企画展「甲飛14期生」④

2月 20th, 2013

濱中榮次 氏(甲飛14期・旧海軍105特攻加賀部隊)

 

 正式名称は、旧海軍の横須賀鎮守府付「海軍第105特別陸戦隊」。当時の隊員は、空挺特攻隊などと呼んでいた。部隊の司令は海軍少佐加賀誠氏(海兵65期)。

 隊員は土浦海軍航空隊甲飛14期出身者が主体で、若干の衛生、主計、砲術等の一般将兵を加え編成された約500名の部隊だった。

 昭和19年にはマリアナ諸島(サイパン、テニアン、グアム)、フィリピンなどが陥落し、翌昭和20年には硫黄島、沖縄などが激戦の上占領されるなど、戦況は一層不利となっていった。昭和19年からは連日のようにB29による大規模空襲が全国の軍施設や主要都市に向けて行われていた。

 特に、マリアナ諸島のアメリカ軍基地にはB29約1,300機が駐留していることを海軍も把握していた。隊の目的は、昭和20年8月、月明かりを利用して一式陸攻や銀河などで出撃し、マリアナ諸島、硫黄島のB29基地を奇襲し、B29を徹底的に破壊するという特攻作戦だった。

 海軍は、アメリカ軍が沖縄周辺に主力を置きマリアナ方面の警戒が薄いと見て、この奇襲作戦が成功するのではないかと考えていたようである。特攻による波状攻撃が成功すれば、日本本土への本格的空襲が当分緩和され、本土決戦態勢の強化、また講和・終戦への筋道をつけることが可能という望みをもっていたと考えられる。

 当時、部隊への作戦伝達は口頭による極秘が貫かれたようで、文書や通信機器は一切使用されなかったらしい。よって、今日、この作戦を裏付ける正式文書は見当たらないとされている。戦後における元司令の談話や元隊員たちの手記や語り等で、当時の状況がかなり明らかになり今日に及んでいる。

 当初は沖縄戦に間に合わせるため部隊編成は昭和20年2月と予定されていたが、諸事情で7月になった。編成は昭和20年7月末に横須賀海軍砲学校で行われた。私は、加賀部隊第2中隊第6小隊第3分隊所属で、当時の階級は飛行兵長だった。この横砲は「トンネルくぐれば軍紀風紀の風が吹く」と言われたところである。私が105部隊員として短い在隊中、兄と偶然出会い何日か語り合ったところであり、昼夜問わずの激しい空爆下での訓練が行われたところであり、思い出も多い。訓練としては、自動小銃(ビルコマン)の扱い、徒手体操、敏捷さを身につけるための駆足の他、夜目を慣らすために夕方出発して山野を駆け巡る陸戦訓練などが行われた。秘密部隊の編成や当初訓練のために横砲は格好の場所であったのか、8月中旬まで17日間滞在した。

 昭和20年8月14日夜半、全隊員が集合し、横須賀から軍用列車で秘密裡に出発した。行き先は北海道千歳特攻基地と聞いていたが、三沢基地に変更となった。

 8月15日の終戦は全隊員がこの列車の中で迎えた。東北線古間木駅で下車後、広場で司令から終戦が伝達され。三沢基地に何日か待機することとなる。特に混乱もなく、皆次の指示を待っていた。やがて横須賀に戻り、部隊の大半は横須賀対潜学校付となり、作戦中止後の終戦処理(残務事務、重要書類焼却、武装解除、物品現金等の運搬授受)にあたった。部隊の一部は戦闘機搭乗員たちの反乱が懸念された厚木基地に派遣され、警備の任についた。私たちはNPの腕章を付け、外部からの不穏分子進入警戒と、連合軍の無事な進駐のための準備にあたった。武装部隊の出動は、正しく組織訓練され秩序が維持されていなければならず、私たちはよくその任を果たしたと思う。

 8月28日にアメリカ軍の進駐が始まり、マッカーサー将軍も到着した。小型機、輸送機、ジープ、無線技術、そして将兵達の様子を見て日本との大差を強く感じた。やがて105部隊の武装解除となったが、内地では最後ではなかったかと思う。

(「旧海軍105特攻加賀部隊について」から抜粋)