イベント報告「春の史跡探訪」

9月 11th, 2013

今年も9月に入りました。空に穴が開いてしまったのではないか、と疑われる暑さも朝夕にはすっかり大人しくなり「やっぱり秋は来るんだ」と思わせられます。

今夏の酷暑も過ぎてみれば思い出に落ち着き、今度は「もう正月か」とおそらく言い、思う日があっと言う間にやってくるのでしょう。「光陰矢の如し」を実感するときです。

 

今年度も予科練平和記念館は多くの方々に来館いただいています。ご来館いただいた皆様には心より御礼申し上げます。

今年は学徒出陣70周年にあたり、2年後には終戦70周年を迎えます。予科練の歴史を通して戦争について考え、先人が遺してくださった、この戦争をしないで済む社会を後世に引き継ぐためにはどうしたらよいか考える、という使命を予科練平和記念館は負いますが、これからは戦争を経験したことがない人間同士が学び合いながらこの重要な課題に取り組むほかありません。皆様のますますのお力添えをお願いいたします。

そうした活動の一環として、予科練平和記念館では「史跡探訪」というイベントを行っています。阿見町および県内の戦跡、史跡を中心に巡り、歴史を学び現在に還元することが主旨となります。

今は昔、という程ではありませんが、去る6月上旬に春の史跡探訪を行いました。

今回は、現在新聞紙上でも話題に上ることが多い、筑波海軍航空隊跡(友部)を中心に見学しました。

東京に近い茨城には戦前比較的多くの軍施設が展開されましたが、この筑波海軍航空隊跡はかつて零戦も飛び立った航空隊の面影をよく残していると思います。

現在は道路となっている滑走路跡しかり、旧本部庁舎しかりですが、印象的だったのは格納庫跡から誘導路を経て滑走路へのイメージが持ちやすく「あの零戦もここから飛び立っていったのか」と何か音さえ探せるような気持ちをもてたところです。

もちろん戦争に関わる施設を賛美するわけにはいきませんが、ある時代に生きた人の、命がけで生きた証しというものには、時代を超えた説得力があるように思います。

現在、茨城県立こころの医療センターとなっている筑波海軍航空隊跡地ですが、建物の一角には筑波空関連の資料室も作られ、往時を偲ぶにはたいへん貴重な場所です。もし見学を希望する場合には、医療センター事務にお申し込み下さい。可能な限り対応してくださるそうです。

「陸」と「海」と「空」と15日

8月 20th, 2013

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

前回の更新から大分時間が空いてしまいました。

楽しみにされていた方には、大変申し訳ありません。定期的な更新が出来るよう、担当職員一同、努力していくばかりです。

なにとぞ、お付き合いの程よろしくお願いいたします。

 

 

早速ですが、予科練平和記念館の近況の御報告です。

去る8月10日(土)、11日(日)の2日間。阿見町立かすみ公民館にて、当館主催でイベントを開催しました。

7月27日(土)より開催している特別展『空をめざした少年たち 陸軍少年飛行兵と予科練』に合わせまして、元陸軍少年飛行兵であった、成迫政則さんをお招きして御講演、御対談いただいたものです。

両日ともに、気温が30度を超える真夏日にもかかわらず、多くの人にお集まりいただきました。

1日目が講演会「元少年飛行兵の体験談を聞く会」。

2日目が対談「陸軍少年飛行兵&海軍飛行予科練習生」です。

当日の様子ですが…と、それを、お伝えする前に、そもそも「陸軍少年飛行兵」とはなんだろうと、思われる方もいらっしゃると思いますので、そちらからご説明しようと思います。

 

簡単に言ってしまえば、陸軍のパイロット養成教育を受けた10代の少年達のことを言います。 

予科練の制度に似ているなと思われた方、その通りです。

「陸軍少年飛行兵」を極めて乱暴に、短く説明するなら、「陸軍版 予科練」とも言えるのです。

当時、日本の軍隊は「海軍」と「陸軍」の二つの組織で構成されておりました。

現在ですと、軍で飛行機と言えば「空軍」を思い浮かべますが、当時日本に空軍はなく、海軍と陸軍は、それぞれ独自に航空戦力を持っていたのです。

そういう訳で、日本軍には大きく二つの航空戦力部門があり、お互いにまったく別の組織だった訳です。ですから、そこで働くパイロットを養成する専門課程も、二つ存在しました。

