梅雨の空

6月 19th, 2013

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

すっかり梅雨空です。

 

 

農作物には恵みの雨ではありますが、その一方、じめじめとして、カビが猛威を振るい始める季節でもあります。

木造で風通しの良かった昔の日本家屋と比べると、現代の家は気密性が高くなり一年中カビの恐怖に晒されるようになりましたが(お風呂場やクーラーの中等々)、梅雨の時期ともなればその繁殖力は段違いに跳ね上がります。

もちろん予科練平和記念館にとっても他人事ではありません。

虫の被害と並んで、カビは資料保存の大敵です。

紙を変色させ、資料の寿命を短くし、最悪破壊してしまいます。

資料を触るときには手袋をしますが、その理由の一つにカビの防止があります。手の垢も十分にカビの温床になってしまうのです。 

 また、資料を保管庫に入れる時などには、きちんと燻蒸(くんじょう)して、虫やカビ、菌を消毒してからでないと大変危険です。

うっかりカビを侵入させてしまうと保管庫内で大繁殖してしまいます。

職員一同、より気を引き締めて資料を管理しなければと決意を新たにしている次第です。

 

 

 

 

予科練生もまた、梅雨には困らされたようです。

元予科練生の歴史調査委員の方に聞いてみると、梅雨の思い出として、2つのエピソードを聞かせて頂きました。

 

まずは「洗濯物」。

現代でも頭痛の種ですから、さもありなん。

予科練では、自分の服や下着は自分で洗う決まりになっており、全自動洗濯機などありません。自分の下着は洗濯板で手洗いです。

これが、なかなかの重労働ですが、少しでもさぼうろうものなら日々の訓練で吸った汗が悪臭を放ちだします。

悪臭の元は、先ほど同様カビです。

そして、きちんと洗濯しても、くだんの天気です。乾燥機もないため、干してもなかなか乾きません。

カビは一度生えると、胞子で増殖します。

もしかしたら、無精な人も居たかもしれません。そんな人が一人でもいると…

 容易に想像できるのでこの辺にいたしますが、とにもかくにも洗濯物では大変な思いをしたそうです。

  

もう一つの話題は、「インキン」です。

御存知ない方に説明いたしますと、男性の陰嚢で発生する真菌(カビの一種)が原因の皮膚感染症です。

想像しづらい方は、水虫の痒みが股間に移ったものとご想像ください。原因は一緒です。

そう、ここでもカビです。

調査委員の方の話では、梅雨のある日。誰かの菌が風呂場でうつされたらしく、同じ隊の複数人が罹患。痒くてしょうがなかったそうです。

その後、なんとかしてもらおうと医務室に行って治療を受けるのですが、その時に使われたのはサリチル酸。

サリチル酸は水虫対策等に今でも使われており、患部に塗って処置するのですが、これが焼けるような感じがして相当にスースーするもの。

そこで予科練生の皆さん、我慢できずに精進川(現 花室川)横の土手で患部を丸出しにして、帽子であおぎながら涼んだそうです。

 

 

 

基地内とは言え、なかなかに凄い光景ですね。

 

数日たつと、薬を塗った場所の皮膚が剥け落ちて完治したそうですが、本当にカビは怖いです。

現代でもプールや銭湯でうつる可能性があるので、体は清潔にしましょう。

男性の皆様、お気を付けくださいませ。

 

 

 

 

6月10日(月)に慰霊祭が執り行われました。

場所は、土浦市大岩田の法泉寺です。

御存知の方もいらっしゃいますでしょうが、法泉寺は県立土浦第三高等学校の西側にあるお寺です。

 

 

当日は、当館調査委員の方々も参列し、記念館からも献花いたしました。

 

 

上の写真は法泉寺にある、犠牲になられた方の慰霊碑です。

 

阿見町は昭和20年(1945)6月10日(日)にB-29他による大規模な空襲に見舞われました。

予科練生の居た土浦海軍航空隊だけではなく、阿見町は海軍施設が集中していたため攻撃目標となり襲撃を受けたのです。

犠牲者は数百人に上ります。予科練の建物も過半数が破壊されました。

丁度日曜日だったので、予科練生に面会に来た家族の方々も巻き込まれてしまったそうです。

当館の展示室6では、その時の証言映像や落とされた爆弾の破片を展示していますが、それが人に突き刺さったのかと思うと、ぞっとします。

御遺体は荼毘に付され、残った御遺骨は法泉寺で供養されたそうです。

ただただ、ご冥福をお祈りするばかりです。

 

 

 

洗濯物で困っていた話やインキンの話。

阿見町の空襲の話。

まるで印象が違いますが、同じ場所で起こった出来事です。

戦争中でも面白いことはあったでしょうし、楽しいこともあったと思います。

日常生活が戦争で一気に豹変し、悲しいことも酷いこともあったと思います。

 

梅雨のもやもやとした空を見上げて、もやもやと結論もない、そんなことを考えてしまいました。

皆様はいかがでしょうか。

祝!20万人

6月 11th, 2013

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

予科練平和記念館では、6月9日(日)に来館者数20万人を突破いたしました!

