あかとんぼとの出会い

3月 11th, 2015

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

にわかに暖かくなってまいりました。

そして、花粉ただよう季節となってまいりました。

3~4月は出会いと別れのシーズンと聞きますが、毎年「花粉とだけは出会いたくない」人も多いかと思います。

季節の変わり目は体調を崩しやすいので、花粉症に限らず健康にはお気を付けください。

 

 

さて今回の話題は、3月3日(火)から当館で開催されている企画展「あかとんぼの飛んだ空 ~海軍の練習機~」についてです。

3月1日(日)までのテーマ展「桜花 ~人間爆弾~」が終了し、さきほどの話ではないですが、新たな展示との「出会い」となります。

展示内容は、予科練生も卒業後に飛行練習で多く使用した「九三式中間練習機」、通称「あかとんぼ」について、資料を使用しての解説、説明が中心になっています。

展示構成は、当館でお預かりしている「あかとんぼ」の実物部品を文字通り会場の中心に据えています。

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ほかにも模型、教科書、写真、手紙などの資料で、「あかとんぼ」の様々な側面を解説します。

会場内無料配布資料の中には、こんな情報も。

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戦争映画などで、「あかとんぼ」にカタカナ文字と番号が描かれているものがありますが、尾翼や羽根に書いてある「カタカナ」と「番号」は、その飛行機がどこの部隊に所属しているかを表しています。

例えば写真にある「カ-855」の「カ」は、阿見にあった海軍の航空部隊「霞ヶ浦海軍航空隊」の所属であることを表しており、後ろの数字は部隊内の登録番号です。

ほぼ全ての海軍航空隊ごとに略号を持っているため、ここを見るだけでどこの飛行機を判別することができます。写真資料の裏面には一覧表を掲載しておりますので観覧の際は、ご確認ください。

また、「カタカナ」以外にも「番号」が書かれている飛行機もあります。

靖国神社 遊就館に展示されている零戦の尾翼には「81-161」と書かれているのですが、この「81」は第381海軍航空隊所属を表しており、場所ではなく数字で表される海軍航空隊では尾翼の前半に所属部隊の下2ケタを表示していたようです。

 

もしご来館いただいて、一つでも皆様の好奇心を刺激できたならば、これ以上の喜びはありません。5月末日まで開催しておりますので、足を運んでいただければ幸いです。

 

  

近日開催のイベントのお知らせです。

3月29日(日)に「おはなしと むかしあそびの会」を開催します。

霞ヶ浦高等学校演劇部の生徒達が、選りすぐりの絵本で読み聞かせをいたします。

その後はコマや竹トンボなどなど「むかしあそび」で遊びましょう。

お子さまといっしょにご参加ください。

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時間:3月29日(日)午前10:30~・午後2:00~(各回1時間)

対象:小学生くらいまで 未就学児は保護者同伴

参加費:無料(予約不要)

場所:予科練平和記念館情報ラウンジ

祝! 予科練平和記念館

3月 5th, 2015

 梅が見頃を迎えています。

 麗らかな好天気の中に生きられる時がまた巡ってきました。春に背を向けるような寒気にびっくりさせられる時もありますが、それももはやご愛嬌と考えられるほど「春」になりました。

 

 さて、すっかりご報告が遅くなりましたが、新春から予科練平和記念館は続けて吉事を迎えています。

 

 1月25日(日)には、来館者30万人目のお客様をお迎えすることができました。その記念すべきお客様は宮川きよみさん、翔太さん親子です。

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 宮川翔太さんは土浦市内に住む専門学校生で「戦争体験を語り継ぐ」というテーマで研究し、ホームページなどのコンテンツ作成に取り組んでいるということです。

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 戦争体験者や戦争があった時代を生きた方々と、宿命的に生死の別れを重ねていかなければならない現在、過去を学び、戦争のない社会作りについて深く考えてみようという宮川さんのような若者がいることにたいへん勇気づけられます。

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 戦争が終了したのが1945年です。ですから70歳になろうという、人生の大先輩でいらっしゃる方々も戦争体験はないことになります。こうした時代が到来したことに危うさを覚えることは、むしろ自分たちの未来を明るくするものではないでしょうか。

 予科練平和記念館にとって記念すべきお客様となった宮川翔太さんは成人となった「大人」ですが、これからの日本を背負って立つ若者です。多くの若い方に予科練平和記念館を訪れていただき、何か気付く、そうした場として活用いただければ、なにより戦陣に散った予科練生たちが胸をなで下ろすのではないでしょうか。

 セレモニーが終わった直後、藤枝(静岡県)からご来館下さったお客様にも記念撮影をさせていただきました。

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 来館者30万人目のお客様をお迎えしてまもなくの2月2日は、予科練平和記念館開館5周年記念日でした。