そのうち、海軍の専門課程を受けた人を「海軍飛行予科練習生」。

そして、陸軍の専門課程を受けた人達を「陸軍少年飛行兵」と呼んだのです。

 

ちなみに、予科練の制度が出来たのは昭和5年(1930年)。少年飛行兵の制度が出来たのは昭和8年(1933年)。

若干、予科練の方が成立が早く、最初に書いた「陸軍版 予科練」の言い方も、できた順番のみで言えば間違いはなかったりもします。

設立年度の話を書いたので、ついでに各国の空軍の設立年度を書いておきますと、アメリカ空軍は1947年。中国(中華民国)の空軍は1929年。ドイツ空軍は1935年。イギリス空軍は歴史が古く1918年となります。

また「空軍」を各国の軍隊で持っている現在でも、「陸軍」「海軍」ともに戦闘機やヘリコプター、無人偵察機等の航空戦力を持っていたりします。

よその組織から借りて来るより自前で持っていた方が、運用するのが楽なのでしょうかね。

 

閑話休題。

話を元に戻しまして、イベントの様子です。

講師の成迫さんは昭和3年10月22日生まれ。84歳。

昭和19年に大分陸軍少年飛行兵学校に入校。

昭和20年、終戦は大分で迎えられました。

戦後、就職の後、昭和29年、専修大学に御進学。

昭和31年に御卒業の後、教職に就かれ、公立小中学校に勤務。

東京都の秋川市立御堂中学校校長を務められ、御退職されました。

現在は東京にお住まいで、御自身の体験をお話するだけではなく、数多くの文化活動もなさっております。

     

大変精力的な方で、8月の頭には九州で講演されたとのこと。

今回のご講演でも、両日共に、時間一杯お話をいただきました。

 

入隊当時の世の中の状況や、入隊後の体験。特攻作戦へ志願したときの状況や、終戦後部隊で遺書を書いたことなど、お客様方もじっと聴き入っている様子で、1時間30分と言う時間が、あっと言う間に過ぎ去る講演でした。

二日目は、初の試みと言う事で、元予科練生の戸張礼記さんとご対談いただきましたが、こちらの構成の拙さで対談ではなく、交互に講演いただく内容となってしまいました。大きな反省点です。

大迫さんと戸張さんの御経歴は、似ている部分も多くありまして、そういった事もたくさん話していただければよかったのですが…

お二方の体験や、お話は貴重であったのに難しいものです。

 

 

 

8月15日(木)の無料観覧日では、800人を超える多数のお客様に御来館いただきました。

 

 

大きな声を出す人や、騒いだりする人がいる訳でもないのですが、開館から閉館まで賑わいのある日となりました。

そのせいか閉館後の事務仕事をしていると、普段は気にならない静けさが、妙に気になったりもしたものです。

 

8月15日は、お盆であり、終戦記念日でもあります。

御存知のとおり、お盆は御先祖さまが現世に里帰りする行事ですが、7月に行う地域もあり、その風習は全国さまざまな形があります。

当館のある茨城県阿見町では、8月13日にお迎えした御先祖さまを15日の日暮れの後、提灯に灯りをつけてお墓に送っております。

そして、講演の際、成迫さんや戸張さんのお話にも出た終戦の日。

ラジオの前で聞かれた玉音放送は、お二方とも雑音がひどく聞き取れず、放送の後も攻撃作戦のために待機命令が出されました。

お二方共に、8月15日にはまだ戦争は終わっていなかったとの感想でした。

勿論、本土決戦か否か、と言った時ですから、お盆のことなどは頭になかったそうです。

 

1945年のお盆。御先祖様達や戦死された人達はどうしたのだろうと思いつつ、帰宅後、私もお盆のお参りをいたしました。

皆様はどんな8月15日を、過ごされましたでしょうか。

梅雨の空

6月 19th, 2013

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

すっかり梅雨空です。

 

