特別展「回天」へのいざない⑨

10月 27th, 2012

 今回の特別展「回天」を開催するにあたり、戸張礼記氏(元甲飛14期生・予科練平和記念館歴史調査委員)に講師をお願いし、阿見町内の小・中学生に戦争、予科練や回天特攻などの授業を受けてもらいました。

 私自身も戦争を全く体験したことがない世代に属しますが、先人が残してくれた記録を学び、また昔を知っている方から直接お話しを聞きながら、可能な限り学んでいきたいと考えています。

 授業を受けてもらった小・中学生には作文を書いてもらい、そのうちの何点かを今回の特別展でパネル展示しています。それらを読むと、戦ってくれた方々に残していただいた今の戦争のない世の中に生きる私たちの思いは、老若男女、大きく変わらないものであることが分かりました。

 戦争、即ち人殺しを、決してゲーム感覚で捉えることなく、戦争がないというこの上ない幸せを享受していることに私たちは感謝しながら生きていかなければならないと思います。また、最近再びクローズアップされてきた感のある「いじめ」もしてはならないことです。いじめもまた「人殺し」です。

 私たちは知恵を働かせ、同時に想像力と隣人愛の精神をもって、移り変わりが激しいこの世の中で、乱れを絶えず修正しながら生きていくしかないのではないでしょうか。

 今回は少し長くなりますが、特別展でパネル展示をしている小・中学生の作文をこれからご紹介します。

 

「予科練生の思い」(中3・男性)                      

 僕が見た遺書の中にはこのような文章があります。「お母さん、私はあと3時間で国のために散っていきます。心は日本晴れ」これは、回天の出撃を待つ特攻隊員の遺書の書き出しです。予科練を卒業した人たちの中には、30歳にもならないうちに国のため、戦争で勝利するために命を捧げた人がいるのです。僕にしてみれば、国同士の戦いに巻き込まれたあげく、命を国のために使え、つまり死ねと言われた人たちは単なる被害者だと思っていました。しかし、戦った人たちの写真や日記、遺書などを見ていると、どうもそのようには考えられなくなってきました。むしろ、国のために命を使えと言われて誇らしかったのではないか、と思ったのです。「国のために散っていきます。心は日本晴れ」という文からも、そう考えられました。

 予科練生たちも、初めは死ぬなんて嫌だったのではないでしょうか。しかし、自分の命を大切なものを守るために使えるならば本望だと考えが変わっていったのではないかと僕は思いました。だから、戦争で亡くなった人たちの死は、とても大きな意味を持つと思います。

 死については毎日のニュースでも耳にします。時々「死ぬとどうなるんだろう」「死にたくないな」などと考えることがあります。でも深く考えないようにしてきました。もし、自分が戦争に出て、自分の身に死が近付いてきたらどうなるだろうとも思います。昔、戦った人たちの遺書を見ると後悔など1つもないように感じられます。僕も、もう一度死について考えさせられました。しかし、よくは分かりませんでした。

 ただ、1つだけ、「心は日本晴れ」といつでも言えるような生き方をしていきたい、そう思いました。

 

「予科練平和記念館を見学して」(中3・女性)

 自分たちと同年代の多くの人たちが戦地へ行っていたことを聞いて、私は大きな衝撃を受けました。自分のやりたいこともできず、大切な人や家族ともなかなか会えず、毎日辛い訓練をしてまで「日本を守るために、大切な人を守るために」と努力していたことを知り、私は予科練生たちがしていた訓練の過酷さを初めて知りました。そして特別攻撃隊として多くの予科練卒業生が戦場へ赴き、その中の多くは日本へ戻ることなく戦死していったことも知りました。

 私が同じ立場だったらと考えると、戦争に行くということは「死」を覚悟しなければならないことなので、今の私には素直に受け入れることが出来ず、戦争へ行く運命の悲しさから立ち直れないような気がします。死を覚悟して戦場へ旅立った予科練生たちは本当に勇敢だと思います。また、この人たちは「日本の誇り」であると思いました。

 終戦を迎えてもう60年が経ちました。私たちは戦争についてまだほんの一部しか知りません。今をこんなに幸せに生きられるのは戦争で亡くなった人たちのおかげです。すべてに対して感謝の心を持ち、日本には辛い歴史があったことを決して忘れてはならないと改めて考えました。

 戦争で亡くなった人たちのためにも、自分たちにできることはどんどんやっていきたいと思います。

 

「感謝」(中3・女性)

 私は今回改めて予科練、特攻隊、戦争について学びました。その中でも、阿見町が海軍と深い関係をもってきたことを知り驚きました。また、自分がどうなってしまうのか分かり切っているのに、爆弾を積んだ特攻機に乗り込んだことなどを知り、私は何とも言えなくなりました。特攻という必死の攻撃をしなければならないほど戦争は激しく、厳しいものだったことを改めて知りました。

 予科練平和記念館を見学して、戦争は恐ろしいと実感しました。予科練出身者だけでも約一万九千人もの命を奪った戦争のことを、私たちは絶対に忘れてはならないと思いました。今の平和な社会には、戦争と向き合った1人1人の思いが込められているように思います。特に特攻隊員たちの「自分たちは死んでも守りたいものを守るのだ」このような強い意志が私たちを生かしてくれていることを考えさせられました。

 昔、本当に戦争があったのだと思うと胸が苦しくなります。今ある平和を当たり前と思ってはいけません。平和な世界がどれほど幸せなことか、私たちは常に考えなければならないと思います。そして、生きたくても生きられなかった人たちの分まで、私たちは生きなければなりません。

 戦ってくれた人たちへ、また今ある平和に心から「ありがとうございます」と言います。この感謝の気持ちを生涯忘れず生きていこうと思います。

 

「時代を越えて伝えられるもの」(中3・女性)

 私は、阿見町で生まれ育ち、平凡でも幸せな日々を送っています。しかし、今から60年以上前にはこの町に予科練があり、自分と同年代の少年たちが飛行機乗りになるために厳しい訓練を受けていたことを知りました。そして驚くことに、当時の少年たちにとって予科練は憧れの存在であったらしいのです。なぜなら、当時の少年たちは「自分の命を犠牲にしてでも守るべきものを守る」と教育されていたからです。命が大切だと教わっている私にとって、戦争はとても怖いものです。戦争のために家族と離れてまで訓練を志願することなど今の私は望むことができません。教育はいつの時代にも大きな影響力をもつと改めて感じました。

 予科練を卒業した後、中には爆弾を付けた飛行機や魚雷を改造した回天に乗って敵に体当たりする特攻に駆り出された人たちがいました。そして大勢の若者が戦死していきました。いつの時代でも、誰かを愛したり将来に夢や希望をもつものでしょう。予科練生たちにもそういう思いがあったのではないでしょうか。自分を犠牲にして死んでいった若者たちは、今の日本や今の私たちをどのような思いで見ているのでしょう。

