今回は、「回天」が誕生したあらすじをお話したいと思います。
日本海軍は、太平洋戦争においても艦隊決戦、つまり軍艦がある距離を置いて船団を形成し、敵艦を攻撃・沈没させようとする形の戦いが起きると予想していたようです。
そのため、射程約40キロメートルを誇る大砲9門を備えた大和、武蔵などの巨大戦艦も建造しました。
同時に、日本海軍は酸素魚雷(九三式魚雷)を開発していました。これは水中を高速で進み航続距離が長く、しかも燃料として酸素を用いるために排気ガスが水蒸気となり海水に吸収されて無航跡となる優れた魚雷でした。
しかし、太平洋戦争では航空機が主力兵器となったため、日本海軍が想定していた艦隊決戦は起きませんでした。つまり、大和、武蔵がいくら大砲を放ってもその遙か遠くから航空機が飛来し、軍艦を攻撃する時代に変わっていたのでした。そのため大和、武蔵が華やかに活躍できなかったのと同様、酸素魚雷も武器庫に多くが眠ったままだったのです。
一方、真珠湾攻撃が行われた約半年後、ミッドウェー海戦で日本海軍は敗れ戦局が悪化し始めます。その後、山本五十六大将が戦死した昭和18年には、アッツ島、ガダルカナル島などの拠点から日本軍は撤退を余儀なくされ、翌昭和19年2月には南太平洋の重要基地であったトラック島が攻撃されて、基地に集められていた航空機がほぼ壊滅するという事態に陥りました。
戦うための航空機が数少なくなった日本海軍は、航空機以外の武器に目を向けるほかなかったと言えるでしょう。
昭和18年当時、呉海軍工廠魚雷実験部(P基地)で特殊潜行艇(甲標的)の訓練・改良、及び新兵器の開発に努めていた黒木博司大尉、仁科関夫中尉(階級は戦没時のもの)は、こうした状況下で酸素魚雷に人間が乗り込む「人間魚雷」の開発に考えが進んでいったと思われます。
回天には脱出装置が付けられていません。これは隊員が生還する可能性をもたない作戦や兵器は認めない伝統をもつ日本海軍にとって容認できない武器でした。しかし、トラック島攻撃以降の情勢を受け、開発上の難点でもあった脱出装置を付けないままに回天は開発されることとなったのです。
「回天」とは、天を回(めぐ)らす、つまり運勢を変える・形成を逆転させる、などの意味をもちます。約1.5トンもの炸薬を積み込む回天が体当たりに成功すれば、航空機を満載した空母も真っ二つになるほどの威力を見せたに違いありません。追い込まれた日本海軍も期待を寄せたことでしょう。
しかし、私は黒木大尉、仁科中尉が回天の成功で日本がアメリカに勝利できると考えていたようには思えません。
例えば、回天には「菊水紋」が描かれます。この菊水紋は、南北朝時代の武将・楠木正成が用いていた紋です。楠木正成は後醍醐天皇に味方し、武家政権を目指して反目した足利尊氏と最後に湊川(現在の神戸市)で戦うこととなります。九州から攻め上る足利尊氏の大軍に対して勝ち目のない戦いを楠木正成は挑み、敗れて自害します。自害の際、「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」と語ったと伝えられます。これは「七生報国」と表される精神ですが、この精神は菊水紋とともに回天特攻隊員に引き継がれました。
この他、イタリアが日本・ドイツを裏切る形で早期に連合国に降伏することを黒木大尉が予想していたなど、残された記録を読んでも、回天は敵になんとか一矢報いたい、日本人の誇りを守るために戦う武器だったように私には思えるのです。