 

農作物には恵みの雨ではありますが、その一方、じめじめとして、カビが猛威を振るい始める季節でもあります。

木造で風通しの良かった昔の日本家屋と比べると、現代の家は気密性が高くなり一年中カビの恐怖に晒されるようになりましたが(お風呂場やクーラーの中等々)、梅雨の時期ともなればその繁殖力は段違いに跳ね上がります。

もちろん予科練平和記念館にとっても他人事ではありません。

虫の被害と並んで、カビは資料保存の大敵です。

紙を変色させ、資料の寿命を短くし、最悪破壊してしまいます。

資料を触るときには手袋をしますが、その理由の一つにカビの防止があります。手の垢も十分にカビの温床になってしまうのです。 

 また、資料を保管庫に入れる時などには、きちんと燻蒸(くんじょう)して、虫やカビ、菌を消毒してからでないと大変危険です。

うっかりカビを侵入させてしまうと保管庫内で大繁殖してしまいます。

職員一同、より気を引き締めて資料を管理しなければと決意を新たにしている次第です。

 

 

 

 

予科練生もまた、梅雨には困らされたようです。

元予科練生の歴史調査委員の方に聞いてみると、梅雨の思い出として、2つのエピソードを聞かせて頂きました。

 

まずは「洗濯物」。

現代でも頭痛の種ですから、さもありなん。

予科練では、自分の服や下着は自分で洗う決まりになっており、全自動洗濯機などありません。自分の下着は洗濯板で手洗いです。

これが、なかなかの重労働ですが、少しでもさぼうろうものなら日々の訓練で吸った汗が悪臭を放ちだします。

悪臭の元は、先ほど同様カビです。

そして、きちんと洗濯しても、くだんの天気です。乾燥機もないため、干してもなかなか乾きません。

カビは一度生えると、胞子で増殖します。

もしかしたら、無精な人も居たかもしれません。そんな人が一人でもいると…

 容易に想像できるのでこの辺にいたしますが、とにもかくにも洗濯物では大変な思いをしたそうです。

  

もう一つの話題は、「インキン」です。

御存知ない方に説明いたしますと、男性の陰嚢で発生する真菌(カビの一種)が原因の皮膚感染症です。

想像しづらい方は、水虫の痒みが股間に移ったものとご想像ください。原因は一緒です。

そう、ここでもカビです。

調査委員の方の話では、梅雨のある日。誰かの菌が風呂場でうつされたらしく、同じ隊の複数人が罹患。痒くてしょうがなかったそうです。

その後、なんとかしてもらおうと医務室に行って治療を受けるのですが、その時に使われたのはサリチル酸。

サリチル酸は水虫対策等に今でも使われており、患部に塗って処置するのですが、これが焼けるような感じがして相当にスースーするもの。

そこで予科練生の皆さん、我慢できずに精進川(現 花室川)横の土手で患部を丸出しにして、帽子であおぎながら涼んだそうです。

 

 

 

基地内とは言え、なかなかに凄い光景ですね。

 

数日たつと、薬を塗った場所の皮膚が剥け落ちて完治したそうですが、本当にカビは怖いです。

現代でもプールや銭湯でうつる可能性があるので、体は清潔にしましょう。

男性の皆様、お気を付けくださいませ。

 

 

 

 

6月10日(月)に慰霊祭が執り行われました。

場所は、土浦市大岩田の法泉寺です。

御存知の方もいらっしゃいますでしょうが、法泉寺は県立土浦第三高等学校の西側にあるお寺です。

 

 

当日は、当館調査委員の方々も参列し、記念館からも献花いたしました。

 

 

上の写真は法泉寺にある、犠牲になられた方の慰霊碑です。

 