 私たちがすべきことは、誰もが安心して暮らせる平和な社会を引き継ぐことです。そのためには政治に関心をもったり、後から生まれてきた人たちに戦争の悲惨さや命の尊さを私たちが伝え続けることが必要です。

 私は、現在の平和に感謝しながら、戦死した人たちが果たせなかった夢や希望を胸に精一杯生きていきたいと思います。時代を越えて同じ阿見町で生きる私たちに、彼らの思いが託されているような気がしてなりません。

  

「予科練習生」(中3・男性) 

 僕は、特攻隊員になった人たちは本当にうれしかったのかな、と疑問に思いました。遺書には特攻隊に選ばれたことを誇りに思うということが書かれてありましたが、本当は嫌ではなかったのか、と疑問に思ったのです。家族は遺書が届いたときに悲しくて泣いたのではないでしょうか。しかし、もしそこで泣くなら、軍隊へ志願させてはならなかったのではないか、とも考えました。もし、今の自分が親であったなら、子どもが特攻隊員となることを止めるかもしれません。しかし、当時の親は、死んでも国を守りたい、と言う子どもの意志に逆らえなかったのかもしれないと考えました。子どもを死なせてしまうことになっても、子どもの意志を尊重した親の心に僕は心を打たれました。

 戦争が終わる頃になって飛行機も少なくなり、魚雷を改造した「回天」という特攻兵器ができたことも知りました。一度発進してしまうともう死ぬほかなく、また訓練中でも事故で死んでしまった人があるなど、そのような危険な兵器に乗り込もうと覚悟を決めた勇敢さは僕には真似が出来ないとも思いました。

 しかし、回天を作ったり攻撃を命じた軍の上層部の人たちは、若者の命をなんだと思っているのか、そんなに軽い命と考えていたのか、など怒りを覚えました。上層部の人たちこそまず命をかけた特攻をしてみろ、と思いました。

 昔は、身分が上の人のことを黙って聞くしかないところがあったのかもしれません。ただ、今を生きている僕がもし人の命を預かるようなことになった場合、まず命を大切に守ることを考えたいです。

  

「予科練平和記念館に行って」(中3・女性)

 私の印象に強く残ったのは予科練生の年齢です。私たちとそれほど変わらないというのに、一生懸命、訓練に励む姿に心を打たれました。予科練平和記念館には遺書が展示されていました。その中には、親への感謝の言葉がありましたが、戦争に参加できることを誇りに思っているようなことも書かれていました。私には信じられませんでした。あんなに若いのにもう死を覚悟しているからです。戦いに行くことは死ぬかもしれないことなのに、それでも戦い続けることは私にはとても辛いことと感じられます。

 また、回天や桜花などの特攻兵器についてですが、なぜこのようなものを開発してしまったのだろうと、疑問とともに悲しみを持つばかりです。「人の命をなんだと思っているんだ」と憤りを感じました。

 今回、改めて予科練平和記念館で学習したことにより、私は生きられることのありがたさを知りました。もう2度と戦争がなければよいと思います。

 自分が住んでいる阿見町に昔海軍の施設があり、空襲も受けたことなど知らずに生活してきましたが、情けないことだったと思います。また、阿見町でも訓練を受けていた予科練生が戦場に行ったときの気持ちも考えながら、これからしっかり生活していかなければならないと強く思いました。

  

「予科練の少年と今ある命」(中3・女性)

 私は阿見町に予科練があったことを初めて知りました。記念館で当時の映像や写真、手紙や遺書などを実際に見たとき言葉を失いました。また、空襲の映像室で空から爆弾が落ちてくるのを見て、この場にいた人はとてつもない恐怖を味わったのだと思うと胸が締め付けられる気持ちになりました。

 特攻の映像室では私たちとあまり年齢が変わらない少年たちが戦地へ飛び立つ映像を見て、こらえていた涙があふれてきました。もう会うことが出来なくなるかもしれないと親に宛てた遺書を見て、少年たちの本当の思いを知りました。国を守るため、家族や大切な人を守るために戦いに行く、そしてひと目お母さんに会いたかったなどの本当の気持ちが書かれていて、自分の命を犠牲にしてまで戦地に赴こうとするその思いが私にはとても辛かったです。自分の命を戦争で使いたくないと思っていましたが、命をかけてまで戦ってくれた人たちがいるからこそ今の私があるのだと思うと、1人1人の命のあり方、重さについて深く考えさせられました。時代は大きく変わりましたが、自分たちが今生きていられるのも戦争を戦ってくれた人たちのおかげだと分かり感謝の気持ちが生まれました。

 現在、簡単に自分の命を捨ててしまう人が多くいますが、食べ物がなく生きたくても生きられない人たちもいます。そのようなことも決して忘れず、日本で平和に生きていけることに感謝していきます。

 私は、昔の阿見町のことや戦争で犠牲になった人たちのことをもっと知らなければならないと思いました。そして多くの人によって自分が生かされているのだということを忘れずに、1日1日を大切に生きていきたいと思います。

  

「予科練平和記念館を見学して」(中3・男性)

 僕は予科練平和記念館に行き、初めて回天という言葉を聞きました。回天は魚雷を改造したくさんの爆薬を積んだ特攻兵器で、自分の命を犠牲にして敵艦に体当たりするものだそうです。それを聞いて、僕はすごく驚きました。恥ずかしいことを言うかもしれませんが、自分の命を捨ててまで、国を守る必要はあるのだろうかと考えてしまいました。

 僕は特攻という任務のために命を犠牲にすることを決めた人の心はどのようなものだったのかと考えました。回天の資料には、任務につくのが分かったときには人生とは何か、なんのために人は生きるのか、死とはなにか、などについて急いで心をまとめることが書いてありました。今の自分には短い時間の中で人生について考えをまとまることなど無理なように思います。それだけ回天の任務についた人たちは覚悟を決めたのだな、と驚きました。

 戦争を体験した人たちは亡くなっていきます。僕は予科練平和記念館で学んだことを多くの人に伝えていきたいと思いました。そして、それがどんどん次の世代へと受け継がれればよいと思っています。これから自分でもいろいろ学んでいきたいと考えています。

 

「命の重さ」(中3・女性)

 私はまだ戦争について多くのことを知りません。今回、予科練平和記念館で学習した中で、戦争当時、国のために自分の命を犠牲にする、自分が死ぬことによって自分の守りたいものを守る、という考えがあったことがとても心に残っています。しかし、必ず死ぬことが分かっている特攻隊として出撃を命じられた人たちはどのような気持ちだったのでしょうか。自分の命の使い方は自分のために自分が決める、という現在の考え方とは大きな差があります。ただ、一方で、家族のこと、特にそれまで大切に育ててくれた母親のことを考えるとえると、やはり悲しかったのではないかと私は思いました。