前日から、職員が記念セレモニーの準備をして待ち構えているなか

20万人目のお客様をお迎えしました。

 

 

記念すべき20万人目のお客様は

美浦村からお越しいただいた伊藤重治さん伊藤利津さんご夫妻と

一緒に来館された、お孫さんの加藤空ノ輔くんと加藤向日葵ちゃん。

 

 

空ノ輔君と向日葵ちゃん二人一緒に、認定証を町長より贈呈させていただきました。

 

記念のくす玉も割ってもらい、教育長から絵画の贈呈もあります。

 

 

美浦村に住んでいるおじいちゃんおばあちゃんの家に、

泊まりにきていた空ノ輔くんと向日葵ちゃん。

いつも隣の公園に遊びに来ていたそうですが、

今日は偶然当館にも遊びに来てくれたそうです。

 

 

「ちょっとびっくりしたけど、うれしい!」

と喜んでくれました。

 

 

予科練平和記念館は平成22年2月2日に開館し、今年で開館四年目を迎えました。

本当に多くの方々のご支援を受けて、今日も開館することができています。

展示品のどれをとっても、持ち主の方々が戦時中のさまざまな思いを秘めて

寄贈してくださったものばかりです。

そんな当館に、20万人目の来館者をお迎えすることができたことを、

非常にうれしく、そして非常に有り難く感じております。

 

 

 

 

話は変わりますが、以前当ブログでもご紹介したツバメの雛達が先日、無事に巣立ちました。

 

 

かつてこの地で訓練に明け暮れていた少年たちが

憧れの眼差しで見上げていた空を、ツバメたちが自由に飛び交います。

 

雛達にとっては、初めての世界。

いったいどんな気持ちで、大空を翔けているのでしょうか。

 

今日は、20万人目のお客様をお迎えした後の最初の開館日です。

私たちも、新たな気持ちを胸に、これからの予科練平和記念館をつくっていきたいと思います。

 

 

皆様のご来館を心よりお待ちしております。

 

第46回「予科練戦没者慰霊祭」開催

5月 31st, 2013

 平成25年、爽やかな5月の風に誘われ26日(日)、(財)海原会主催の第46回「予科練戦没者慰霊祭」が陸上自衛隊武器学校「雄翔園」に於いて厳粛かつ盛大に挙行されました。式に先立ち慰霊飛行が会場上空で幾度となく行われ、参列者の帽振れで開幕となりました。

 当日は主催者の(財)海原会をはじめとして、元予科練習生とご遺族、自衛隊の関係者、ならびに阿見町民代表として町長が参列しました。式典は国旗掲揚(国歌吹奏)に始まり、献火、追悼の言葉、献花と進み、音楽隊の演奏が行われ閉式となりました。

 元予科練生たちは80歳を越えられた方々ばかりでしたが、ご高齢とは思えぬしっかりとした立ち振る舞いに、私は只々感心するばかりでした。どのお顔もかつて大空に憧れた少年たちの面差しに戻っておられました。元予科練生の皆さんは来年の再会を誓い合い会場を後にしたようです。

 戦後生まれの一人として、当時の少年たちが国のため、親兄弟や愛する人たちのために、と純粋な気持ちで命を捧げたことを私たちは忘れてはならないと思います。そして戦争のない「平和な世界」と「命の重さ」を改めて考えて参ります。

 この度の慰霊祭開催にご尽力された(財)海原会及び陸上自衛隊土浦駐屯地の皆様に対して心より感謝申し上げます。 

 平成25年5月28日    館長 加藤力男

衣を替えて、気分を変えて

5月 29th, 2013

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

5月も今週で終わり、来週からは6月です。

6月と言えば、衣替えの季節。登下校中の中学生、高校生の制服も涼しげになることでしょう。

かく言う予科練平和記念館でも一足先に衣替えを行っておりまして、5月から阿見町役場 統一基準のクールビズとなりました。

男性陣はネクタイが外され、女性陣も制服の上着を脱いでおります。

皆様はお気づきになられたでしょうか。

 