阿見町は昭和20年(1945)6月10日(日)にB-29他による大規模な空襲に見舞われました。

予科練生の居た土浦海軍航空隊だけではなく、阿見町は海軍施設が集中していたため攻撃目標となり襲撃を受けたのです。

犠牲者は数百人に上ります。予科練の建物も過半数が破壊されました。

丁度日曜日だったので、予科練生に面会に来た家族の方々も巻き込まれてしまったそうです。

当館の展示室6では、その時の証言映像や落とされた爆弾の破片を展示していますが、それが人に突き刺さったのかと思うと、ぞっとします。

御遺体は荼毘に付され、残った御遺骨は法泉寺で供養されたそうです。

ただただ、ご冥福をお祈りするばかりです。

 

 

 

洗濯物で困っていた話やインキンの話。

阿見町の空襲の話。

まるで印象が違いますが、同じ場所で起こった出来事です。

戦争中でも面白いことはあったでしょうし、楽しいこともあったと思います。

日常生活が戦争で一気に豹変し、悲しいことも酷いこともあったと思います。

 

梅雨のもやもやとした空を見上げて、もやもやと結論もない、そんなことを考えてしまいました。

皆様はいかがでしょうか。

祝!20万人

6月 11th, 2013

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

予科練平和記念館では、6月9日(日)に来館者数20万人を突破いたしました!

前日から、職員が記念セレモニーの準備をして待ち構えているなか

20万人目のお客様をお迎えしました。

 

 

記念すべき20万人目のお客様は

美浦村からお越しいただいた伊藤重治さん伊藤利津さんご夫妻と

一緒に来館された、お孫さんの加藤空ノ輔くんと加藤向日葵ちゃん。

 

 

空ノ輔君と向日葵ちゃん二人一緒に、認定証を町長より贈呈させていただきました。

 

記念のくす玉も割ってもらい、教育長から絵画の贈呈もあります。

 

 

美浦村に住んでいるおじいちゃんおばあちゃんの家に、

泊まりにきていた空ノ輔くんと向日葵ちゃん。

いつも隣の公園に遊びに来ていたそうですが、

今日は偶然当館にも遊びに来てくれたそうです。

 

 

「ちょっとびっくりしたけど、うれしい!」

と喜んでくれました。

 

 

予科練平和記念館は平成22年2月2日に開館し、今年で開館四年目を迎えました。

本当に多くの方々のご支援を受けて、今日も開館することができています。

展示品のどれをとっても、持ち主の方々が戦時中のさまざまな思いを秘めて

寄贈してくださったものばかりです。

そんな当館に、20万人目の来館者をお迎えすることができたことを、

非常にうれしく、そして非常に有り難く感じております。

 

 

 

 

話は変わりますが、以前当ブログでもご紹介したツバメの雛達が先日、無事に巣立ちました。

 

 

かつてこの地で訓練に明け暮れていた少年たちが

憧れの眼差しで見上げていた空を、ツバメたちが自由に飛び交います。

 

雛達にとっては、初めての世界。

いったいどんな気持ちで、大空を翔けているのでしょうか。

 

今日は、20万人目のお客様をお迎えした後の最初の開館日です。

私たちも、新たな気持ちを胸に、これからの予科練平和記念館をつくっていきたいと思います。

 

 

皆様のご来館を心よりお待ちしております。

 

第46回「予科練戦没者慰霊祭」開催

5月 31st, 2013

 平成25年、爽やかな5月の風に誘われ26日(日)、(財)海原会主催の第46回「予科練戦没者慰霊祭」が陸上自衛隊武器学校「雄翔園」に於いて厳粛かつ盛大に挙行されました。式に先立ち慰霊飛行が会場上空で幾度となく行われ、参列者の帽振れで開幕となりました。

 当日は主催者の(財)海原会をはじめとして、元予科練習生とご遺族、自衛隊の関係者、ならびに阿見町民代表として町長が参列しました。式典は国旗掲揚(国歌吹奏)に始まり、献火、追悼の言葉、献花と進み、音楽隊の演奏が行われ閉式となりました。

 元予科練生たちは80歳を越えられた方々ばかりでしたが、ご高齢とは思えぬしっかりとした立ち振る舞いに、私は只々感心するばかりでした。どのお顔もかつて大空に憧れた少年たちの面差しに戻っておられました。元予科練生の皆さんは来年の再会を誓い合い会場を後にしたようです。