 私のひいおじいちゃんも太平洋戦争に出兵した1人でした。無事に帰ってきてくれましたが、今でも終戦記念日には涙を流しています。当時の複雑な気持ちを思い出すのでしょう。とても辛く、苦しい思い出なのだと私は思っています。

 しかし、ひいおじいさんのように生き残れなかった人たちが数多くいます。今、私たちがこうして平和に生きている日本があるのは、国を守るために自分の命を犠牲にしてくれた人たちのおかげなのです。

 私は、戦死していった人たちに心から感謝して生きていきたいと思います。これからの日本がますます平和によい国になるように、私も出来ることに精一杯取り組んでいきたいと思います。

 

「感謝して」(中3・女性)

 私はこれまで歴史の授業で戦争について少し学んだことはありましたが、自分の命が失われることで他人の命が守れるならば、と覚悟を決め戦った人たちがいる戦争について更に知り、悲しい気持ちになりました。

 特攻兵器の人間魚雷「回天」ですが、魚雷を改造して人間が乗れるようにした兵器ということです。私が住む阿見町で予科練生として訓練を受けていた「甲飛13期生」からも回天搭乗員が選抜され、そして多くの人たちが戦死したことを知りました。一度出撃したら生きて戻れない回天に乗り特攻をしても、敵艦に体当たりできたばかりではないことを知り、何とも言えない気持ちになりました。私だったら、回天に乗り込む覚悟ができたかどうか分かりません。

 予科練平和記念館では空襲や特攻の映像を見ました。東京や広島、長崎だけでなく、この阿見町にも空襲があったことを知りとても驚き、また悲しく思いました。特攻では爆弾を積んだ飛行機に乗り敵艦に突っ込んで行った人もいるそうです。中には敵に体当たりすることが叶わず、亡くなった人がいることも知りました。「特攻」の部屋の壁には戦死した予科練生の数だけ明かりが灯されていました。私はこれほどの人が戦死していったことに涙が出そうになりました。

 映像に出てきた兵士の中には険しい顔をしている人がいました。覚悟を決めていたとは言え、やはり死に臨むことに対して様々に思うところがあったのではないかと考えました。私はこの先このような悲しい出来事が起きなければよいと思います。そして過去に戦争があったということを、私は語り継いでいきたいと思います。

  

「命のメッセージ」(中3・女性)

 予科練生については小学生の頃に少しだけ聞いたことがありました。なんでも昔、まだ戦争をしていた頃に阿見町には戦争に行く兵士を訓練する学校のようなものがあったそうです。当時、私はこの話を聞いてもただ「そうなんだ」と思うだけで、とくに興味をもてませんでした。しかし、改めて予科練について学び、私はそれがどのような場所だったのか理解することができました。

 予科練には私と同年代の少年が集まっていたそうです。家族の元を離れ、戦争に行くために厳しい訓練をし、さらには戦場で死んでしまう確率が高い攻撃を命じられようとしているのに、それが「日本のためになるから」と受け入れて入隊することが私には信じられませんでした。

 私には「なぜ」という気持ちがずっとありましたが、予科練生の手紙などを見て、彼らがなぜ自分の死を受け入れたかを知り何も言えない気持ちになりました。彼らは家族を、また祖国を守るために死地に向かうということです。私は、そのような考えを持たせてしまった当時の環境、またその考え方を信じて戦死していった少年たちを悲しく思いました。飛行機乗りに憧れた少年たちの、まだ見ぬ未来を破壊した戦争に悲しくなりました。このような戦争は、決して繰り返されてはならないことです。

 多くの人が戦死し、多くの人が悲しんだ戦争の恐ろしさを、今、私は垣間見ることができました。だから、その恐ろしさを自分の命をもって教えてくれた彼らに、私は「ありがとう。あなたたちのおかげで、日本は平和になりました」と言いたいと思います。

  

「予科練平和記念館に行って思ったこと」(中3・男性)

 もし、今戦争が始まったら、僕はまず家族のことを考えます。今まで育ててくれたお父さんお母さん、いろいろなことを教えてくれたおじいちゃんおばあちゃん、そして兄弟の顔を思い浮かべるでしょう。そのような親しい人たちと別れて戦争に行くのは、とても辛いことだと思います。それなのに、昔の青年は国のために戦う誇りなど、僕には強気とも思える内容を遺書にまで残しています。それを見て僕には戦争に対する怒りがこみ上げてきました。若くして厳しい訓練を受け、戦場ではかなく命を散らした同年代の青年たちのことを思うと、涙が出てきそうになりました。戦争というのはとても悲惨なものだと改めて感じました。

 特攻についても考える機会がありました。

 戦闘機に爆弾を付けて敵艦に体当たりをする「神風特攻隊」、潜水服を着て敵の船を待ち伏せる「伏龍」、人間が操縦できるように魚雷を改造した「回天」など様々な特攻作戦があったことを知りました。いずれにしても自分の命を犠牲にする捨て身の作戦でした。僕はこの捨て身の作戦について、青年たちの命を奪ってまで行うべきだったのか、他の方法はなかったのか、など疑問が次々にわきました。もっと人の命を大切にする方法を考えるべきだったように思います。

 これからの日本や世界の未来は僕たちにかかっているので、戦争の非情さなどを僕の後の世代にも伝えていき、2度と戦争のない、豊かな自然に囲まれた平和な国を築いていけるように努めたいです。

 

「予科練平和記念館を見学して」(中3・男性)

 僕は予科練平和記念館を見学して、特に印象に残ったことが2つあります。

 1つは、戦争のときの阿見町のことです。僕は予科練平和記念館を見学するまで阿見町に予科練があったことも、阿見町がアメリカ軍のB29に空襲を受けたことも知りませんでした。しかし、記念館を見学して、空襲を受けた当時の人たちの気持ちが少しだけ分かったような気がしました。戦争中に生きた人々は空襲がいつくるのか「今日か」「明日か」と恐怖心に震えながら生きていたでしょう。空襲で難を逃れ生き延びた人々は、その時の恐怖感をずっと抱えながら生きていくしかないということを想像するだけで胸が痛みました。そして、運悪く空襲で亡くなってしまった予科練生や阿見町の住民は本当にかわいそうだと思いました。

 もう1つは特攻のことです。そもそも、特攻とは具体的にどんなことを指すのか、僕はよく分かりませんでした。

 特攻とは「特別攻撃隊」の略称で、中でも「神風特攻隊(飛行機)」「人間魚雷回天」「人間爆弾桜花」「人間機雷伏龍」などが代表的な攻撃手段で、どの攻撃も搭乗員が自らの命を犠牲にするものだということを知り、僕は絶句しました。どうして当時の日本軍は人の命を軽く扱うようなことを平気でできたのか、僕には理解できませんでした。それ以外に作戦がなかったと言うのなら、その作戦を考えた軍部の人はどのような思いだったのか、僕は強く疑問に思いました。