 

歴史を紐解けば、平安時代の宮廷行事には既に衣替えがありました。時代が下り、鎌倉時代の衣替えでは、服どころか調度品まで替える一大イベントになっています。

今とは気合いの入れ方が違いますね。

旧暦なので現在の日付(6月1日)とは暦がずれて、4月1日からの衣替えですが、もはや一種の文化行事です。

昔の人の気構えを思い、私達も薄着と言う事で、だらしない恰好にならないよう気を付けていきたいと思います。

 

ちなみに、日本海軍が参考にしたイギリス海軍では衣替えはありません。そもそもイギリスでは季節での寒暖の差があまりなく、英語自体に、「衣替え」という意味の言葉がないのです。

明確な日付がないので、一般の人々等は寒ければ長袖、暑ければ半袖と、めいめい勝手に服を替えているそうです。

 

 

 

さて、そんな日本の風物詩である衣替えですが、もちろん予科練生にも衣替えがありました。

6月1日に一斉に行われるのは現在と同様ですが、一度に夏服から冬服へと完全に変わった訳ではないようです。

当館で活動している歴史調査員の方に伺ったところ、まず6月1日に上半身は夏服、下半身は冬服の、通称「ハンクロ」スタイルに衣替えします。

このハンクロは、漢字にすれば「半黒」と書きましょうか。

夏服である第2種軍装の上着の色は白で、冬服である第1種軍装のズボンの色は黒。

(正確には濃紺ですが、この場合は黒と呼んだようです) 

 

 

 

「半分だけ黒」だから「ハンクロ」ですね。

そして、一ヶ月後の7月1日に、もう1度衣替えをして上下共に夏服となります。

6月では、まだ肌寒い日もあると言う事でこういった移行期間があったようです。

近年は温暖化の影響なのか、6月は既に夏と言う気もしますが、昭和の6月はどうだったのでしょう。

暑かったのか、寒かったのか、暖かかったのか。

 

季節の変わり目は体調を崩しやすいですし、日射病、熱射病の恐れもある時期です。

予科練生のように、余裕を持った衣替えで、お体ご自愛くださいませ。

さんぽ日和

5月 17th, 2013

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

最近は、暑いと感じられる日が多くなってきました。

予科練平和記念館の周りは、霞ヶ浦から遮るものがないため

晴れた日に外に出ていると、とても風が気持ちよく感じられます。

 

 

新緑の季節となり、記念館の周りは次第に緑が濃くなってきています。

 

 

足元に目を落とすと、シロツメクサが花を咲かせていました。

 

  

 

シロツメクサといえば四つ葉のクローバー

小さいころ、よく探して見つけていましたが…

 

なんと、日本で56枚葉のクローバーが発見され、

ギネス認定されているそうです。

 

数のスケールが大きすぎて想像できませんね。 

きっとそれはそれは立派な葉っぱだったのでしょうね。

 

以前ご紹介したツバメさん家のご新居です。

 

 

お子さんも何羽かいらっしゃいます。

まだ赤ちゃんなので、もう少し大きくなったらご紹介しますね。

 

 

記念館の周りを散策していると、

風に乗って土の香りが感じられるようになってきました。 

代掻きをした田んぼから、土の香りを感じると、

いよいよ夏の足音が聞こえてくるような気がします。

 

まだ小学生だったころ、田んぼのあぜ道を歩いていて、

倒れたままぴくりとも動かないおじいちゃんを発見し、

本気で救急車を呼ぼうか迷ったことが思い出されます。

(実際には、ただ木陰で昼寝していただけでした。)

 

 

 

そんなことは置いておきまして、

予科練平和記念館では、来月の6月2日に

予科練平和記念館学習会として、史跡探訪を予定しています。

茨城県内に残る近代の史跡を、学芸員と一緒に巡るツアーです。

参加無料ですので、お気軽に予科練平和記念館までお問い合わせください。

 

初夏の香りを感じながら、歴史散策に出かけてみませんか?