 戦後生まれの一人として、当時の少年たちが国のため、親兄弟や愛する人たちのために、と純粋な気持ちで命を捧げたことを私たちは忘れてはならないと思います。そして戦争のない「平和な世界」と「命の重さ」を改めて考えて参ります。

 この度の慰霊祭開催にご尽力された(財)海原会及び陸上自衛隊土浦駐屯地の皆様に対して心より感謝申し上げます。 

 平成25年5月28日    館長 加藤力男

衣を替えて、気分を変えて

5月 29th, 2013

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

5月も今週で終わり、来週からは6月です。

6月と言えば、衣替えの季節。登下校中の中学生、高校生の制服も涼しげになることでしょう。

かく言う予科練平和記念館でも一足先に衣替えを行っておりまして、5月から阿見町役場 統一基準のクールビズとなりました。

男性陣はネクタイが外され、女性陣も制服の上着を脱いでおります。

皆様はお気づきになられたでしょうか。

 

 

歴史を紐解けば、平安時代の宮廷行事には既に衣替えがありました。時代が下り、鎌倉時代の衣替えでは、服どころか調度品まで替える一大イベントになっています。

今とは気合いの入れ方が違いますね。

旧暦なので現在の日付(6月1日)とは暦がずれて、4月1日からの衣替えですが、もはや一種の文化行事です。

昔の人の気構えを思い、私達も薄着と言う事で、だらしない恰好にならないよう気を付けていきたいと思います。

 

ちなみに、日本海軍が参考にしたイギリス海軍では衣替えはありません。そもそもイギリスでは季節での寒暖の差があまりなく、英語自体に、「衣替え」という意味の言葉がないのです。

明確な日付がないので、一般の人々等は寒ければ長袖、暑ければ半袖と、めいめい勝手に服を替えているそうです。

 

 

 

さて、そんな日本の風物詩である衣替えですが、もちろん予科練生にも衣替えがありました。

6月1日に一斉に行われるのは現在と同様ですが、一度に夏服から冬服へと完全に変わった訳ではないようです。

当館で活動している歴史調査員の方に伺ったところ、まず6月1日に上半身は夏服、下半身は冬服の、通称「ハンクロ」スタイルに衣替えします。

このハンクロは、漢字にすれば「半黒」と書きましょうか。

夏服である第2種軍装の上着の色は白で、冬服である第1種軍装のズボンの色は黒。

(正確には濃紺ですが、この場合は黒と呼んだようです) 

 

 

 

「半分だけ黒」だから「ハンクロ」ですね。

そして、一ヶ月後の7月1日に、もう1度衣替えをして上下共に夏服となります。

6月では、まだ肌寒い日もあると言う事でこういった移行期間があったようです。

近年は温暖化の影響なのか、6月は既に夏と言う気もしますが、昭和の6月はどうだったのでしょう。

暑かったのか、寒かったのか、暖かかったのか。

 

季節の変わり目は体調を崩しやすいですし、日射病、熱射病の恐れもある時期です。

予科練生のように、余裕を持った衣替えで、お体ご自愛くださいませ。

さんぽ日和

5月 17th, 2013

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

最近は、暑いと感じられる日が多くなってきました。

予科練平和記念館の周りは、霞ヶ浦から遮るものがないため

晴れた日に外に出ていると、とても風が気持ちよく感じられます。

 

 

新緑の季節となり、記念館の周りは次第に緑が濃くなってきています。

 

 

足元に目を落とすと、シロツメクサが花を咲かせていました。

 

  

 

シロツメクサといえば四つ葉のクローバー

小さいころ、よく探して見つけていましたが…

 

なんと、日本で56枚葉のクローバーが発見され、

ギネス認定されているそうです。

 

数のスケールが大きすぎて想像できませんね。 

きっとそれはそれは立派な葉っぱだったのでしょうね。

 

以前ご紹介したツバメさん家のご新居です。

 

 

お子さんも何羽かいらっしゃいます。

まだ赤ちゃんなので、もう少し大きくなったらご紹介しますね。

 

