特別展「回天」最終章

11月 22nd, 2012

 11/20(火)から予科練平和記念館では企画展「甲飛14期生~特攻が始まった年の入隊者たち~」が始まりました。

 今夏に開催した特別展「回天」では、回天特攻に関わった甲飛13期生をご紹介しました。回天搭乗員となったのは昭和18年12月の後期入隊者たちでした。

 その翌年、昭和19年に甲飛14期生は入隊を果たします。甲飛13期生も約28,000人もの入隊者を数えたわけですが、甲飛14期生は予科練史上最高の4万人超でした。

 その数には日本の戦局悪化が如実に表れており、また昭和19年10月に始まった特攻作戦によって予科練生の訓練内容や進路に大きな影響が出ることとなります。

 かつて海軍の航空戦力を力強く支えた予科練も、終戦間際には時代に翻弄された感は否めず、優秀な人材が失われたり、その能力を充分に発揮できなかったと言えるでしょう。  

 甲飛14期生を通して、戦争や予科練について皆様にも様々に考えていただきたいと思います。

 また、館所蔵の未公開資料も多数展示しておりますので、どうぞご来館下さい。

 

 さて、先回のブログに引き続き、元回天搭乗員・塩月昭義様の講演会レジュメをご紹介します。シリーズで回天のことをご紹介するのはこれで最後となりますが、予科練とも直接的につながる回天を通して、これからも皆様と様々に考えていきたいと思います。

 

【回天の事故と故障】

 導入できる新技術をすべて取り入れたとは言え、ほとんど試用期間も取れず操縦法も手探りで始めるしかなかった回天は、乗り物としては極めて不完全で訓練中に故障や事故が頻発した。

「回天の故障」

 〈冷走〉 エンジン起動時に点火せず燃焼ガスも高圧水蒸気も発生しないためにほとんど出力がなく走行不能で訓練は出来なかった。過度に低速にすると冷走することがあった。

 〈気筒爆破〉 エンジン起動時に燃焼室に海水の注入ができず燃焼室が溶損する故障。

 〈出力不足〉 魚雷は爆弾や砲弾と同じでただ一回の使用に耐えるだけの強度しかなく通常の内燃機関にあるピストン・リングもないため注意しないと摩耗による出力低下が起きる。

「訓練中の事故」

 〈イルカ運動による海底突入〉回天の横舵機は深度制御と姿勢制御(走行中に指定された深度をとり出来るだけ水平に近い姿勢を保持するための制御)という2つの機能を全うしなければならないため、潜り始めに尾部が浮いて大きな水しぶきをあげたり浅い深度で高速走行すると水面に飛び出したり潜り過ぎて浅い海では海底に衝突あるいは突入するいわゆるイルカ運動を起しやすい。海底は砂や岩が普通で衝突してもさしたる問題はないが、河口の先では泥沼になっているところがあり突入するとスクリューの逆回転機能のない回天は自力では脱出できなかった。

 〈衝突〉回天には特眼鏡という小型の潜望鏡がついていたがこれは浮上した時の海上観測用で水中ではせいぜい数メートルしか視界が効かずしかも走行中にはかなりの流圧がかかるので必ず特眼鏡は引っ込めて潜ることになっていた。そのため水中では盲目走行で自分の位置を知るには海図上の進路に時間と速度の積で計算した距離を記入して現在位置を知るしかなかった。この計算を間違えると潜ったまま島や陸岸に衝突する危険があった。

 また回天では浮上するときに頭上に何があるか知る方法はなく、たまたま浮上したところに船や浮遊物があれば衝突し重大な事故となった。

 さらに航行艦襲撃の訓練中に横舵の動作に異常があって指定した深度より浅いところを走行していて目標艦の艦底に衝突する事故があった。襲撃は全速で突入するのでこの場合の衝撃は極めて大きく回天の艇体は大きく破損するので搭乗員はすべて死亡した。

 

「大神基地における事故」

 〈衝突事故〉航行艦襲撃訓練たけなわのころ久堀隊長が訓練の帰途、見張り船(回天の訓練を見守りかつ訓練海面に民間の船が紛れ込まないように監視する船)に衝突して特眼鏡を壊した。その数日後今度は私が訓練に赴く途中に見張り船の制止も聞かず紛れ込んできた機帆船(焼玉エンジンと帆を併用する民間の小型船)に衝突した。どちらも一歩まちがって回天のどこかに穴が開いて海水が入れば沈没はまぬがれなかった。苦笑いをして上がってくるか別府湾の底で魚の餌になるかの違いはほんの数秒か数十センチの差でしかなかった。

 このような不可抗力ともいえる事故ばかりでなく故障発生時の搭乗員の応急処置如何により助かるものも助からないことがあるので搭乗員たるものは多数の応急処置のすべてを知悉し事故の状況に応じた最適の処置を選ぶ必要があった。