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 記念日当日の最初のお客様は田島敦さん、行方市からお越し下さいました。記念館恒例のくす玉割りをしていただき、認定証をお渡しするとたいへん喜んでくださいました。予科練平和記念館にとっても、たいへんありがたいことです。

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 田島さんはもう数年で還暦をお迎えになる方ですが、社会の重しになっていただくべき方にご来館いただくことも、先の宮川さんのような若者にご来館いただくこととはまた別の、重要な意味があるように思います。

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 なにやら世界的に不穏な空気が流れ始めているような気がします。

 私たちは、何をすればよくて何をしてはいけないのか、もう既に分かっているはずです。分かっていることを単純に実現することが難しいことは歴史が証明しているわけですが、悪しき輪廻を断つ、という新しい歴史を作る一人一人に、これからを生きる私たちは是非ともなろうではありませんか。

今と昔の願いごと

2月 17th, 2015

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

年度末も近くなりました。2月は逃げると言いますが、確定申告の手続き等々の年越しならぬ、年度越しの準備は3月に持ち越さぬよう、みなさまお早目に。

 

さて、そんな忙しいさなかではありますが、今回は昨年11月11日に当ブログでご紹介した「予科練生の行楽」の補足…のようなものをいたします。

以下の【 】は、その日のブログの抜粋です。詳しくは、その日の記事を読んでいただければと思います。

 

【『予科練歳時記』という本に掲載されている予科練生の日記によれば、11月に鹿島・香取行軍が行われています。

                            (中略)

こう書くとものものしいですが、鹿島・香取行軍でいうところの目的地とは、鹿島神宮と香取神宮です。

つまり海軍の遠足です。】

 

鹿島神宮と香取神宮に行軍したことについて書いてあります。しかし何故海軍が両神宮に行くかについては記述しませんでした。

軍の行事なので遊びにいくわけではありません。しかし名所旧跡を巡るにしても、神社はほかにもたくさんあります。何故この二社なのでしょうか。

御存知の方は当たり前すぎて、呆れられるかもしれませんが、戦後70年です。当時の常識は忘れられているかもしれません。いましばし、おつきあいください。

08.香取神宮行軍09.鹿島神宮行軍

さて理由です。

鹿島神宮の主祭神は武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)。雷、刀剣、弓術の神様で、武神です。

香取神宮の主祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)。「フツ」は刀剣の鋭い様を表した言葉といわれており、刀剣の神様で、こちらも武神です。

つまりこの二社は戦の神様をお祀りしている訳です。しかも鹿島神宮と香取神宮は、江戸時代まで三社しかなかった「神宮」の号を持つ由緒正しい神社です。

軍の行軍としては、うってつけの神社な訳です。

今は神社でお願いする願い事は、「家内安全」「商売繁盛」「安産祈願」などだと思います。戦前はそこに「武運長久」がありました。

それくらい戦が身近なものだったのです。

 

近日開催のイベントのお知らせです。

2月21日(土)に元予科練生の講演会を開催いたします。

時間は14:00~15:30。場所は予科練平和記念館ラウンジ。

講師は小林 和夫さん。

小林さんは、乙種十九期の予科練生で、現在雄飛会と言う元予科練生団体の会長を務めてらっしゃいます。

上に掲載した鹿島、香取行軍の写真は小林さんからお借りしたもので、予科練時代のお話しや、卒業後飛行教官をしていたお話など、戦後70年の思いを語っていただきます。

観覧には通常料金がかかりますので、お気を付けください。

お気軽にどうぞ

1月 21st, 2015

みなさまいかがお過ごしでしょうか。

毎朝車が凍結して、出勤までの短い時間、車の中で暖機しながら震えている私です。

 

 

2015年も明けまして、当予科練平和記念館も新たなスタートを迎えることが出来ました。

今年は開館5周年を迎える年です。開館からここまで、無事に来ることが出来たのは、

ひとえに皆様のご協力のおかげ、感謝感謝です。

 

 

 最近は天気のいい日が多く(つい先日雨が降りましたが…)

青空がのぞく日には、暖かな陽光が記念館の中に降り注ぎます。

記念館は、予科練生たちが憧れ、見上げていた空が、館内のどこにいても見れるように

たくさんの窓があいているのです。

 

日向ぼっこをしたくなるような陽だまりができます。

 

もちろん、館内は寒風吹きすさぶ外とは違って暖かくなってます。

 

実は、館内には自由に読める本や絵本を置いてあるんです。

 

穏やかな陽光を浴びながら、のんびりと本を読む。

 

どうです、来てみたくなったでしょう?

 

予科練平和記念館情報ラウンジといいます。

 

出入り自由な無料エリアです。お気軽にお越しください。

 

 

 

イベントもやってますよ。

今度の土曜日!

