目指していました)。回天特攻が始まった当初は、停泊している敵艦を攻撃する「停泊艦攻撃」が作戦の主流でした。昭和19年11月頃には、サイパン・テニアン・グアムなどを含むマリアナ諸島、またその直前に「レイテ沖海戦」で有名なフィリピンでの戦闘にも日本軍は敗れフィリピンも陥落していました。アメリカ軍は沖縄などへ北上するため、マリアナ諸島とフィリピンを結ぶ線上に軍艦を停泊させていた状況でした。
11月20日早朝、仁科中尉を含む回天5的がイ36・47潜から出撃しました。仁科中尉は、首に盟友・黒木大尉の遺骨が入った白木の小箱を提げ「後を頼みます。出発します」の言葉を残して潜水艦を離れたと伝えられます。
午前5時47分とのことです。海上に大火柱が立ち上がりました。給油艦「ミシシネワ」に回天が突入したのでした。潜水艦内で起きたどよめきには喜びと悲しみが入り交じっていたと伝えられています。
反対にアメリカ軍にとっては、まさに「青天の霹靂(へきれき)」とも言うべきことが起きたわけです。とにかく驚いたことでしょう。戦争の常ですが、回天特攻の成功によって命を落としたアメリカ軍兵士がいたわけです。その人たちにも家族がいたことを私たちは忘れてはなりません。
この成功が幸だったか不幸だったか、とにかくそれ以後、アメリカ軍の監視は厳重になり、停泊艦への回天特攻は成功率が極端に低くなったようです。アメリカ軍にとっては当然の措置と言えるでしょう。
また、同時に出撃したイ37潜はパラオ・コッスル水道で駆逐艦のソナー探知を受け、2隻の駆逐艦による爆雷攻撃を受けた果てに回天を搭載した母艦ごと爆発することとなりました。このように出撃を果たせず戦死した回天特攻隊員も多く数えることになります。
潜水艦に搭載された回天がすべて出撃できたわけではありません。回天が故障した場合、敵の潜水艦に対する攻撃により回天が破損した場合、また作戦変更により呼び戻される場合、など戦場と日本の基地を何度か行き来した隊員もいました。
しかし、決死の覚悟を決めて一度旅立つと日本に戻ることには大きな抵抗感が生まれたようです。日本の基地に待つ隊員の間にも何かしら「逃げてきた」というような不合理にして不人情な空気が醸されていたと言われます。この結果、進んで何度でも出撃する隊員が、つまり「早く死ななければならない」と悲壮な思いを抱く隊員が出ることにもなりました。