 2つの事故を見た大神基地隊の司令は我々久堀隊4人に特別休暇を命じた。翌日、弁当や缶詰を詰め込んだ籐製の小さなピクニック籠を下げて、クラブ契約のしてあった近くの網元さんの家に行き風通しのよい二階の大広間の畳の上に寝そべって古雑誌などを読みながら過ごした一日は文字通り忙中閑の楽しい思い出である。

 〈海底突入事故〉第一次出撃隊の訓練が終わり、我々が第二次隊員達の訓練の応援に忙しかったときに大神基地での最大の事故が発生した。7月25日に私は隊長と一緒に目標艦に乗っていた。午後3時にその日最後の原村隊員の発射が予定されていたが大分手間取っているなと思っていると追躡艇が全速で近づいてきて回天を見失ったという。隊長は“射点沈没(発射地点での海底突入)の算、大なり”と素手で発射指揮所に手旗信号するとすぐ目標艦で発射地点に引き返し、薄暗くなった海面に僅かな気泡を見つけて“ここだ”と指差して錘のついた浮標を入れさせた。

 先任隊長が救助作業の指揮者になり、サーチライトをつけて潜水夫を入れ尾翼にワイヤーをかけて引っ張っても、半分以上を泥沼に突っ込んだ回天はびくともしなかった。対岸の大分航空廠から駆けつけてくれた救難艇で引っ張ってもだめであった。

 私は作業船に先任隊長と一緒に乗り込んで発射指揮所の司令との連絡信号手を務めた。その当時の夜間の近距離通信はもっぱら懐中電灯の点滅によるモールス通信であった。

 訓練用の回天には頭部の爆薬室に海水を満たしておき事故で沈没したときに圧搾空気で排水して浮上する応急ブロー弁用のコックが操縦席の横にあった。原村も操作してみたが泥沼の圧力で排気弁が開かずあきらめたと後で言っていた。

 空襲警報が鳴り潜水夫を引き上げてサーチライトを消し、爆音が遠くなるのをじっと待っている間に先任隊長が“今あいつを死なせると後が大変だなー”とぽつりと言った。それを聞いた私は何とか助けなければと思った。

 10時間といわれた酸素欠乏の限界時間が近づいたとき、残された手段は回天にかけたワイヤーを回天と直角の方向に引くことしかなかった。回天が折れれば搭乗員を助けることができないかも知れないことを覚悟しての決断であった。

 ほぼ垂直に飛び上がるようにして浮上した回天が水平に落ち着くのを待ちかねたように飛び乗って金槌でハッチを叩いた先任隊長が中からの確かな応答を聞いて“生きてるぞーっ”と叫んだとき、まわりに集まっていたすべての作業船の上から一斉に“うぉーっ”という歓声が上がったのを忘れることができない。

 桟橋で待っていた軍医長と一緒に担架に付き添って白々と明け始めた坂道を医務室に急ぐ途中で“本日の総員起しを07:00とする(徹夜した作業員にしばらくの睡眠時間を与える)”という隊内放送を聞いた原村が“おれのためにみんなにえらい迷惑をかけたなー”というのを聞いたとき、軍医長の心配していたガスによる神経障害はないなと安心した。

 回天には事故で長時間閉じ込められたときのために通称“提灯”という炭酸ガスを吸収して酸素を放出する化学装置と長時間の事故のための応急糧食が用意されていた。提灯を開いたのは当然としても、応急糧食まで開けて全部平らげたという原村の研究会での報告にはみんなあきれた。司令以下2千人に及ぶ基地の全員が如何にして助け出そうかと苦慮しているときに当人は平然と非常食料を平らげているとはあきれた神経である。潜水夫の靴音やワイヤーの音が聞こえていたので助かると信じていたという。応急糧食の中身は言わなかったが素晴らしくうまかったそうである。

〈漏水事故〉回天の整備作業が終わると仕上げとして漏水がないか確認するために必ず“水漬け”という試験が実施された。魚雷調整場の横にある細長いプールのような水溜で水漏れを検査するのである。

 私は非常に稀な漏水事故を経験した。回天にはキングストン弁(海水タンクに海水を注入するための弁)が操縦席の下にあった。その軸からなぜか漏水したのである。

 キングストン弁を閉じておけば回天全体の浮力に変化はないが潜るときに前部に流れる海水のためにダウンがかかり、なかなか戻らない。どうしてもだめなら応急ブローを使うことにして傾斜計を見ながら潜航したが深度50メーターぐらいでやっと上昇を始めた。別府湾は深かったが瀬戸内海の基地の訓練海面は浅くこのような試みは無理であったろう。

 