1月24日(土曜日)開催 「寒中祭(かんちゅうさい)」

ポスターおもちゃの病院追加広報

お子さんを対象とした色々な遊びをみんなで楽しもう!(中学生くらいまでが対象年齢です)

的当て、迷路ゲーム、腹話術やマジック、バルーンアートなどなど、いろいろやりますよ。

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壊れてしまったおもちゃを修理してくれる、おもちゃドクターも来ます。

記念館の外では、ミニトレインも走りますよ。

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参加は無料です。事前予約等も不要ですので、

お!なんか面白そうなことやってるな!みたいな感じでいきなり遊びに来てください。

小学生までのお子さんであれば、館内の展示も無料で見れますよ。

 

 

 

 まだまだ寒い日は続きます。

でも、この時期はとても天気のいい、快晴の日が多いです。

そんな日は外に出てみたくなるものです。

意外にも、土日は隣にある霞ヶ浦平和記念公園がご家族連れで大盛況なんですよね。

みんな元気です。

 

 

でも、ちょっと休憩したいな、と思った時には、気軽に隣の記念館に来て下さいね。

館内に入ったら、お金を払って展示を見ないといけない、なんてことはないです。

のんびり日向ぼっこしに来てくださいね。

干支は12か60か

1月 14th, 2015

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

新年あけましておめでとうございます。

西暦2015年、平成27年の最初のブログ更新となります。本年も、みなさまよろしくお願いいたします。

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さて、今回はお正月らしく干支の話です。

これを読まれている皆様の中には、年賀状に十二支の未(羊)のイラストを書いた方もおられるのではないでしょうか。

子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)。

この12種類が1年毎に巡ってくるわけで、本年の干支は「未」の番です。

 

しかしながら、実は今年の干支は「未」ではありません。

正確にいえば「『未』でも間違いというわけではないが、完全な正解でもない」といったところでしょうか。

では、今年は何ドシかといえば 「乙未(きのとひつじ)」 です。

 

急に「乙(きのと)」と言われても、なんのことだろうと思われるかもしれません。

現在では知らない方も多くなりましたが、先ほど書いた十二支だけでは、「干支」の後ろ半分の「支」の要素しかありません。

前半分の「干」にも十干と呼ばれる要素があります。

甲(こう、きのえ)、乙(おつ、きのと)、丙(へい、ひのえ)、丁(てい、ひのと)、戊(ぼ、つちのえ)、己(き、つちのと)、庚(こう、かのえ)、辛(しん、かのと)、壬(じん、みずのえ)、癸(き、みずのと)。

この十干と十二支を合わせたのが、本来の干支なのです。

1年ごとに、干支を組み合わせて1年目は「甲子(こうし、きのえね)」2年目は「乙丑(おつちゅう、きのとうし)」と続いて行き、10と12の公倍数である60年、60種類の組み合わせで、最初の甲子まで巡ってきます。

江戸時代の証文や手紙の日付を調べてみると、日付は「慶応四年 戊辰 ○月○日」といったふうに元号と干支が併記されているのが一般的で、普通に使われていました。

 ちなみに60歳を還暦と言いますが、語源はこの十干十二支に由来しており、自分の生まれた干支に61年目で「還って」戻ってくるから、そう呼ばれています。

 

元々、「干支」というは中国で誕生した分類方法で、暦だけでなく時間、方位、五行思想など色々な分野で使用されてきました。

十二支に動物の読みと名前をあてたのは後付のようです。

今では十干を身近に使用する機会は少なくなってしまいましたが、ひとむかし前までは色々な分類に普通につかわれていました。

現在でも各種免許の甲種、乙種。契約を結ぶ際の契約書には名前の前に、甲と乙とついているものもあると思います。

 もちろん予科練生が勉強していた時代には普通に使われています。

予科練の履修コース分類は甲種、乙種、丙種。

一般の学校では成績の評価は良い順に、甲、乙、丙の順で評価され、徴兵検査の結果も甲種、乙種、丙種、丁種、戊種の5種に分類されていました。

型式の分類にも使われており、日本海軍で最初に開発された特殊潜航艇は甲標的(こうひょうてき)と言う名前で、形式が甲型、乙型、丙型、丁型に分類されています。

 

当時は、普通のこと、当たり前のことでも、現在では知られなくなってしまった事柄はほかにも多くあると思います。

新年早々のちょっとした雑学ではありますが、みなさまの探求欲を少しでも刺激できたならば幸いです。

ご挨拶

1月 9th, 2015

 今年は、終戦から70年を迎えます。

 予科練平和記念館では、戦争体験者が少なくなる今日、予科練生(海軍飛行予科練習生)の遺品や関連資料を収集、展示し、予科練に志願した昭和の若者像を伝える施設として開館5周年を迎えました。