みなさまのご参加を心よりお待ちしております。

青や、緑や、黄色や、白

5月 8th, 2013

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

五月に入り一週間が過ぎました。ゴールデンウイークも終わり、みなさまは行楽シーズンも一段落と言ったところでしょうか。

 

ところで、五月は旧暦で皐月(さつき)とも呼ばれますが、旧くは月の名前は、それ一つではありませんでした。

今でこそ呼ぶ人は居なくなってしまいましたが、五月で言えば、橘月(たちばなづき)や菖蒲月(あやめづき)など季節の草花を冠した呼び方や、季節ごとの風景や行事からとられた名前など、さまざまな呼び名があります。

 

風景で言えば、五月雨月(さみだれづき)。旧暦では、五月はすでに梅雨でした。

 

行事から取られた別名は、予科練平和記念館の周りでも見られる、ある光景から取られたものもあるのですが、分かりますでしょうか。

クイズと言う程の話でもありませんが、御存知ない方は、下の写真をヒントに頭をひねらせてみてください。

 

霞ヶ浦沿いを歩いていれば、今の時期ならば自然と目に入る光景だと思います。

 

 

 

 

さて、正解の発表です。

答えは「田植え」。

別名には、稲苗月(いななえづき)、早苗月(さなえづき)、田草月(たぐさづき)と、一つどころか複数の呼び方があり、日本人は、農耕の民族なのだなと言うのがこんなところからも感じてしまいます。

…予科練平和記念館の周囲では、れんこん田ばかりで、クイズとしては、少し意地悪でしたかね。

 

ちなみに、「田植えの月があるなら、稲刈りの月もあるの?」と思われた方、ちゃんとあります。

9月の別名の一つは「稲刈月」。

分かりやすい。

 

青々とした苗が、黄色の稲穂に変わり、白い御飯に変わるのが楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

  

さて、お米の話を出しましたが、予科練生はどういったものを食べていたのでしょうか。

基本的に御飯は麦飯。小麦ではなく大麦です。白い御飯は士官でないと食べられなかったそうです。

それに味噌汁と副菜がつくのが基本の食事で、時には霞ヶ浦のわかさぎ等も出ましたが、日によっては麦飯、味噌汁、漬物を3回と言った日もあったようです。

当館で調査委員として活動されている元予科練生の方にお聞きしてみると、ラッキョウの漬物がよくでていたとのこと。

量については、10代の食べ盛りには、まったく足りなかったようで、予科練生の書かれた書籍や、当館で展示している手紙の中に、食べ物のことが所々に出てきます。確かに、今の食卓と比べてみると、おかずの種類が少ないように思います。

 外出の出来る日は、甘いものが食べられるのが楽しみの一つだったことも書かれており、もし当館にお越しの際には、そんな文章や展示をさがしてみてください。

 

もしかしたら、予科練生も外出帰りに、霞ヶ浦や田植えの苗を見て、秋のお米を想像してお腹をすかせていたかもしれませんね。

なんとはなしに当時の予科練の光景を想像すると、残っている白黒の写真の印象が強いせいか、想像の中まで単色になってしまうかもしれませんが、そういった身近な「食」や「色」を通して、予科練生の見た色も同じ色であったのかなと想像してみれば、浮かぶ姿が鮮やかになりそうです。

そうなれば、予科練生がまた身近に感じられるかもしれません。

空や霞ヶ浦、苗や稲や、お米の色はそうは変わらないでしょうから。

 

 

 先日、特別展の準備と勉強を兼ねて、東京に行ってまいりました。

まずは 千代田区の「靖国神社」へ参拝し、併設されている「遊就館」を観覧。

「靖国神社」は新聞、テレビ等でも取り上げられますので御存知かとは思いますが、戦争で亡くなられた御霊をお祀りする神社で、「遊就館」は、その靖国神社の祭神ゆかりの資料や、戦没者、軍事関係のものを展示されている施設です。

現在「遊就館」では常設展と共に、特別展「大東亜戦争七十年展Ⅱ」が開催されております。

史実に基づいて、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦など、日本軍の大きな戦闘を一つの単位にブースが分かれて展示がされており、展示の内容、展示の仕方ともに大変勉強させていただきました。

特別展は平成25年12月8日(日)までと長く開催しておりますので、皆様もいかがでしょうか。

 

 靖国神社 遊就館

http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/

 

次は、同じ千代田区の「しょうけい館」。

前述の「靖国神社」から歩いて数分、地下鉄九段下駅のすぐ近くにある資料館です。

こちらの館では戦傷病者の、書籍、資料、証言を保存、展示をしており、結核や赤痢などの病気、義眼や義手を使わざる得ないような怪我。そういったものの証言映像や、実物資料に写真、手記などが展示されていました。