 今を生きる僕が、戦争の当時、特攻作戦を命じられても恐ろしくて出来ないような気がします。そう思うことでも今回学んだことをずっと忘れず、これから生活していきたいと思いました。

  

「青藍の空」(中3・女性)

 予科練生は何を思って自ら入隊したのか、以前から私は疑問に思っていました。「そういう時代だったのだろう」など軽く考えていた自分が恥ずかしいです。私たちと同年代の遊びたい盛りの少年たちは、家族への思い、祖国愛、そして正義感が強かったのではないでしょうか。遊びたいのも我慢して故郷の母を想いながらお国にために厳しい訓練を耐え抜く、しかも言い方は適切ではないかもしれないけれど、自分が死ぬことを前提になど、私には、いや私たちには考えられないことだと思います。親の言うことも聞かず、だらだら毎日を送っている自分が情けなく思えました。

 回天について知ったときは頭を殴られるような衝撃を受けました。以前から特攻隊というものがあったことは知っていましたが、まさかここまで残酷なものとは予想できませんでした。戦況が悪化していたからなのでしょうが、年齢も私と大して違わない少年たちが特攻に駆り出されるとはひどいと思いました。特攻作戦にまで進んだのは完全に軍上層部の責任ではないのでしょうか。そう思うことさえ許されなかった彼らを特攻作戦の犠牲にしたことは絶対に許せないと思います。むしろ戦争を起こしてしまったことが一番許されないことではないでしょうか。

 尊い命を物のように扱うことは絶対にあってはならないと思います。戦争は絶対にあってはならないことです。私は今、改めて痛感しています。「生きるために生きる」私はこの言葉を信じ、生きることを義務として生きてゆくことをここに誓います。

  

「尊い命」(中3・男性)

 特攻隊として戦場に行った人々の、自分の命を犠牲にして家族や日本という守るべきもの、守りたいもののために特攻隊として攻撃に向かうという考えに僕は心を打たれました。守りたいものがあるからといっても、自分の命を犠牲にすることは、今を生きる僕にはそう簡単にできることと考えられません。

 人間魚雷「回天」と呼ばれる特攻兵器があります。自分が死んでしまうというのに難しい操縦方法を覚えたり、息が詰まるような狭い場所で出撃の覚悟を決めたり、僕にはとてもまねが出来ません。もし、その立場に立たされたら、僕は現実逃避してしまいそうです。

 僕と同じくらいの年齢で戦場に行き、死を選択せざるを得ない人たちがいたことを学び悲しく、そして悔しく思いました。まだ完全には自立出来ていなかっただろうに、家族のため日本のため、友のためにこの世を去っていった人たちがいるということは、あまりにも悲惨ではないでしょうか。だから、今を生きる僕たちが戦争の悲惨さや恐ろしさを伝えていき、平和な社会をこれからも築いていきたいと思いました。

 争いがない、人々に笑顔のあふれる日々を続けられるよう、意見の食い違いがあったら相手の意見も尊重し、お互いに尊重しあえるようになりたいです。

 命の尊さやはかなさなどを今回改めて考えさせられました。昨日までより1日1日を大切に出来る自分、そして明るい自分になれるように、僕はしっかり考えて行動していきたいです。

 

「感謝して」(中3・女性)

 私には、戦地へ旅立った人が書いた遺書がとても印象に残っています。若くして戦争に行った人が多く、そのためか母親に向けた内容が多かったように感じますが、「苦しい」「死にたくない」などという言葉は一切なく、自分は国のために死んでいくことを誇りに思うこと、恩返しも果たせずに死んでいくことは申し訳ないが、自分が死んでも黒い着物など着ずにお母さんにも喜んでほしい、といった内容が書かれてありました。弱音一つ表さないことに私はとても驚きました。

 戦争に行き死ぬことが怖くないはずはないと私は思うので、自ら進んで軍隊に入ろうとする気持ちを私はまだ理解できないところがあります。おそらく国を、家族を守りたいという一心だったと思いますが、今の私にはまだ、どうせ死ぬなら最後は家族と過ごしたい、という気持ちが強いです。ですから、国を守るために、また家族を守るために自分の命を犠牲に出来ることは、このような表現が適切かどうかわかりませんが、尊敬に値することだと思います。私もいつか自分を他人のために役立たせられる人間になりたいと思いますが、特に「死」に関しては私には遠い遠い出来事のように感じられ、実はまだよく分かりません。ですから、今の私は、自分に出来ることを精一杯やりたいと思います。

 現在の平和な日本は戦争を戦ってくれた人たちがいるからこそあるものだと分かりました。だから戦争で死んでいった人たちが命がけで守ってくれたこの日本を今度は私が守りたいです。今の私にできることはいろいろ学ぶことです。今できることをしっかりやりながら、平和な日本を残してくれた人たちへの感謝を忘れず、私もいつか日本の役に立てるような大人になりたいと思います。

  

「命を大切にする」(小6・女性)

 私が予科練の話を聞いて一番心に残ったのは、若い男の人たちが国や家族を守るために覚悟を決めて戦い、死んでいったということです。私には到底できない覚悟だと思いました。

 その人たちの中には、人間魚雷「回天」に乗って戦った人がいます。発進したら生きて帰れない回天に乗る人はどのような気持ちだったのでしょうか。                    

 それから、今の中学3年生くらいの人たちが予科練に入って猛訓練を受けたことにも驚きました。私には考えられません。私は、戦い死んでいった人たちが残してくれたもの、伝えてくれたことを、絶対に忘れないで生きていきたいと思います。

 元予科練生のお話を聞いて、命の大切さを考え直してみました。今は自殺をする人が多いですが、戦死していった人たちが残してくれた命、親からもらった命を大切にしてもらいたいです。

 私は戦争のことなどあまりよく分かりませんでしたが、戦争は戦争を体験した人の心から絶対に忘れられない出来事だと思います。もしかしたら思い出したくないことかもしれません。ですから、もうこれ以上の人が戦争の犠牲にならないように今日教えてもらったことを絶対忘れずに、私が大人になったら自分の子どもや次の世代の人に必ず伝えていきたいです。それとともに、命の大切さ、命の尊さをいっしょに伝えていきたいと思います。

  

「戦争と平和について私が考えたこと」(小6・女性)

 今から何十年も前に、大空にあこがれて「海軍飛行予科練習生」つまり予科練に入隊する人たちがいたことを私は知りました。予科練に入隊した少年たちは、日中戦争、さらに太平洋戦争でアメリカ、イギリスなどと戦うことになったことを学びました。

 戦争を体験したおじいさんの元予科練生は、戦争は少年たちが夢見たような甘いものではなかったと語ってくれました。今の平和な社会のくらしは戦死していった若い人たちのおかげで、決して忘れることはできないと強く語ってくれました。