 茨城県阿見町は、大正時代末期に東洋一といわれた航空基地である霞ヶ浦海軍航空隊が設置されて以来、昭和14年(1939)には予科練が神奈川県横須賀から移転し、翌年には予科練教育を専門とした土浦海軍航空隊が誕生しました。

 海軍の町として長く歴史を歩んできた阿見町は、我が国の近代史の中でも特別な時代を過ごし、日本が経験してきた戦争と平和を考える上で、予科練を主体とした貴重な資料を保存、展示するとともに、戦史の記録を風化させることなく次の世代に継承し、「命の尊さ」や「平和の大切さ」を考えていただきたいと願っております。

 当館は、戦争体験のない世代にも分かりやすいよう工夫をこらし、今後も様々な活動を展開して参ります。

 これまで同様に、当記念館へのご支援、ならびにご厚情を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

平成27年1月吉日  予科練平和記念館長 加 藤  力 男

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「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」④

12月 28th, 2014

 今年も残すところあと3日となりました。

 阿見は、関東らしく暖かな年末を迎えています。

 本年も予科練平和記念館をお引き立て下さり、誠にありがとうございました。来年も、引き続きご愛顧賜りますよう、どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 予科練平和記念館は年末年始のお休みをいただきます。12/29(月)~1/3(土)が休館日です。

 新年は1/4(日)から開館いたします。お正月の休暇をご利用いただき、是非、予科練平和記念館へお越し下さい。

 

 12/20(土)には、元予科練生・久津美(くつみ)明氏(甲飛14期)を講師にお迎えし、講演会を開催しました。貴重なお話しを伺うことが出来ましたが、こちらのブログでも、引き続き橋原正雄氏の貴重なお話しをご紹介いたします。

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 愛宕での次の戦闘がミッドウェー海戦なんですがね。このミッドウェーというのがハワイのちょっと下、西にあるんですね。この海戦のときにはたいへんな艦隊だったんです。航空母艦が4隻、2等巡洋艦も2隻くらいいて、あと駆逐艦が7、8隻、これは大艦隊です。

 それで、母艦を護衛して行ったんですけれど、結論から申しますと、このミッドウェー作戦というのがたいへんな失敗でした。4隻の大型航空母艦がボカ沈食らっちゃった。加賀、赤城、飛龍、蒼龍、この4隻の大型航空母艦が沈められちゃったんです。

 色々手落ちもあったんですね。第1の手落ちはですね、とにかくあの付近はハワイに近いし、アメリカの艦隊が来ているという想定をしていたので、艦隊攻撃用の魚雷、空中魚雷と言っていますが、全部飛行機に装填してミッドウェーに入って行ったんです。それで、いざ飛び出そうと思っていたら、なんとその飛び出す前に、偵察に出ていた95式水上観測機から「今この付近には敵の空母は一つも見当たらない」と、飛び出して行ってから1時間近く経ってから報告が入ったんです。

 たまたま私はその時艦橋のすぐ右脇の高射装置という指揮所にいたんですよ。そしたら艦橋の話が手を取るようによく聞こえて、特に艦長の声が、体の大きな人でしたから大きな声でね、まだ偵察機からなにも連絡はないかとか、何回も聞こえました。

 多分、航空参謀の具申だったと思うんですが、この辺に艦隊はいないから、陸上砲撃に切り替えたらどうだと。しばらくしてから急遽、飛行機に、攻撃用の爆撃機に装填してある弾薬を全部陸上用に取り替えろという号令が出たんでね。私はすぐ右側の高射装置に、指揮所にいたんですけれども、相手の軍艦がいないんじゃ相手の飛行機も飛んでこねぇなと、そんな安心した気持ちでもいたんですよ。

 今装填した弾薬をみんな降ろして、また陸上攻撃用に取り替えしていた真っ最中に敵機がやってきた。どこから来たのか分からない。あの時は、グラマンのね、F4F、F6F戦闘機が先に来て、それからP38、これは胴が2つある戦闘機、双胴の戦闘機ですね、それからあと一つはP51、この3種類の戦闘機が入れ替わり立ち替わりやって来ましたね。それでまたたまげちゃった。あんな戦闘機が来るんじゃ近くに艦隊がいるという判断をしまして、それで艦隊攻撃用にまた、せっかく降ろしたやつを、艦隊攻撃用にまたセットし直したんです。そんなことをしているうちに今度はまた向こうさんの中型爆撃機、こいつがそれこそ雲霞の如くって言うんですか、空が黒くなっちゃうくらい、もう編隊を組んでね、大編隊で来たわけ。たぶん向こうではね、潜水艦がこちらの動向をキャッチしていたんですね。