あまりテレビ等では見られない、戦争の一面を見ることができます。

オフィスビルの一角で、少し見つけにくいかもしれませんので、行かれる方はご注意を。観覧は無料です。

 

しょうけい館 戦傷病者資料館

http://www.shokeikan.go.jp/index.html

 

最後は新宿都庁前、新宿住友ビル48階にある「平和祈念展示資料館」を観覧。

こちらの館は、旧軍の兵士(特に恩給がもらえなかった方)、戦後シベリア等での強制抑留者、満州等からの引揚者の労苦を伝えるための施設で、展示もそれら三つのテーマごとに3室にわかれています。人形を使ったジオラマもあり、そこは一瞬、本当に人がいるかと錯覚するほどでした。

観覧は無料で、展示は映像資料や実物大の人形、解説資料にマンガを使い、企画ではゴールデンウイークにはアニメの声優さんの読み語りを行うなどして、分かりやすいものとなっています。

こちらもご紹介しておきます。

 

平和祈念展示資料館

http://www.heiwakinen.jp/

 

雨にも負けず風にも負けず

4月 24th, 2013

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

最近は天候が不安定で、暑いくらいの日もあれば、寒い日もあったり、

晴れたと思ったら、急に強い風が吹いて雨が降ってきたり、

なかなか定まらない陽気に、少し振り回され気味な日々が続いております。

 

そんな毎日ですが、生き物たちはたくましく営みを続けているようで、

少し前から、予科練平和記念館のエントランスにツバメが巣作りをはじめました。

 

文字通り、雨にも負けず風にも負けず、

日々作り続けていたマイホームがこのほど完成いたしました。

 

もう少しして家族が増えたら、自慢の家にお邪魔させてもらって、お茶でもごちそう…

いやいや、みなさんにご紹介できたらな、などと考えております。

 

 

 

さて、そんなツバメを横目に見やりつつ、予科練平和記念館では去る4月13日(土)に

生活協同組合連合会との共催企画

平和のおはなし会~“今を生きる人”たちへ~を開催いたしました。

 

 当日は100名を超す方々にお集まりいただきました。

 

内容は二部構成で、

第一部 ヒロシマ・ナガサキでの被爆体験

 

 

県原爆被害者協議会会長の黒川博さん

同じく副会長の茂木貞夫さんにお話をうかがいました。

 

第二部 加奈の小さなおはなし会

 

元茨城放送アナウンサーの加奈さんによる読み聞かせ

絵本や予科練生の遺書などの朗読をしていただきました。

 

ヒロシマ・ナガサキを実際に経験された方々のお話は、

当時の様子を直接知らない私たちに、深く突き刺さります。

 

加奈さんのおはなしは、

時に感情を込めて激しく、時に包み込むようにやさしく響きます。

 

目に涙を浮かべている方もいらっしゃいました。

どんな思いで、おはなしを聞かれていたのでしょう。

みなさんそれぞれが感じ、考えるものがあったおはなし会だったと思います。

 

 

 現在、予科練平和記念館では、4月2日より

企画展「震洋~写真家荒井志朗氏の心象~」を開催しております。

 

震洋特攻隊員に選抜された荒井氏所蔵の写真を展示し、

当時の様子を改めてふりかえります。

 

7月7日までの開催となりますので、お時間のある方はぜひご覧ください。

みなさまのご来館を心よりお待ちしております。

 

 

 

時が過ぎるのは早く、気づけば桜が散り、春がせわしなく過ぎていこうとしています。

寒暖の差がはげしい日々が続きますが、みなさまお体ご自愛ください。

「さくら」と「おまつり」

4月 11th, 2013

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

4月に入りまして初めての当ブログの更新となります。

なかなか寒さが抜けない日が続いていましたが、ここ一週間で急に暖かくなり、ようやく春らしくなりました。暦の上では立春はずいぶん前に過ぎましたが、なかなか季節と天気は難しいです。

さてそんな中、春らしい名前のイベント「あみさくらまつり」の一日目が、去る4月7日(日)に、予科練平和記念館の敷地内で開催されました。

7日(日)、14日(日)の2週に渡るイベントの一日目で、お隣の陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校も4月6日(土)、7日(日)に一般開放ということもあり、前日からまさにお花見シーズンと言った雰囲気。

 

 …の筈でしたが、前日土曜日は生憎の雨。風も強く、天気予報やニュースでは外出をお控えくださいとまで言われていました。本当に季節と天気は難しい。

 