 昭和5年(1930年)に横須賀で予科練が誕生したこと、その後私たちが住む阿見に霞ヶ浦海軍航空隊、そして土浦海軍航空隊として予科練が移ってきたことを私は学びました。予科練を卒業した後、飛行機に乗る夢をかなえた人も多くいましたが、日本が戦争で不利になると、人間魚雷「回天」などの特攻で戦死する人が増えたそうです。国と愛する人を守るために最後まで勇気を奮い立たせ戦った少年たちが、敵の軍艦めがけて突っ込んでいき、多く戦死したことを知り、私は考えさせられました。

 特攻について私はとても残酷なことだと思います。私たちの「今」は戦死していった人たちのおかげであり、その人たちの思いを私はこれから伝えつぎ、平和な社会をずっと守っていきたいです。

 

「戦った予科練」

 僕は予科練について調べました。昭和時代に太平洋戦争が行われていたそうです。戦争では、多くの若い男の人の命が犠牲になりました。その戦争を戦った人たちは、日本と家族の未来を守ろうとして命をかけて戦ったと聞きました。予科練生は戦争にそなえ、1万メートル競走、うさぎ狩り、行軍、艦務実習など厳しい訓練を行っていたそうです。

 戦争で犠牲になった人たちのおかげで日本が守られてきているので、僕は本当に感謝しなければならないと思いました。また、もう2度と戦争が行われないように、日本の国中がみんな仲良しになり、たいへんな時や辛い時にも協力して、他の国にも力を貸せるようになればよいと思います。

 今、日本では戦争がなく、いつも平和な日々が過ごせているので、これからもこのような日が続けられれば本当の平和だと思いました。僕には大きな力はありませんが、小さな力でも皆で力を合わせれば大きな力になると思います。だから、平和な日本の役に立てるように、僕もやれることを頑張りたいと思います。

 

「予科練の人々」(小6・男性)

 僕は自分が住む阿見町に、昔、海軍の基地があったということもよく知りませんでした。今回、元予科練生の方のお話を聞いて、自分が知らない阿見町のことが分かったと思います。

 僕とそれほど年齢が違わない人たちが予科練に入隊して、戦争で勇敢に戦うために厳しい訓練を受けていたそうです。戦争が終わるまで、そのようなことがこの阿見町でも行われていたことを知ってとても驚きました。練習機の「赤とんぼ」が吉原小のあたりを飛んでいたことを聞き、その姿を見てみたいと思いましたが、戦争のための訓練ということを考えると、ただの飛行機が見える今の空がよいのだと思います。

 予科練を卒業した人のうち、3千人近い人が特攻で戦死したそうです。人間魚雷「回天」や特攻艇「震洋」などの特攻兵器が敵艦めがけて突っ込んでいきました。国を守るために自分の命を犠牲することができた人がいたからこそ、今の平和な暮らしがあるのだと分かりました。そのような歴史があることを忘れずに、僕はもっと学んでいきたいです。

 

「戦死していった人たち」(小6・男性)

 戦争で戦死していった人たちの中には、特攻兵器で敵艦を沈め、敵を倒したかわりに死んでいった人がいました。僕は、そのような特攻兵器を作ってばかなことをしたのではないかと思いました。でも、そのために戦死していった人たちは、自分の家族のことや、僕たちのように後に生まれる人のことを守ろうとして死んでいったのだと考えました。だから、僕は戦死していった人たちのことを思ってこれから生きていかなければならないと思いました。

 そのためにも、今回まず予科練のことをたくさん勉強しようとしました。そして、戦争をやってはいけないと思うようになりました。

 しかし、やってしまったことは後戻りできません。ですから、僕は戦死していった人たちのことを思いながら明日からこの世界で生きていきたいと思います。皆さんにも戦死していった人たちやその親、家族のことを思いながらこの世界を生きていってほしいです。そうすれば戦争のない世界、宇宙ができると僕は思います。皆さん、協力し合いながらこれからを生きていきましょう。

 

「予科練を学んで」(小6・男性)

 戦争で人間魚雷「回天」や人間爆弾「桜花」に乗って死んでしまった人たちの中には、予科練を卒業した人たちが多くいたと聞きました。特攻兵器の回天は脱出装置もなく、発進したら爆発して死んでしまうしかないそうです。だから回天に乗る人は、祖国を守るために自分の命を失う覚悟ができているのだと思いました。

 回天には爆薬が1.5トン積んであったと聞きました。回天に突入された船は沈むと思いました。回天以外にも、爆弾を積んだグライダー「桜花」や、飛行機に爆弾を積んで体当たりするなどいろいろな特攻のやり方があることを知りました。

 僕は戦争はよくないと思いました。また、戦争はどうして起きてしまったのかなとも考えました。そして、戦争は2度と起きない方がいいと思いました。人間魚雷回天や人間爆弾桜花などに、もう1人も乗ってほしくありません。これからずっと戦争がない社会であればうれしいです。

 命が重いということを僕は学びました。

 

「命」(小6・女性)

 もうお年寄りになった元予科練生から、少年の時予科練に入り、国や家族を守るために命を投げ出してまで勇敢に立ち向かおうとしたお話を聞いて、私は「国のため家族のために使った命を決して忘れてはいけない」と思いました。

 今、私たちは、太平洋戦争で国や家族のために命を落とした若い人たちがいるから、このように平和な社会で遊んだり、勉強したり、おいしい給食を食べながら生活できているのだということが分かりました。

 人間魚雷という言葉を初めて聞いたとき「えっ、なにそれ」と思いました。敵艦に当たっても当たらなくても、回天は死ぬしかない特攻兵器だと知り、私はいろいろ考えてしまいました。

 自分の命を犠牲にして私たちを守ってくれた人がいるから、今の日本があることを知りました。だから、私たちは自分の命も、また他人の命ももっと大切にしていかなければならないと強く思いました。

 

「予科練について」(小6・男性)

 みんな飛行機乗りになりたくて予科練に入り、そして厳しい訓練を受けたそうです。しかし、そのうち特攻部隊として、戦闘機で敵艦にぶつかっていき、多くの若者の命が消えていったことを僕は知りました。特攻兵器には人間魚雷「回天」もあったそうです。回天は人間1人がやっと乗れる兵器で、1度それに乗り込み発進するともう2度と戻ることはできません。敵が見つかり体当たりできてもできなくても、爆発して死んでしまうしかなかったそうです。

 自分の命を犠牲にして、家族や愛する人たちを守るために戦ってくれた人たちのおかげで多くの人が助けられたのです。だから、今生きている人々は、そのような人たちに感謝しなければならないと僕は思います。

 しかし、今の生活があるのは戦争に行って自分の命を犠牲にし、他の人たちの命を救ってくれた人のおかげなのに、それらの人たちに今生きている人は感謝しているのだろうか、と僕は疑問に思っています。ですから、感謝の気持ちがない人には、戦争に行った人たちに感謝してくれたらいいなと思います。そのためにも、僕はもっと学びたいと思いました。

 

「日本を守った男たち」(小6・男性)