 

記念館の周りを散策していると、

風に乗って土の香りが感じられるようになってきました。 

代掻きをした田んぼから、土の香りを感じると、

いよいよ夏の足音が聞こえてくるような気がします。

 

まだ小学生だったころ、田んぼのあぜ道を歩いていて、

倒れたままぴくりとも動かないおじいちゃんを発見し、

本気で救急車を呼ぼうか迷ったことが思い出されます。

(実際には、ただ木陰で昼寝していただけでした。)

 

 

 

そんなことは置いておきまして、

予科練平和記念館では、来月の6月2日に

予科練平和記念館学習会として、史跡探訪を予定しています。

茨城県内に残る近代の史跡を、学芸員と一緒に巡るツアーです。

参加無料ですので、お気軽に予科練平和記念館までお問い合わせください。

 

初夏の香りを感じながら、歴史散策に出かけてみませんか?

みなさまのご参加を心よりお待ちしております。

青や、緑や、黄色や、白

5月 8th, 2013

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

五月に入り一週間が過ぎました。ゴールデンウイークも終わり、みなさまは行楽シーズンも一段落と言ったところでしょうか。

 

ところで、五月は旧暦で皐月(さつき)とも呼ばれますが、旧くは月の名前は、それ一つではありませんでした。

今でこそ呼ぶ人は居なくなってしまいましたが、五月で言えば、橘月(たちばなづき)や菖蒲月(あやめづき)など季節の草花を冠した呼び方や、季節ごとの風景や行事からとられた名前など、さまざまな呼び名があります。

 

風景で言えば、五月雨月(さみだれづき)。旧暦では、五月はすでに梅雨でした。

 

行事から取られた別名は、予科練平和記念館の周りでも見られる、ある光景から取られたものもあるのですが、分かりますでしょうか。

クイズと言う程の話でもありませんが、御存知ない方は、下の写真をヒントに頭をひねらせてみてください。

 

霞ヶ浦沿いを歩いていれば、今の時期ならば自然と目に入る光景だと思います。

 

 

 

 

さて、正解の発表です。

答えは「田植え」。

別名には、稲苗月(いななえづき)、早苗月(さなえづき)、田草月(たぐさづき)と、一つどころか複数の呼び方があり、日本人は、農耕の民族なのだなと言うのがこんなところからも感じてしまいます。

…予科練平和記念館の周囲では、れんこん田ばかりで、クイズとしては、少し意地悪でしたかね。

 

ちなみに、「田植えの月があるなら、稲刈りの月もあるの?」と思われた方、ちゃんとあります。

9月の別名の一つは「稲刈月」。

分かりやすい。

 

青々とした苗が、黄色の稲穂に変わり、白い御飯に変わるのが楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

  

さて、お米の話を出しましたが、予科練生はどういったものを食べていたのでしょうか。

基本的に御飯は麦飯。小麦ではなく大麦です。白い御飯は士官でないと食べられなかったそうです。

それに味噌汁と副菜がつくのが基本の食事で、時には霞ヶ浦のわかさぎ等も出ましたが、日によっては麦飯、味噌汁、漬物を3回と言った日もあったようです。

当館で調査委員として活動されている元予科練生の方にお聞きしてみると、ラッキョウの漬物がよくでていたとのこと。

量については、10代の食べ盛りには、まったく足りなかったようで、予科練生の書かれた書籍や、当館で展示している手紙の中に、食べ物のことが所々に出てきます。確かに、今の食卓と比べてみると、おかずの種類が少ないように思います。

 外出の出来る日は、甘いものが食べられるのが楽しみの一つだったことも書かれており、もし当館にお越しの際には、そんな文章や展示をさがしてみてください。

 

もしかしたら、予科練生も外出帰りに、霞ヶ浦や田植えの苗を見て、秋のお米を想像してお腹をすかせていたかもしれませんね。

なんとはなしに当時の予科練の光景を想像すると、残っている白黒の写真の印象が強いせいか、想像の中まで単色になってしまうかもしれませんが、そういった身近な「食」や「色」を通して、予科練生の見た色も同じ色であったのかなと想像してみれば、浮かぶ姿が鮮やかになりそうです。