   

 

春の薫風はどこへやら、急な天気の変化に不安を抱えつつ、当日の朝を迎えましたが…

 

 

 

 

 

  

晴れました。

ほっと胸をなでおろしはしたものの、前日同様に風は強く、じっとしていると飛ばされそうなほどです。

イベント名にもなっている桜は前日の雨と風でほとんどが散っており、葉桜が目立ちました。

のんびりお花見。とは言い難い天気となってしまい非常に残念です。

翌週14日(日)に控える「あみさくらまつり」2日目は、緩やかな天気になって欲しいものですね。

 

 

ところで、さくらと言えば、特攻機『桜花』や、軍歌『同期の桜』に表されるとおり、予科練や特攻隊とは縁のある花です。潔く散る姿が、武士の時代から続く自己犠牲の精神の象徴とされ現在でもさくらのイメージの一面として度々語られます。

また、現在ではそう言った意味は薄れてしまっていますが、「お祭り」の元々の意味は、神様や神霊を祀る「お祀り」と同じものです。口に出してみると「おまつり」で音も一緒ですね。

来週の「あみさくらまつり」に参加しつつ、予科練平和記念館や雄翔館で、散りゆく桜を見ながら予科練生に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。 

 

予科練平和記念館について、これからの予定としては、4月13日(土) には生活協同組合連合会との共催企画「~平和のおはなし会~“今を生きる人たち”へ」が行われます。当館のラウンジを使用し、参加は無料です。

10:00~12:00の予定で、第一部と第二部に分かれており、第一部はヒロシマ・ナガサキの被爆体験者の黒川さん、茂木さんから当時の体験をお聞きします。

第二部では、元茨城放送アナウンサー・現あみ大使の加奈さんの朗読会になります。

また、4月14日(日)にはかすみ公民館にて、当館でも調査員として活動していらっしゃる元甲種第14期予科練習生の戸張 礼記さんが講師を務める講演会「過去を知って未来に伝える」が開催される予定です。15:30からの1回講演ですので、これらのイベントも併せて足をお運びくだされば幸いです。

無始無終

3月 30th, 2013

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

予科練平和記念館のある阿見町は、今桜が満開です。

 

 

 

館の前の若い桜の木も、たくさん花を咲かせています。

この季節は、本当に独特の雰囲気がありますね。

 

先日、「ルドルフ・シェーンハイマーの動的平衡」という理論を知りました。

ルドフル・シェーンハイマー(1898-1941)は、アメリカの生化学者で、

体内に摂取した食物がどのように使われているかを、ネズミを使った実験であきらかにした人です。

そこで得られた結果から、食物は分解されてエネルギーになるのではなく、

体の再構築に使われていることがわかりました。

 

体をつくっている物質は、そのままでは古くなって壊れてしまうので、

私たちは食べ物を体の中で小さく分解して、古くなった物質と、分解して得られた

新しい物質を入れ替えることで体を維持している、と言えるのだそうです。

 

シェーンハイマーの実験では、ネズミの全身のたんぱく質の半分が、

3日で入れ替わっていたことが確認されたそうです。

いつも同じように見えますが、私たちの体は日々黙々と新しくなっていたんですね。

 

そう考えると、新鮮なものや体にいいものを食べるのが健康の基本、ということがよくわかります。

そして、あんこが好きな人はリアルアンパンマンになれるということですね。

 

今日のみなさんは、何で作られていますか?

 

 

さて、今週はいろいろなお客様がおみえになりました。

 

まずは埼玉県比企郡滑川町の議員さんたちです。

展示を熱心に見学してくださいました。

 

 

それから、青森山田高校野球部のみなさんが、遠征試合の途中に立ち寄ってくださいました。

 

 

とても礼儀正しくて、帰るときにはきちんと挨拶をしてくださいました。

予科練生たちもこんな感じだったのかな、と思いながらお見送りしました。

 

さらに、海を越えてスペインからもお客様がいらっしゃいました。

アジア系スペイン人のTARO(タロ)さん19才です。

 

 

タロさんはバルセロナ在住で、CESDA(セスダ)航空学校の学生さんです。

春休みを利用して日本にいらっしゃいました。

 