【大神回天隊】

 昭和19年の11月になると大型潜水艦の甲板上に回天を4基ないし6基積んだ特別攻撃隊が山口県の大津島基地から出撃するようになった。翌年の春には近くの光基地からも出撃が始まり、基礎訓練を受けながらそのたびに見送りに出る我々にもひしひしと戦局の逼迫が伝わってきた。桟橋に並んで見送る我々に笑みをうかべて応える出撃隊員もいた。

 基礎訓練がようやく終わったころ、急に第4番目の訓練基地要員として同僚約240人とともに別府湾北岸の大神(おおが)基地に行くことになり4月初めに巨大な戦艦が光基地のはるか沖を西進(今思えば戦艦大和の沖縄出撃)するのを見た数日後に大神に着いた。

 着いてみると大神基地にはバラック兵舎が数棟建っているだけであった。われわれは翌日から早速建設工事の応援にとりかかった。近くの川に砂利とりにトラックで往復したり、飛行機の格納庫のような回天の整備場の屋根ふきに上がったりした。整備場のわきには巨大なコンプレッサーで空気を圧縮・液化して酸素を分離抽出する酸素工場や、回天に装備されるきわめてデリケートなジャイロコンパス付の自動操縦装置(電動縦舵機)のための専用調整室などが続々と完成し、回天を整備場から湾内に上げ下ろしするトロッコのレールも敷かれて5月末には回天の試験発射ができるまでになった。これだけの工事をわずか2月足らずの突貫工事で完成させ二千名に及ぶ要員による終夜の魚雷整備体制を整えたこと自体、当時の海軍の回天によせる期待がいかに大きかったかを物語る証左に他ならない。

  今にして思えばこの2ヶ月の訓練開始の遅れが結果的に私をあの戦争に生き残らせることになったといえる。人の運命などは何が幸せになるかわからないものである。

 待ちかねたように6月からは日本海軍独特の月月火水木金金という休日なしの猛訓練が始まった。私の初搭乗は6月1日でそれから1ヵ月半の間にほぼ1日おきに21回搭乗して訓練を終えた。

 発射訓練のあった日は毎晩司令以下の兵科士官と下士官搭乗員が全員夕食後の士官室に集まり当日の訓練に関する研究会が開かれた。初めの頃は回天の基礎的な操縦法や、事故や故障の発生した時の応急処置の適否などが主な議題であったが、襲撃訓練が始まってからは搭乗員がその日の実際の襲撃状況を射法効果図として図上に表し、目標艦の側から見た結果と照合して斜進角度決定の緒元すなわち目標艦の進路・速力および襲撃距離という3つの数値の測定技術の向上法や占位運動の適否が論議された。

 魚雷は砲弾や爆弾と同様にただ1回の使用に耐えるように設計された兵器で回天の訓練に使用された魚雷ももちろんそうであった。そのため訓練の終わるたびにエンジン部分を分解掃除して磨耗した部品を取り替える必要があり整備員の苦労は並大抵ではなかった。それでも整備が間に合わなくて訓練に支障を来たしたことは一度もなかった。

 度重なる空襲で主要な工場の生産力が低下するなかで回天の生産はかなり順調であった。それに対して回天を搭載する大型潜水艦は数少なくなっていたため、陸上の拠点から回天の持つ速くて長い足を活かして敵の機動部隊や本土上陸部隊を邀撃することが回天の主な任務となり、私たち8人は豊後水道の入り口にあたる麦が浦という愛媛県の小さな漁村の近くで待機することになった。

 8月3日の夕刻に待ちに待った輸送艦が到着すると大神基地は戦場のような騒ぎになり、完璧に整備され頭部に爆薬を装着して特眼鏡に注連縄を巻いた出撃回天8基を輸送艦に搭載する作業が整備員総出で深夜過ぎまで続けられた。出撃搭乗員8名は揃って士官浴室で沐浴し第3種軍装に着かえて夕食を済まし出撃祭典を待った。

 出撃祭典は深夜0時に基地本館内に祭られていた回天神社の前で始められ、神戸の湊川神社から贈られた七生報国の鉢巻を締めてもらって別れの杯をくみかわし、桟橋に並ぶ夜目にも白い非理法権天(注)や南無八幡大菩薩の幟の下でみんなに挨拶して輸送艦に乗り移ったときには午前2時をまわっていた。輸送艦はすぐに出航した。(注 非理法権天:非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権力に勝たず、権力は天命に勝たずという楠木正成の幟に記された文字。人事はつまるところ天命のままに動くという意。ヒリホウケンテンと読む。)