 いやぁそれこそね、驚くほど来たんですよ。それで、距離が遠いときは愛宕の主砲が火を噴くわけですけど、45㎝でしたかね、それから高角砲が20㎝、2連装の片舷が2基ずつ、8基ですね。8門が一斉に、愛宕だけじゃなく高雄、鳥海、摩耶という、4つの一等巡洋艦が一斉に火を噴きました。とにかく航空母艦ばかりに敵は突っ込んで行くわけですよ。私らもちょうど水平線の辺りから敵の来るのを待っていたんだけれど、1機も私らの方には向かって来なかった。母艦だけ沈めて、みんな引き上げちゃったんですね。戦闘機にしてもですね、弾の中をくぐって突っ込んできましたよ。急降下でやってきます。バリバリって機銃掃射してヒューとひっくり返って退避していきました。そんなことが何回も繰り返されました。それこそ10分か20分の間でしたね。

 それから味方に近付いて行きましたら、航空母艦4隻が煙を吐いているんですよ。加賀、赤城、蒼龍、飛龍、それから巡洋艦の三隈っていう巡洋艦も1隻、沈められちゃったんですよ。それこそ大負けです。大敗でした。

大破した三隈 

 このすぐ後がソロモン海戦です。ガダルカナル撤退作戦、これは夜中にやったんですけれど、これは成功したんですよね。第3次のソロモン海戦に今度は栗田中将が第二艦隊の司令官となって第3次ソロモン海戦に行ったんですよ。

荷揚げに失敗した輸送船(ガダルカナル)

 その次に参加したのがインド洋作戦です。このインド洋作戦は第二艦隊だけが、これは18年の3月ですけれど、このとき私が零艦で観測命令を受けて、愛宕から飛び出して行ったんです。この時の零式観測機、装備と言いますとね、機銃が、20㎜機銃が2門、前と後ろに。これは搭乗員2人ですので、前と後ろに1門ずつ。で、旋回機銃というのがありましてね、グルグル回るやつですね、あれが1門あって、計3門の機銃を積んでおります。まあ、あまりあれですね、この機銃を使うことは私は一度もありませんでした。敵の戦闘機にでも見つかったらおしまいですよ。なぜかって言うと、下駄を履いてますからね。フロートが付いてるでしょ、スピードは遅いし、それで重量もあるし、これも相手のアメリカの戦闘機見つかったらまず助からないですね、残念ながら。

 この時インド洋で遭遇したのがイギリスの艦隊で、母艦が2隻、巡洋艦が2隻、駆逐艦が数隻、大艦隊ではないけどね、母艦も中型母艦でした。あの時は東方向に30度、距離いくつの地点、ということを愛宕に打電したんです。そしたら2番艦の高雄だけが艦隊からピョーっと外れて、その東30度方向に向かってきたんですよ。これは愛宕じゃねぇな、高雄みたいだな、と思っていると高雄が主砲攻撃を始めました。そしたら何とね、1番艦を狙ったやつが2番艦に当たったんですね。いずれにしても当たったんだからよかったんだけれども。上で見てましたらね、艦隊の1番艦を狙うよという話が入ってきたんです。そしたら2番艦に命中しましてね。

 そこへちょうどスコールが来ちゃったんですよ。今でも覚えています。真っ黒い雲でね、スコールがパーって寄ってきて、イギリスの艦隊を塞いじゃったんですね、スコールが。だからもう全然見えなくなっちゃった。多分飛行機がね、先ほども話しましたように、重い飛行機ですからね、下駄履きですから、スコールの中へ入ってしまうとなかなか抜け出すことが出来ないんです。だから、すぐそこから帰っちゃったんですよ。

 で、帰ってきたらですね、今度は飛行長に怒鳴られまして「お前は何しに行ったんだ。偵察じゃなくて観測に行ったんじゃないか」と。確かに偵察の結果は報告したんです。イギリスの艦隊が母艦が2隻、巡洋艦が2隻、あと駆逐艦が数隻いますよと、いうことは報告したんです。ところがそのときは観測機だけを飛ばしたわけです。帰ってきたら飛行長に怒鳴られましてね、いや、そう言えばそうだなぁ、俺は観測員だなぁなんて思ったわけなんです。

ラバウルブイン基地

 まあ、そんなわけで、インド洋作戦というのはスコールが入ってきたんで、残った艦隊はそのスコールの中に潜っちゃって、ずーっと南の方へ遁走した。逃げて行っちゃったんですね。このインド洋作戦というのが、初めてカタパルトから飛び出して行って、それでアメリカの艦隊じゃなく、イギリスの艦隊にぶつかったわけです。

今日この頃

12月 19th, 2014

みなさまいかがお過ごしでしょうか。

最近は、朝夕だけでなく、日中も冷え込むようになってきました。

体調管理が難しい季節になってきましたね。みなさんは、風邪などひいておられませんか?