そうなれば、予科練生がまた身近に感じられるかもしれません。

空や霞ヶ浦、苗や稲や、お米の色はそうは変わらないでしょうから。

 

 

 先日、特別展の準備と勉強を兼ねて、東京に行ってまいりました。

まずは 千代田区の「靖国神社」へ参拝し、併設されている「遊就館」を観覧。

「靖国神社」は新聞、テレビ等でも取り上げられますので御存知かとは思いますが、戦争で亡くなられた御霊をお祀りする神社で、「遊就館」は、その靖国神社の祭神ゆかりの資料や、戦没者、軍事関係のものを展示されている施設です。

現在「遊就館」では常設展と共に、特別展「大東亜戦争七十年展Ⅱ」が開催されております。

史実に基づいて、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦など、日本軍の大きな戦闘を一つの単位にブースが分かれて展示がされており、展示の内容、展示の仕方ともに大変勉強させていただきました。

特別展は平成25年12月8日(日)までと長く開催しておりますので、皆様もいかがでしょうか。

 

 靖国神社 遊就館

http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/

 

次は、同じ千代田区の「しょうけい館」。

前述の「靖国神社」から歩いて数分、地下鉄九段下駅のすぐ近くにある資料館です。

こちらの館では戦傷病者の、書籍、資料、証言を保存、展示をしており、結核や赤痢などの病気、義眼や義手を使わざる得ないような怪我。そういったものの証言映像や、実物資料に写真、手記などが展示されていました。

あまりテレビ等では見られない、戦争の一面を見ることができます。

オフィスビルの一角で、少し見つけにくいかもしれませんので、行かれる方はご注意を。観覧は無料です。

 

しょうけい館 戦傷病者資料館

http://www.shokeikan.go.jp/index.html

 

最後は新宿都庁前、新宿住友ビル48階にある「平和祈念展示資料館」を観覧。

こちらの館は、旧軍の兵士(特に恩給がもらえなかった方)、戦後シベリア等での強制抑留者、満州等からの引揚者の労苦を伝えるための施設で、展示もそれら三つのテーマごとに3室にわかれています。人形を使ったジオラマもあり、そこは一瞬、本当に人がいるかと錯覚するほどでした。

観覧は無料で、展示は映像資料や実物大の人形、解説資料にマンガを使い、企画ではゴールデンウイークにはアニメの声優さんの読み語りを行うなどして、分かりやすいものとなっています。

こちらもご紹介しておきます。

 

平和祈念展示資料館

http://www.heiwakinen.jp/

 

雨にも負けず風にも負けず

4月 24th, 2013

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

最近は天候が不安定で、暑いくらいの日もあれば、寒い日もあったり、

晴れたと思ったら、急に強い風が吹いて雨が降ってきたり、

なかなか定まらない陽気に、少し振り回され気味な日々が続いております。

 

そんな毎日ですが、生き物たちはたくましく営みを続けているようで、

少し前から、予科練平和記念館のエントランスにツバメが巣作りをはじめました。

 

文字通り、雨にも負けず風にも負けず、

日々作り続けていたマイホームがこのほど完成いたしました。

 

もう少しして家族が増えたら、自慢の家にお邪魔させてもらって、お茶でもごちそう…

いやいや、みなさんにご紹介できたらな、などと考えております。

 

 

 

さて、そんなツバメを横目に見やりつつ、予科練平和記念館では去る4月13日(土)に

生活協同組合連合会との共催企画

平和のおはなし会~“今を生きる人”たちへ~を開催いたしました。

 

 当日は100名を超す方々にお集まりいただきました。

 

内容は二部構成で、

第一部 ヒロシマ・ナガサキでの被爆体験

 

 

県原爆被害者協議会会長の黒川博さん

同じく副会長の茂木貞夫さんにお話をうかがいました。

 

第二部 加奈の小さなおはなし会

 

元茨城放送アナウンサーの加奈さんによる読み聞かせ

絵本や予科練生の遺書などの朗読をしていただきました。

 