タロさんは、知人から頼まれたものを届けにわざわざきてくださったのです。

航空関係の本や資料を探しによく行くお店のリカルドさん(70代男性)が、

タロさんが日本に行くことを知ると、1枚のCD-ROMを彼に託しました。

リカルドさんが航空機のエンジンについて長年研究してきた成果をまとめて

データにしたもので、日本の航空関係者にぜひ知ってもらい、

役立ててほしいと願っているそうです。

 

私共でも、リカルドさんのご好意やタロさんのお気持ちに、少しでもお答えできる

お手伝いができたらと思っております。

 

航空機のエンジンにご興味のある方、スペイン語がおわかりになる方がいらっしゃいましたら、

ぜひ予科練平和記念館へお問合せください。

 

タロさんは現在日本語を勉強中。将来は全日空のパイロットになりたいという

夢をお持ちです。

いつの日か、タロさんの操縦する飛行機で世界中を旅することができたらすてきですね。

大空を羽ばたける未来を応援しています。

 

こちらもぜひご覧ください↓↓↓

 

セスダ航空学校

www.cesda.com

 リカルドさんのお店(現在は息子のジョルディさんがあとを継いでいます)

http://www.aeroteca.com/

 

 

先週末23日(土)に、小さなお子さま向けのよみきかせイベントを開催しました。

今回で5回目になるこの企画、新たな試みとして、記念館の近くにある霞ヶ浦高校演劇部さんと

コラボレーションしました。

元気な演劇部の生徒さん3人が、たくさんのお客様に絵本を読んでくださいました。

 

 

 

 

練習にあてる時間が少なかったにも関わらず、自分たちで絵本を選んで

一生懸命読んでくださいました。

予科練平和記念館ですばらしい朗読を聞かせてくださる、元茨城放送アナウンサーの

藤田加奈子さん直々の指導を受けたということもあって、とっても上手でした。

 

よみきかせのあとは、春のスタンプラリーです。

記念館の敷地にかくされた7つのスタンプを探しだします。

 

 

ときには丘ものぼります。

スタンプは、記念館とおとなりの公園のなかでも春を感じてもらえるようなところに置きました。

公園内には元気なお子さんたちの声でとてもにぎやかで、

両手につくしを持った女の子もいて、訪れた春を楽しんでいただけたようです。

 

霞ヶ浦高校の生徒さんたちとは、これからもいろんなイベントでご一緒していただけたらと

思っております。

 

 

今回のブログは長くなってしまいました。

最後までお目通しいただきありがとうございました。

 

私学芸員Wは、3月いっぱいで予科練平和記念館を卒業することになりました。

準備の段階から丸7年間、このお仕事をさせていただいて、本当に感謝しています。

また、元予科練生をはじめとして、すばらしい人生の先輩方からいろいろ学ぶことができました。

いたらない私にとって、たくさんの方に支えられながら毎日全力ですごした大切な7年間でした。

支えてくださったみなさん、関わってくださったみなさん、本当にありがとうございました。

Wは、4月からも町のどこかで働いております。

見かけたときには、ぜひお声をかけてください。

 

「無始無終」という言葉があります。

仏教の教えだそうですが、始まりもなければ終わりもない、その逆もまたしかりということです。

終わりはまた新たな始まりです。

常に現在にいるということかも知れません。

 

それは、シェーンハイマーの理論にも似ています。

私たちは常に新しい物質を取り込んで置き換えながら体を維持している。

私たちを作っている物質は、もとは別のものであり、私たちでなくなった物質は

また別の何かになる。

世界中の物質は絶え間なく交流し、動きながら現在をつくっているのかもしれません。

 

今を生きるたくさんのみなさんが、すばらしい毎日をすごせますように。

心から願っております。

 

 

企画展「甲飛14期生」⑥

3月 20th, 2013

 急に暖かくなりました。

 梅が慌てて咲いたかと思うと、強い風が吹き荒れる日には忙しなく今年の花を散らせていく様子を見て、春の到来を落ち着いて迎えている私たちの心境とは言えないようにも感じられます。

 桜の開花は例年より1週間ほど早まっているとのことです。可愛い新入学生のためにも、桜にもう少し足踏みをお願いしたいような気持ちです。

 これも異常気象の影響なのでしょうが、しかし、暖かくなってくると「異常」という言葉を使いたくない気もします。待ち望んだ春です、よいことがたくさんあるといいですね。

 

 さて、昨年11月から開催してきた企画展「甲飛14期生~特攻が始まった年の入隊者たち~」の会期もあと10日ほどとなりました。これまでにも多くの方にご来館いただきましたが、気の早い今年の桜を見がてら、どうぞご観覧いただきたいと思います。