  

 

当館の中は、空調と窓が多い設計が相まって、日中は太陽が館内を温めてくれます。

しかし、当館周辺は霞ヶ浦のすぐ近くということもあり、

遮られることのない風が自由自在に駆け抜けています。

当館隣にある、霞ヶ浦平和記念公園にはたくさんの子どもたちが遊びに来ますが、

みんな吹きすさぶ風に負けず元気いっぱいに駆け回っています。

子供は風の子と言いますが、冷風に身を縮こまらせている私としては、

大人になった今だからこそその能力がほしい!なんて思ったりもしている今日この頃です。

 

 

 

さて、話は変わりまして、現在予科練平和記念館では、企画展「桜花~人間爆弾~」を開催しております。

桜花ポスター

 

旧日本海軍が開発した特攻兵器である「桜花」をテーマとして、「桜花」そのものの構造についてや、

「桜花」を使用した特攻作戦に関する記録などのパネル展示。

桜花に使用された計器類や飛行服などの実物展示。

作戦に参加した方の証言映像を放映する映像展示などを行っています。

変わったものとしては、戦後にアメリカから発売されていた「桜花」の木製模型なども展示しております。

 

 

太平洋戦争で実施された特攻作戦というと、飛行機を用いた「神風特別攻撃隊」などを

思い浮かべる方が多いと思いますが、じつはそのほかにも、特攻作戦は考案され、実施されていました。

その中の一つである「桜花」について、そしてその作戦に参加して戦った人たちについて、

少しでも知っていただきたくて、展示を行っています。

 

 

この企画展は来年の3月1日(日曜日)まで開催しています。

通常観覧料金で、常設展示と一緒にご覧いただけますので、

当館周辺にお越しいただいた際には、是非一度お立ち寄りください。

 

 

 

その他、今後のイベントについてのご連絡です。

 

12月20日(土曜日)の午後2時から、元予科練生の方をお招きしての講演会を開催いたします。

今回講師をしていただくのは、元甲種14期飛行予科練習生の久津美 明さんです。

久津見さんは、昭和19年の6月に予科練生として当時阿見町にあった土浦海軍航空隊に入隊、

隊内での訓練を経て、昭和20年には三沢海軍航空隊へと転隊し、終戦時には大湊の特別陸戦隊に編成されていました。

予科練時代の思い出や、当時の生活の様子などをお話しいただきます。

 

 

12月25日(木曜日)は無料開館日です。

当日はどなたでも無料で館内をご覧いただけます。最初にご紹介した企画展もご覧いただけますので、

お時間のある方は、是非ご来館ください。

閉館時間後の午後5時から6時までは、土浦三高の吹奏楽部による音楽鑑賞会も開催しますよ。

もちろん参加は無料です。事前予約等も必要ありませんので、お気軽にご来館ください。

 

 

 

今年も、もうあと残すところ3週間を切りました。

私などは、年末の忙しさにかまけて、体調の管理をおろそかにしがちな日々です。

寒さはまだまだ続きます。皆様どうぞお体ご自愛ください。

霜と霞

12月 17th, 2014

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

12月に入り朝霜が本格的に降りはじめ、予科練平和記念館の周りも冬の到来を感じています。

茨城では今年の初霜は、例年より一週間ほど遅い11月の中旬に降りたそうです。11月の旧名は霜月ですが、名前のとおり初霜は11月初旬に降りているようです。

冬の到来を霜が降りることで感じる方もいらっしゃると思いますが、先月の当ブログのエントリで「秋が到来」と書いた時点では霜も降りておらず、まだまだ晩秋という風情でした。

一ヶ月たった今の情景と寒さをみるとウソのようです。

12月は手紙を書く際の冒頭にある時候の挨拶に、「霜気の候」、「霜寒の候」、「霜夜の候」などと表されます。

初めて霜が降りるのは11月ですが、やはり霜の冷たさ、冬の冷たさは12月に入って実感されるのかと思います。

 

 

さて話はがらりと変わりまして、今回は予科練の部隊と関わりの深い「霞ヶ浦海軍航空隊」についての話題です。

当館では予科練の練習部隊「土浦海軍航空隊」について主に展示していますが、その土浦海軍航空隊の敷地は霞ヶ浦海軍航空隊の水上班(飛行練習機による水上練習用の班)を、昭和15(1940)年に分離独立・拡大したものです。

霞ヶ浦海軍航空隊は大正11(1922)年に稲敷郡阿見村(現:阿見町)に誕生した航空機練習教育部隊です。

日本海軍としては「横須賀海軍航空隊」(神奈川県)、「佐世保海軍航空隊」(長崎県)に続いて日本で3番目にできた航空隊で、教育部隊としては日本で初めての航空隊です。

昭和5(1930)年に誕生した予科練制度を卒業すると、海軍飛行予科練習生はその名前から「予科」がとれ飛行術練習生となり、この練習部隊で飛行機操縦の訓練をしました。