ヒロシマ・ナガサキを実際に経験された方々のお話は、

当時の様子を直接知らない私たちに、深く突き刺さります。

 

加奈さんのおはなしは、

時に感情を込めて激しく、時に包み込むようにやさしく響きます。

 

目に涙を浮かべている方もいらっしゃいました。

どんな思いで、おはなしを聞かれていたのでしょう。

みなさんそれぞれが感じ、考えるものがあったおはなし会だったと思います。

 

 

 現在、予科練平和記念館では、4月2日より

企画展「震洋~写真家荒井志朗氏の心象~」を開催しております。

 

震洋特攻隊員に選抜された荒井氏所蔵の写真を展示し、

当時の様子を改めてふりかえります。

 

7月7日までの開催となりますので、お時間のある方はぜひご覧ください。

みなさまのご来館を心よりお待ちしております。

 

 

 

時が過ぎるのは早く、気づけば桜が散り、春がせわしなく過ぎていこうとしています。

寒暖の差がはげしい日々が続きますが、みなさまお体ご自愛ください。

「さくら」と「おまつり」

4月 11th, 2013

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

4月に入りまして初めての当ブログの更新となります。

なかなか寒さが抜けない日が続いていましたが、ここ一週間で急に暖かくなり、ようやく春らしくなりました。暦の上では立春はずいぶん前に過ぎましたが、なかなか季節と天気は難しいです。

さてそんな中、春らしい名前のイベント「あみさくらまつり」の一日目が、去る4月7日(日)に、予科練平和記念館の敷地内で開催されました。

7日(日)、14日(日)の2週に渡るイベントの一日目で、お隣の陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校も4月6日(土)、7日(日)に一般開放ということもあり、前日からまさにお花見シーズンと言った雰囲気。

 

 …の筈でしたが、前日土曜日は生憎の雨。風も強く、天気予報やニュースでは外出をお控えくださいとまで言われていました。本当に季節と天気は難しい。

 

   

 

春の薫風はどこへやら、急な天気の変化に不安を抱えつつ、当日の朝を迎えましたが…

 

 

 

 

 

  

晴れました。

ほっと胸をなでおろしはしたものの、前日同様に風は強く、じっとしていると飛ばされそうなほどです。

イベント名にもなっている桜は前日の雨と風でほとんどが散っており、葉桜が目立ちました。

のんびりお花見。とは言い難い天気となってしまい非常に残念です。

翌週14日(日)に控える「あみさくらまつり」2日目は、緩やかな天気になって欲しいものですね。

 

 

ところで、さくらと言えば、特攻機『桜花』や、軍歌『同期の桜』に表されるとおり、予科練や特攻隊とは縁のある花です。潔く散る姿が、武士の時代から続く自己犠牲の精神の象徴とされ現在でもさくらのイメージの一面として度々語られます。

また、現在ではそう言った意味は薄れてしまっていますが、「お祭り」の元々の意味は、神様や神霊を祀る「お祀り」と同じものです。口に出してみると「おまつり」で音も一緒ですね。

来週の「あみさくらまつり」に参加しつつ、予科練平和記念館や雄翔館で、散りゆく桜を見ながら予科練生に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。 

 

予科練平和記念館について、これからの予定としては、4月13日(土) には生活協同組合連合会との共催企画「~平和のおはなし会~“今を生きる人たち”へ」が行われます。当館のラウンジを使用し、参加は無料です。

10:00~12:00の予定で、第一部と第二部に分かれており、第一部はヒロシマ・ナガサキの被爆体験者の黒川さん、茂木さんから当時の体験をお聞きします。

第二部では、元茨城放送アナウンサー・現あみ大使の加奈さんの朗読会になります。

また、4月14日(日)にはかすみ公民館にて、当館でも調査員として活動していらっしゃる元甲種第14期予科練習生の戸張 礼記さんが講師を務める講演会「過去を知って未来に伝える」が開催される予定です。15:30からの1回講演ですので、これらのイベントも併せて足をお運びくだされば幸いです。