 たくさんの若者が予科練に希望して入隊したことに僕は驚きました。1万メートル走や水に長く浮かんでいる訓練など、とてもつらく厳しい訓練があったと聞きました。僕は千メートルを走っただけでも疲れてしまうのにすごいなと思いました。また、成績が悪かったり先生の言うとおりに動けなかったら「バッター」という棒で思い切りお尻を叩かれることもあったそうです。

 そのようなつらいことがあるのになぜ予科練に入ることを希望するのか僕は疑問でしたが、元予科練生のお話を聞き、国や家族を守るため戦う覚悟をした人たちがいたと分かりました。そして戦争で多くの人が亡くなったことも知りました。飛行機に爆弾を積んで敵に体当たりする特攻だけでなく、たくさんの爆薬が積まれている魚雷に人が乗る場所を作った回天という特攻兵器もあったそうです。多くの人を守ろうと自らの命を犠牲にしたその勇気はすごいなと思いました。

 今、このように平和な日本があるのも、国を守ろう家族を守ろうと戦い戦死していった人たちのおかげだと思うようになりました。このまま平和な日本が続くように、僕もできることをやっていきたいと思います。

 

「戦争で散っていった予科練」(小6・男性)

 僕が予科練について学び、すごいなと思ったことは、戦争中に祖国や家族を守るため自分の命をかけて特攻兵器に乗り込み、そして戦死していった人たちがいることでした。特攻兵器には人間魚雷「回天」や人間爆弾「桜花」などがありましたが、特攻要員になるためには厳しい訓練を受けなければならなかったそうです。しかも、訓練中にも事故があり亡くなった予科練生がいると聞きました。特攻兵器には一度乗り込み発進するともう後戻りできないため、乗ったら死ぬほかないというものがあると知り、とても怖いと思いました。

 人間魚雷回天はハッチを閉めて出撃したら、また人間爆弾桜花は空中で飛行機から切り離されたら、敵艦に突っ込んでいくか途中で攻撃されて戦死してしまうかどちらかしかないと分かり、本当に怖いことだと思いました。

 今、こうして安全な暮らしができるのも、戦争で祖国や家族のために戦死していった人たちがいるからだと分かりました。そのことを、僕は決して忘れずに生活していきたいと思います。

 

 「元予科練生のお話を聞いて」(小6・男性)

 僕は元予科練生の方からお話を聞いて、この吉原の上空を練習機の「赤とんぼ」が飛んでいたということが耳に残りました。しかし、そのうち爆弾を積んだ飛行機に乗り、そのまま敵艦に突っ込んでいくという攻撃をしていたことが分かりとても驚きました。

 また、魚雷に人が乗れるようにして敵艦に体当たりする特攻兵器の人間魚雷「回天」があることも知りました。この回天に乗り込み、ハッチを閉じて出撃するともう死ぬほかないということです。それを知って、この回天に乗り込む人はとても勇気があったのだなと僕は思いました。

 回天のような特攻によって多くの人の命が失われていきました。だから日本を守るために「後を頼むぞ」と言って飛行機の乗り出撃した人や、回天に乗り込んで敵艦めがけて体当たりしていった人たちは本当にすごいと僕は思います。

 国や家族を守るため自分の命を犠牲にした人たちがいたからこそ、今の日本はあるのだと思います。ですから、自分たちはどのような小さなことでも争わないようにしていきたいです。

 

「予科練について学んだこと」(小6・男性)

 僕は予科練について学びましたが、予科練を卒業した後の約半年間「赤とんぼ」という練習機に乗って訓練していた人もいることを知りました。吉原小のまわりを飛行機が飛んでいた景色を想像すると、なんだかすごいなと思いました。

 予科練に入るためには難しい試験を受け、合格して入隊した後は厳しい訓練が待っていたそうです。そして予科練を卒業し、練習機で練習を積んだ後「零戦」などの戦闘機に乗り戦った人たちがいると聞きました。

 しかしそのうち、零戦にも爆弾を積んで敵艦めがけて体当たりをするなど特攻が始まりました。人間魚雷「回天」に乗り込んで敵艦へ突っ込み戦死していった人たちがいることも分かりました。

 この人たちは国のため郷里のため、そして親兄弟のために戦死していった人たちです。僕はその人たちの心を大事にしたいと思いました。戦死していった人たちの死がむだにならないように、今の平和が続くためのことを僕もしていきたいと思います。

秋の職業体験

10月 18th, 2012

みなさんこんにちは。

コミュニケーションインストラクター 山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室」を

毎週楽しみにしている学芸員Wです。

 

コピーライター 糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」というHPで

毎週水曜日に行進されるコンテンツなのですが、

一つのテーマで読者の方々がお書きになった小論文を紹介しながら、

山田さんが自身の体験も交えてテーマを掘り下げていくもので、

非常に深くまでものごとを掘り下げて、どんっと胸に体当たりしてくる言葉で

表現されているので、はっとすることがたくさんあります。

実の入った言葉の重み、というか、その人にとっての真実を表現した言葉の

力強さは、私Wも見習いたいなと思うところです。

 

・・・と書いて、なんだか以前にもこの話をしたことがあるような

気がしてきました。すみません。同じ話を蒸し返してしまって。

 

ここのところは、「人の品」とは何かについて議論されています。

確かに人の「品」ってありますよね。

一緒にいて居心地のよさを感じる方は、ほとんど全てといっても過言では

ないくらい、「人としての品」をお持ちだな、と思います。

でも、それってどこから出ているものなのでしょうか。

何をもって「品」を感じるのでしょうか。

 

個人的には、年齢に関係なく、「相手を思いやる心」や「謙虚さ」といった、

人として成熟した部分を持つ方に「品」を感じるような気がしていますが、

みなさんはどう思われますか?

 

 

さて、来週、お隣の土浦市から職業体験で中学2年生の女子2人が

来てくれることになりました。

学芸員のお仕事と、展示解説員のお仕事を1日で体験していただく予定です。

実はこの日、秋の行楽シーズンということもあって、現時点で8組246名様の

ご来館ご予約をいただいております。

2人にはかなりたくさんのお客様をお迎えしていただくことになりそうです。

ふだんの生活の中にはなかなかないシチュエーションだと思いますので、

大変ですが、頑張っていただけたら嬉しいなと思います。

 

今日は生徒さんから直接打ち合わせのお電話をいただき、

日程等を確認させていただきました。

相手方と電話をするのも体験の一つなんだそうです。

知らない大人と話して緊張していたと思うのですが、

しっかりとした口調で必要事項を確認していてさすがだなと思いました。

私など、いまだにはじめてのところに電話してアワアワしてしまい、

おかしな敬語を連発してしまったりするので・・・。

何事も落ち着きが肝心ですね。

かわいい中学生にお会いできるのが今から楽しみです。

 

また、先日台風のため中止になってしまった「まい・あみ・月夜」で

行う予定だった「くらやみ博物館」というイベントですが、

独立したイベントとして実施することにいたしました。

その名も!