現阿見地区のほぼ全域にわたる陸上飛行場と、霞ヶ浦の湖岸に建てられた水上訓練用の水上飛行場を中心に作られ、その敷地面積はおよそ85万坪(約2.8㎢)。東洋一の飛行場と呼ばれるほど広大なものでした。

また、茨城県南の海軍航空隊の中心となった航空隊でもあり、零戦などの実機訓練を行っていた筑波海軍航空隊(現:笠間市)や谷田部海軍航空隊(現:つくば市)は、この霞ヶ浦海軍航空隊の分遣隊から誕生しています。

現在では、その広い飛行場を思わせるものは、ほぼ残っておりませんが、この地に予科練の部隊があったことに強く関係のある事柄ですので、ご紹介いたしました。

霞ヶ浦海軍航空隊については、当予科練平和記念館から車で10分ほどの距離に「陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地」内の広報センターにも資料が展示されております。

事前に以下の自衛隊広報へお申込みいただければ無料で見学できますので、当館お立ち寄りの際には、そちらまで足をのばしてみてはいかがでしょうか。

 

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地 広報センター

開館日 :月~金曜日(土・日 及び祝・休日は除く)

開館時間:午前9:00~12:00  午後13:00~16:30

TEL:029-842-1211(内線2217、2218)

URL:http://www.mod.go.jp/gsdf/eae/eadep

 外観

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近日の予科練平和記念館イベントについてご紹介いたします。

12月20日(土)午後2時から「元予科練生講演会『よみがえる私の予科練時代』」が開催されます。元甲種14期生 久津美 明(くつみ あきら)さんから当時の体験談や思いを語っていただきます。

また、久津美さんは書に精通されており、現在は「碧洋」の書号で書展の開催など書家として活動されております。

講演会当日には予科練時代の思いや、そこから得たものを書に表したいと、お客様の目の前で一筆書かれるとのことで、そちらもご覧いただければ幸いです。

講演会の観覧には通常常設展の観覧料がかかりますのでお気を付けください。

「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」③

11月 30th, 2014

 寒くなってきました。しかし、11月最後の日の今日は暖かく感じられます。ちょうど旧暦10月の今頃は「小春」と呼ばれるそうで、今日の暖かさはまさに「小春日和」と言えるのでしょう。

 本日で企画展「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」は最終日を迎えましたが、展覧会でも取り上げた元予科練生の証言テキストは、皆様にまだご紹介を終えていません。貴重なお話しですので、展覧会の会期とは別に、引き続きご紹介させていただきます。

【橋原正雄氏:丙飛12期】

 昭和17年(1942)になって、巡洋艦の愛宕に乗り組みました。愛宕は1万トン巡洋艦、重巡洋艦(重巡)で第2艦隊の旗艦です。第2艦隊の司令長官は栗田健男(たけお)中将でした。愛宕艦長が中岡少将です。中岡少将は鳥取県の出身なんですよ。今もね、この方の娘さんと年賀状をやりとりをしています。艦長はもう亡くなったんですけどね。

重巡洋艦「愛宕」

 まあ、愛宕へ乗ったときのいろいろな細かな話もあります。初めて大きな軍艦に乗せられましてね、艦内旅行というのをやるんですよ。船の中を何がどこにあるか覚える、覚えさせられるためにね、艦内旅行。船の先端、これ「錨鎖庫(びょうさこ)」と言って、錨をしまってあるところですが、そこからずーっと甲板を船の後部まで駆け足するんです。毎日駆け足でどこに何があるかを確かめることを、海軍では「旅行」と言ってました。旅行してこい、とね。

 愛宕に初めて乗って、そのよく食事を今でも聞かれるんですけれど、まず、思い出すのはカレーライスですね。港へ行きますとね、海軍カレーなんていうのが売ってるんですよ。今もありますね。横須賀の港へ行きますと海軍カレーなんて看板が出ていてね。つい食べ損ないますけれど。今のカレーが当時と同じかどうかは分かりませんけれど、とにかくおいしかったですよ。あと食べ物っていうと缶詰が多かったですね。艦隊の移動と言いますと、まあ長いときで10日、あるいは2週間、短いときではほんの2、3日なんていう航海はあるんですけれどね。

 インド洋作戦に行ったときなんて、1ヶ月分の食料を積んだわけですよ。そういうときは缶詰ばかり。それとね、驚いたことに、野菜はですね乾燥野菜。菜っ葉類でもゴボウでも人参でもなんでもみんな乾燥してある。だから主計兵(食事を作る係)は大変だったようですね、これを戻すのに。それで味の付け方も違うみたいですね。また、食べる兵隊もうまいのまずいの、なんだこれ、こんなの食えるか、なんてね、怒鳴っている上官もいますからね。たいへんだったと思いますよ。毎回缶詰だとか、それからパン類はよく出たですね。あれは、コッペパンみたいなやつ。それから堅いパン、まあ戦闘食って言うんだけどね。