 今回は、進木亮(しんのき あきら) 氏 (甲飛14期・特殊潜行艇)をご紹介します。 

 

 昭和19年4月美保海軍航空隊へ第14期飛行予科練習生として入隊、以来1年が経過した頃、昭和20年5月中旬、わが分隊から30数名が転属不明、特殊兵器搭乗要員として選抜を受け、甲飛第14期第1次特攻隊要員に内定した。即日特攻隊は結成された。

 5月29日卒業式、そして雨天体操場で壮行会、恩賜の御神酒、その他昆布などが揃ったメニューのご馳走がでた。この日、ようやく転出先は大竹潜水学校「柳井分校」と知らされた。お世話になった分隊士、班長、班員に最後の挨拶を交わし、父から贈られた日本刀片手に衣嚢を担ぎ隊門に整列した。

 同期生、後輩15期生の激励見送りをうけ、互いに帽振れのなか思い出の美保空を後にした。大篠津駅で軍用臨時列車に乗車、集う村の方々の見送りに紛れて両親を見受けたときは驚きと改めて悲壮感を覚えた。そして遠くからこれが最後の決別と覚悟の敬礼を送った。

(中略)

 山口県熊毛郡佐賀村字田名(現在の平生町)に大竹潜水学校柳井分校(その後柳井潜水学校び改名)があった。瀬戸内海に突き出た「阿多閏半島」という東西約12キロ幅約300メ-トル程度のなまこ型の小さな半島がある。この半島全体が海軍用地で、手前が潜水学校、西南に「回天」特別攻撃隊の平生基地があった。

 われわれは、柳井駅で衣嚢を輸送車に積み込み、初夏を思わせる暑さのなか、8キロの道程を行軍、昼前学校に到着した。直ちに兵舎の割り当てをうけ教官に出迎えられ、注意事項伝達の後、予科練第一種軍装を返納して、五ツ釦の下士官服が支給された。下士官帽子帽章と二等飛行兵曹袖章をつける。事業服はなく、略服として薄褐色の五ツ釦、略帽は事業服と同色で一本線の下士官帽が支給されたが、下士官軍服は古着であった。

 6月1日、9時5分訓練場にて入校式。われわれはこの日晴れて海軍二等飛行兵曹に任官した。私の学校での配属先は第12区隊(内火隊)で、1班から8班までに分かれ、構成班員は8名の編成となっていた。この区隊は全員美保空出身者で編成されていた。

 任務は、特殊潜行艇、甲標的丁型「蛟龍」の搭乗要員。専門分担は内燃機関の講習で、当初6月から7月の2ヶ月間が予定されていたが、後日1ヶ月期間延長された。「蛟龍」は開戦時、真珠湾に投入された特殊潜行艇甲標的甲型(搭乗員2名)の改良型である。訓練は実習がほとんどで、座学の教本は赤表紙の極秘扱い、全教本は連番が刻打されており厳重保管の義務が附され、各専門の将校が担当し、教育を受けた。私は内火隊(内燃機関担当)に配属されたが、他に、電気隊、水雷隊、通信航法隊とそれぞれ区隊が分かれていた。ここで一人前の搭乗要員としての教育と訓練を受けることになる。

 学校正面入り江に係留された3,000トン級、伊152号潜練習艦を教材に乗船種々の実戦訓練を受けた。また、校庭の南側海岸寄りに「蛟龍」と「海龍」(S艇)の実物教材が置かれていた。7月、学校沖合に潜水艦伊58潜が停泊、隣接の回天基地から多聞隊「回天」6基を搭載、南方洋上に出陣していった。武運あれと祈る。

 7月下旬に入ると、教務訓練もほとんど進まず、その頃になると防空対策の強化、そして防空壕作業に明け暮れる日課となる。8月6日、新型爆弾が広島に投下されたことを10時頃知らされた。8月9日、長崎を新型爆弾が見舞ったことは知らされなかった。

 8月15日正午、総員訓練場へ整列をして放送を聞く。雑音がひどく、初めて聞く陛下の玉音は聞き取れないまま痛恨の涙で地に伏せた。終戦以来4、5日兵舎にあって指示を待つ。その間何もすることがなく、持参の日本刀を抜き、やたらと振り回してはやり場のない気持ちを鎮めていた。復員は22日頃から始まり、26日には終わりとなった。復員に際して一階級特進して、一等飛行兵曹に昇進した。(「回顧録」から抜粋)