「Night Museum ナイトミュージアム!」

 

…そのまんまです。

日時は11月30日(金)17:30~・18:20~の2回。

小学生からどなたでも無料でご参加いただけますが、

各回20名様限定のため、事前にお申し込みが必要です。

詳しいことは決まりしだい館のHP等でお知らせいたします。

普段は入れないまっ暗な館内をペンライトを持って探検してみませんか?

不思議でちょっぴり恐い夜のミュージアムを

ぜひ体験してみてくださいね。

 

今日、せっせと作ったポスターの原案を解説員さんたちに見てもらったところ、

「おもしろそう!」「怖っ」などいろいろなご意見をいただきました。

みなさんのお目に触れるのはもう少し先になりますが、

どこかで見かけていただけたら嬉しいです。

 

 

 

館のまわりは少しずつ秋色に変身中。

先日、来月のイベントの準備でおとなりの公園をひとまわりしたところ、

どんぐりがたくさん落ちていたり、いちょうが黄色く色づいていたり、

どこかにあるキンモクセイの香りがついた風が吹いてきたりして、

秋を実感しました。

 

秋はなんとなく「もののあはれ」的なものを感じる季節ですが、

この「あはれ」を感じるセンサーは、遠い遠い昔から

何度も何度も「あはれ」を感じてきたご先祖様から受け継がれたものなのかなと

思ったりしたのでした。

 

 

今日はお天気が安定しなかったので、館の入口に貸し出し用のカサが出ています。

ご主人とはぐれて久しいカサたちが、第二の人生で活躍してくれています。

ご来館くださったときに雨が降っていたら、お車やお隣の雄翔館まで、

どうぞご自由にお使いくださいね。

 

 

阿見町シルバー人材センター・ボランティア委員会の皆さん、草取り・草刈り作業ありがとうございました。

10月 16th, 2012

 

 

昨日は阿見町シルバー人材センター・ボランティア委員会の皆さん約40名が

集まり、当館の周りの草取りや草刈りをしてくださいました。

この日は、青空のもと気温25度と少し汗ばむ陽気でしたが、皆さんすごい

集中力で作業していただき、用意した120枚の大きなごみ袋が雑草で

あっという間にいっぱいになりました。

おかげさまでとてもきれいになり、来館されるお客様をも気持ちよくお迎えする

ことができます。ご協力いただいた皆さん、本当にありがとうございました。

 

 

特別展「回天」へのいざない⑧

10月 14th, 2012

 特別展「回天」の会期は、残すところ2週間余りとなりました。酷暑とも言える今夏2ヶ月半の間にも、多くの方々にご来館いただくことが叶いました。まことにありがとうございます。

 この予科練平和記念館にも秋の涼風が吹き渡るようになっています。回天記念館からお借りした資料は11月に返還となりますので、霞ヶ浦湖畔の秋涼を求めがてら、こちら予科練平和記念館で1人でも多くの方に回天搭乗員の足跡を知っていただきたいと思います。

 今回は回天特攻の戦果について書きます。

 昭和19(1944)年11月から始まった回天特攻は、潜水艦搭載による延べ32回(菊水隊・金剛隊、千早隊・神武隊・多々良隊・天武隊・振武隊・轟隊・多聞隊・神州隊)第18号輸送艦による1回(白竜隊)そして日本の太平洋沿岸に設置された12の基地回天隊(96的の回天が配備され待機)とまとめることができるようです。もちろん、終戦時に大津島、光、平生、大神で訓練中の回天搭乗員もいました。

 回天特攻も敵艦への体当たり攻撃です。しかし、1つ1つの回天が体当たりに成功したか否かは判然としないところがあります。それは、先回のブログでも少し触れましたが、初回の「菊水隊」による給油艦「ミシシネワ」への体当たりが成功して以後、アメリカ軍が厳重な警戒網を敷き、また駆逐艦等による潜水艦への爆雷攻撃が激しさを増したこともあって、停泊艦攻撃・航行艦攻撃に関わらず、回天を発進させた母艦の潜水艦が現場に長く留まれないために、回天特攻の成功を最終的に確認できなかったことが最大の理由です。

 戦果についてはアメリカ軍と日本軍の発表で数が違います。日本軍の記録では成功数が多くなっていますが、爆発音を遠く離れた潜水艦内で感知すると成功例と数えている可能性があります。操作の難しかった回天が本来の目的を果たせず、海底や珊瑚礁など岩場に激突し爆発した数が相当数あったと考えるのが穏当ではないかと私は考えています。

 また、アメリカ軍の発表に関しても、回天による被害を少なく発表していた可能性があります。例えば、終戦直後にサザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦は太平洋にあと何隻残っているか」と尋ねたそうです。そして一刻も早い戦闘停止令の周知・徹底を求めたと言われます。回天特攻を恐れていたアメリカ軍が日本軍を力付けないために実数を減らしていた可能性があると共に、被害を受けた軍艦があってもそれが魚雷攻撃によるのか回天によるものなのか、また機雷接触かなど原因不明が多かったという点も考慮しなければなりません。

 とにかく「回天」はアメリカ軍にとって脅威的な兵器であったことは間違いないようです。高性能な酸素魚雷の利点を受け継ぎ、存在感を消して大量の爆薬を積んだまま海中を突き進んでくるとなれば脅威そのものだったでしょう。

 以下、明らかにされている事実を記していきます。

◆回天を積んだ潜水艦の撃沈数→8隻

◆撃沈された潜水艦に搭載されていた回天数→35的(回天搭乗員も35名)

◆回天搭乗員戦死者→106名(訓練中の殉職者含む)

◆回天特攻作戦による戦死者→約1,300名(潜水艦搭乗員、回天整備員等を含む)

◆回天搭乗員名と特攻の成功が確認できる例→多聞隊(イ53潜)・勝山淳中尉(茨城県・水戸中学・海軍兵学校出身、昭和20年7月24日戦死)→駆逐艦「アンダーヒル」撃沈

 

 アメリカ軍の発表に基づけば、回天による体当たりの成功は4例を数えるばかりです。そして、戦艦や空母への体当たり例は報告されていません。

 実際には、成功例はもっとあったのかもしれません。しかし、現在を生きる私たちは、二度と回天特攻を行う必要がない、戦争のない社会を継続させる知恵を働かせることに力を注がなければならないはずです。それは、国の将来を思い戦死された方々が真に望んだことだと思うのです。

捲土重来

10月 6th, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

風にキンモクセイの香りが混じるようになりましたね。

栗、さつまいも、柿、ぶどう、秋刀魚・・・秋のおいしいものが

どんどん食卓に登場してきています。

今年も残すところあと3ヶ月になりました。

そう考えるとちょっと焦る気持ちもありますが、一日一日を

大切に、楽しんですごしていきたいものですね。

 