 で、感心したことにはね、結構コーヒーが出るんですよ。あの頃、コーヒーなんてどこから手に入れたんでしょうかね。ま、南方手広く占領しましたから、南方からどんどん取り寄せたんでしょうね。南方の基地っていうと、だいたい内地を出ますと、マーシャル諸島のトラック島というところに一度寄ります。ここは艦隊が常に入るところで、そのトラック島というところには4つの大きな島があって、夏島秋島冬島春島と、4つの大きな島があるんですが、たぶんここへ入ったときに積み込んだんじゃないかと思うんですよ。作業員整列、なんて号令がかかりましてね、缶詰担ぎに行くんですよ。野菜なんかもね、たぶんトラック島あたりで補給したんだと思います。

トラック

 それから水です。一番大事な水。まあ、水くらい大事なものはなくて、雨が降りますとねオスタップといって大きなドラム缶みたいなのやつを外に出して雨水を集めて、それで顔を洗ったり洗濯したり、風呂の水に使ったり、そんなことをやるわけですよ。そのオスタップというやつは、とても一人じゃ持てなかったですね。

 雨が降るっていうのは船の上にいると分かるんですね。黒い雲がザーッと押し寄せてくるもんですから。すると艦橋から、艦橋というのは艦長以下偉い人がいるところですが、そこから左何十度方向、例えば「右三十度方向にスコール」っていう号令が来るんですね。だんだんスコールが近付いてくるぞーっ、という号令がくるんですね。すると各分隊大きなオスタップを持ってですね、そのスコールが来るのを待ってるんですよ。戦闘中はそんなこと出来ませんけどね。で、スコールが来るっちゅうとその水を一杯貯めて、お風呂に使ったりもする。巡洋艦以上の大きな軍艦はみなお風呂がありますので、交代でお風呂に入ります。お風呂も偉い人が先に入って、あと順々に入っていくわけですけれど、そんなことも何回もありましたね。

 愛宕に初めて乗りましてね、新兵教育と言いますか、艦内教育と言いますか、朝から晩まで訓練ですよね。特に私はカタパルトから飛び出しまして、観測の訓練をやりました。カタパルトと言いますのは、鉄道線路みたいに2本の線路が延びているんですけれど、軍艦の両翼にカタパルトの台があるんですよ。この線路の上に枠があってですね、ちょうど1m四方くらいの枠があってその上に飛行機が乗っかっているんです。ここから飛び出すときには、エンジンは全回転です。

カタパルト

 飛び出す前はですね、軍艦そのものは風に向かって方向を転換してくれます。飛行機が風に向かって飛びだし風に向かって降りるというのは原則ですから。艦隊から離れて風の方向に向かってくれます。同時に、このカタパルトがグーッと外側に移動してくれまして斜めになりますので、その上から飛行機が飛び出します。

 全回転をしてエンジンの調子がいいと「よろしゅう」ってパイロットは合図をするんです。すると当直将校というのが艦橋のすぐ後ろにおりまして、これが引き金をぐっと引くわけです。すると、カタパルトの上に乗っかっている枠がすごい勢いで動き出してね、と同時に飛行機も動きますから、飛行機は全回転していますから上に飛び上がっていくと。ただ、飛行機がうまく風に乗らないとですね、倒立転回やることがあるんですよ。2回ほどありましたね。これが戦闘中だったらそのまま捨てて行っちゃいますけどね、訓練中でしたので、すぐにカッターを下ろして、あるいは内火艇、小さなボートですね、あれを下ろして救助に行くんですが、2回、3回くらい見ましたかね。

 見ていると分かるんですよ、いや危ねぇぞあれは、なんてね。すると、やっぱり飛び出したはいいけど、ヒューッと海面の方に降りて行っちゃってね、そのまま上がってこないんですよ。これは失敗だっちゅうわけで。いやぁ、失敗して帰ってきたときには飛行長に怒鳴られるわけ。「お前は大切な飛行機を一台壊した」というわけでえらいお説教食うんですけれど。ま、そうやってね、初めてこの、軍艦に乗ったときは訓練を受けました。

 愛宕というのは私にとっては初めての軍艦でしたし、すばらしい軍艦だったと思っています。艦長、第二艦隊の司令官、こういう方に教えられまして、実際に機銃の射撃訓練もやりましたね。この射撃訓練は、吹き流し、あれは10m、30m、50mでしたかね、それに向かって射撃するんですよ。母艦と一緒にいますとね、零戦なんかがそれに向かって射撃訓練をやる。ま、そんなことも愛宕では色々と勉強させられまして、実戦部隊というのは大変だなぁということをつくづく感じました。