あっという間に8月に入りましたね。
お祭り、花火、音楽フェスなど、夏のイベント真っ盛りです。
予科練平和記念館でも、7日(土)に、元予科練生の体験を聞く会を
開催します。
当時、予科練生はどんなことを思って訓練していたのか、
どんな気持ちで入隊したのか、生の声を直接聞くことができる
貴重な機会です。
皆さんのご参加をお待ちしております。
詳細はこちらをごらんください。
https://www.yokaren-heiwa.jp/kantan/?detail=true&id=26
さて、今日はすてきなお客様にお会いすることができました。
展示室当番の解説員さんが、こういうお客様がお見えですよ、と教えてくれたので
お会いすることができた方です。
Kさんありがとうございます!
当館展示室5「交流」のパネルの中に、昭和16(1941)年、
霞ヶ浦に流入する桜川が氾濫して、土浦の街が大水に襲われたときの写真があります。
どんな写真かというと、土浦の大通りに面した商店の1階部分が
ほとんど水に浸かっていて、人々は2階に避難しています。
道路だったところは川のようになり、舟が通っています。
ちょっとびっくりするようなこの写真の中に、
小さなおかっぱの少女が一人映っています。
この写真におさめられた少女、増田和江さんがお見えになったのです。
当時10歳だった増田さん。大水の時のことを、こうお話ししてくださいました。
「昭和13年と16年と大水がありました。この時海軍さんが助けにきてくれて、
おにぎりをくれました。そのことを良く覚えています。」
当時、増田さんのお父さんは土浦の街中の大通りで家具屋さんを営んでいました。
写真の中で彼女がいるところが、そのお店の屋根の上です。
足元には幅広のはしごのようなものがあるのですが、これは、お見舞いに来てくれる人に
自分のお店がわかるようにと、お父さんがつけた看板だそうです。
この大水のとき、予科練生や海軍の人たちは、土浦の街を救出すべく、
桜川に土嚢を積むなどの作業にあたりました。
土浦の人たちは、今でもそのことを良く覚えていらっしゃるのです。
増田さんは、戦時中のご自身の体験もお話してくださいました。
3人兄弟の真ん中だった増田さんは、上と下の兄弟が疎開したので、父と2人で家具店を
守っていたそうです。
土浦の女学校に通い、当時は長男がどこの家でも出征してしまって、
田んぼや畑をつくる人手が足りなくなっていたので、他の女学生たちと一緒に、
勤労奉仕でそういう家を回って農作業をしていました。
食べ物はいつもジャガイモばかりで、連日アメリカ軍の飛行機が頭上を飛んできたので、
防空頭巾を被って家を出て、木の下や車の下などで寝たんだそうです。
あるとき、増田さんが病院の近くの坂を歩いていると、艦載機が彼女を狙って
機銃を撃って来ました。
「脇に逃げたりすればよかったんだけど、まだ小さかったから、もう親の元に帰ることしか
頭になくて。飛行機が来る!ってわかって、もう夢中で必死で逃げました。
桜川沿いを必死に走って家に飛び込みました。」
危機一髪難を逃れることができた彼女ですが、それにしても、まだ幼い少女が
戦闘機に命を狙われる時代が日本にあったのだということを考えると、
本当に恐ろしく、なんとも言えない気持ちになります。
「いろんな経験をしたからでしょうかね、今日までいろんなことがあっても
がんばってこれました。」
そういってにっこり笑う増田さんの笑顔はとっても穏やかで、深い優しさに満ちていました。
せっかくなので、昔のご自身と一緒に撮りませんか?とお誘いして
記念写真を撮らせていただきました。
10歳の増田さんと現在の増田さん。69年の時を経ての邂逅です。
息子さんと、お嫁さんと3人でいらっしゃった増田さん。
まだまだ暑い日が続きますが、お体に気をつけて、いつまでも優しい笑顔で
いらしてくださいね。
またお会いできたら嬉しいです。