さて、お知らせしておりました「まい・あみ・月夜」でしたが、

台風の影響で残念ながら中止になってしまいました。

ご予定をたてていただいた皆さん、大変申し訳ございませんでした。

いろんなところから「残念だったね」というお声をいただいており、

また、関係スタッフも不完全燃焼のカタマリを胸にかかえておりますので、

また違ったかたちでのイベントを考えていきたいと思います。

お楽しみになさっていただけたら嬉しいです。

 

今日は、当館で7月に講演してくださった熟田鶴江さんの回顧展にお邪魔しました。

モダンな幾何学模様が情緒的でビビットな色彩を使って描かれている絵がとても

印象的でした。

幾何学模様の中には湖や山、人が描かれており、金箔が散らされて、絵画でありながら

工芸的なおもしろさもありました。

静物画も素敵で、厚く塗られた絵の具が躍動感たっぷりに生き生きと花をかたちづくっており、

熟田さんの心の中にいるであろう、おおらかで活動的な少女を思い起こさせました。

 

回顧展は明日まで、JR土浦駅西口前のイトーヨーカ堂5階、茨城県南生涯学習センターで

開催しています。

お時間がございましたら、ぜひお運びくださいね。

 

 

今日は土浦全国花火競技大会です。

全国から花火師さんたちが集まって、自慢の花火を披露する大きな大会です。

熟田さんの回顧展に行くために土浦市内を通りましたが、たくさんの人たちが

楽しそうに歩いていました。

土浦市内を流れる桜川沿いには、屋台がずらっと出ていて、空には

飛行船が浮んでいました。

 

この土浦の花火大会、開催のきっかけは海軍に関係しています。

大正10(1921)年、旧日本海軍航空の中心地として阿見町にひらかれた

「霞ヶ浦海軍航空隊」において、訓練中に事故で亡くなる人が多かったことから、

土浦市にある神龍寺の住職さんが、慰霊のために霞ヶ浦湖畔で花火をあげたのが

はじまりとされています。

現在では、日本三大花火大会の一つになっているそうですね。

 

東日本大震災のあと、被災地でなくなった人たちを慰めるための

花火大会が催されましたが、なんとなくそれを思い出しました。

 

今はたくさんの人たちが楽しむイベントになっていますが、そういった歴史も

知っておくとまた違った視点で見えてくるかもしれませんね。

 

 

お昼過ぎから雲行きがあやしくなり、一時激しい雨が降って少し小雨になってきた頃、

元刑事の展示解説員Sさんが、

「今、とぉってもきれいな虹が出てるよ。しかも二重だよ」と

教えにきてくれました。

 

こっちのがよく見えるよ、と教えてくれたロビーから。

 

 

きれいな二重の虹が見えました。

「予科練生がねぇ、花火を見にきてるんだよ」とロマンティックなことを

おっしゃるデカ長。

きっと、そのとおりかもしれませんね。

 

もしかしたら、虹のアーチの下の記念館が撮影できるかも!と思い、

外に出てみました。

 

 

「何かいいことがあるかもしれませんね」と解説員Tさんがおっしゃるとおり、

なんだかわくわくする眺めでした。

 

みなさんにも二重の虹のパワーが届きますように。

きっといいことがありますよ!

 

特別展「回天」へのいざない⑦

10月 4th, 2012

 回天の出撃は昭和19(1944)年11月8日から始まりました。訓練開始から約2ヶ月後でした。イ36潜、イ37潜、イ47潜という大型潜水艦3隻にそれぞれ4的の回天が搭載され、計12的の回天が大津島基地から南太平洋を目指したのです。この初回の出撃は「菊水隊」と命名されています。

 

 当時のイ号潜水艦(全長100mを超える大型艦)は、日本と例えばアメリカ西海岸・カリフォルニア沖まで往復できるほどの航続距離をもっていました。ですから、回天特攻隊は瀬戸内の訓練基地(大津島、光など)から外洋へ出撃したのです。また、終戦間際になると、本土防衛のため日本の太平洋沿岸に設けられた基地回天隊において出撃待機をした場合もあります。

 「菊水隊」には、訓練中に殉職した黒木大尉の盟友・仁科中尉も名を連ねています。仁科中尉はウルシー環礁を目指したイ47潜に乗り込んでいました(イ36潜もウルシー環礁を、イ37潜はパラオ・コッスル水道を目指していました)。回天特攻が始まった当初は、停泊している敵艦を攻撃する「停泊艦攻撃」が作戦の主流でした。昭和19年11月頃には、サイパン・テニアン・グアムなどを含むマリアナ諸島、またその直前に「レイテ沖海戦」で有名なフィリピンでの戦闘にも日本軍は敗れフィリピンも陥落していました。アメリカ軍は沖縄などへ北上するため、マリアナ諸島とフィリピンを結ぶ線上に軍艦を停泊させていた状況でした。

 11月20日早朝、仁科中尉を含む回天5的がイ36・47潜から出撃しました。仁科中尉は、首に盟友・黒木大尉の遺骨が入った白木の小箱を提げ「後を頼みます。出発します」の言葉を残して潜水艦を離れたと伝えられます。

 午前5時47分とのことです。海上に大火柱が立ち上がりました。給油艦「ミシシネワ」に回天が突入したのでした。潜水艦内で起きたどよめきには喜びと悲しみが入り交じっていたと伝えられています。

 

 反対にアメリカ軍にとっては、まさに「青天の霹靂(へきれき)」とも言うべきことが起きたわけです。とにかく驚いたことでしょう。戦争の常ですが、回天特攻の成功によって命を落としたアメリカ軍兵士がいたわけです。その人たちにも家族がいたことを私たちは忘れてはなりません。

 この成功が幸だったか不幸だったか、とにかくそれ以後、アメリカ軍の監視は厳重になり、停泊艦への回天特攻は成功率が極端に低くなったようです。アメリカ軍にとっては当然の措置と言えるでしょう。

 また、同時に出撃したイ37潜はパラオ・コッスル水道で駆逐艦のソナー探知を受け、2隻の駆逐艦による爆雷攻撃を受けた果てに回天を搭載した母艦ごと爆発することとなりました。このように出撃を果たせず戦死した回天特攻隊員も多く数えることになります。

 潜水艦に搭載された回天がすべて出撃できたわけではありません。回天が故障した場合、敵の潜水艦に対する攻撃により回天が破損した場合、また作戦変更により呼び戻される場合、など戦場と日本の基地を何度か行き来した隊員もいました。

 しかし、決死の覚悟を決めて一度旅立つと日本に戻ることには大きな抵抗感が生まれたようです。日本の基地に待つ隊員の間にも何かしら「逃げてきた」というような不合理にして不人情な空気が醸されていたと言われます。この結果、進んで何度でも出撃する隊員が、つまり「早く死ななければならない」と悲壮な思いを抱く隊員が出ることにもなりました。