 艦内で一休みして甲板に出てみるとすでに夜が明けており、佐賀ノ関の精錬所の高い煙突が右手に見えた。これからカンカン照りの豊後水道を横断しなければならないのであるが、そのころは既にアメリカの艦載機は我が物顔に本土上空を飛び回っており、潜水艦は瀬戸内海にまで入り込んでいると言われていて彼らのいずれにも発見されることなくかつ触雷することもなく対岸に到着できる確率はきわめて小さかった。むろん護衛艦などあろうはずもなく輸送艦自身の対空装備といえば前甲板に口径12.7センチの高角砲が1門と両舷に25ミリ機銃が2丁ずつ計4丁あるだけであり、海鷹のようにロケット弾を装備した艦載機の編隊に発見されればひとたまりもないことは明らかであった。

 大神基地の建設工事のころ、数人で近くの川で砂利取りをしている最中に空襲警報が鳴り、人っ子一人見えなくなったところで北九州爆撃の定期便になっていたB29の編隊を見上げていたところ、対岸の家並みの瓦屋根にカンカンカンと音がしてアレッと思うまもなく目の前の水面にシュッシュッシュッと一列に水しぶきが上がった。それを見てハッと気がついて飛び退いたそのあとにチッチッチッと火花が飛んで砂利が跳ねた。

 状況からみて我々を狙った機銃掃射であることは明らかであり、味方戦闘機の上昇限度を越える高空から地上に静止している人物が見分けられることに驚くと同時に、射撃の正確さに舌を巻いた。快晴の海を航行中の輸送艦ならばその積荷まではっきり見えるはずで、B29の編隊に発見されて一斉に銃撃されれば何が起こるか分からなかった。

 信じられないほどの幸運に恵まれて目的地の麦が浦に着いたのは午前11時半であった。直ちに地元の漁船まで総動員して揚陸作業がはじめられ2時間たらずで8基の回天は海に面した5本の岩のトンネル内に引き込まれた。

 8月12日の昼近く、本部より12時間待機が発令され、すべての仕度をしてトンネルにこもり次の指令を待ったが遂に次の発令はなく翌朝待機命令が解除された。回天で文字どおり“回天の偉業”が成就されると信じていた隊員にとって8月15日の敗戦の報はショックであったがアメリカの報復をおそれた日本海軍は早々に我々を除隊復員させた。

「搭乗員の心理」

 短い海軍生活で、もっとも印象に残っているのは勿論大神の回天隊である。初搭乗の時の記憶はいまだに私の脳裏に残っている。夕食後の士官室の黒板に翌日の搭乗割を記入する先任将校の手元を見ていて自分の名前を確認した私は搭乗する回天の番号と発射時刻をメモして直ちに宿舎に帰り、前から用意しておいた自分の第1回目の訓練計画を注意深く再検討して寝ずに待っていた指導官に見てもらい細かな修正を繰り返して最終的にOKをもらった時には日付が変わっていた。

 それから私は薄暗い常夜灯の点った大浴場に行き、ぬるい風呂に入って下着を着替え、脱いだ下着を洗濯して星明かりで干し場に干した。もしも事故で死んだ場合、汚い下着を着ていたり遺品の中に汚れた下着があったりしては恥ずかしいからである。

  睡眠不足で訓練に臨むと勘も判断力も鈍り、訓練効果が上がらないだけでなく事故や故障が起きた時の応急措置を誤る危険も増すから搭乗前夜には十分に睡眠をとっておくようにと先輩に言われていたので、さあ寝ようと思って床についたものの初搭乗の興奮や事故の心配などでとても眠れたものではなく遂に一睡もできないまま“総員起し”を迎えた。いつものとおり朝礼や体操を済ませて皆と一緒に食卓についたが、今夜ここに座って夕食がとれるだろうかと思うと食事はのどを通らなかった。

 徹夜作業を経験された方はおわかりと思うが、翌朝のあのなんとなく体が浮いたようなそして頭の中に霞がかかったような気分で命がけの訓練に出かけるわけで、自分の手に負えないような故障や事故に出会わないようにと回天神社に深々と頭を下げて特別のご加護をお願いしたうえで発射指揮所に向かったものである。神頼みという言葉は無責任の代名詞のように使われるが、人間は自分の能力の限界を超える困難に直面すると準備を尽くした後は神に祈るしかない。大学入試の合格祈願とは次元の異なる祈りである。

 今思えば一睡もできないまま訓練に赴いた最初の二、三回の搭乗が最も危険であった。少し慣れて前の晩に十分眠れるようになると訓練もだんだん充実してきて技量も上がってくる。それでも21回の搭乗訓練中に生きて帰れたのは僥倖としか言いようがないような不測の大事故に遭遇した。同僚や他の基地の例から考えても訓練中に1回ないし2回の死の危険をすり抜けた搭乗員だけが出撃できたのである。

 出撃搭乗員に選ばれることは回天隊員として最高の名誉でありそのために日夜研鑚を積むわけであるが一旦選ばれれば死は目前に迫っており、覚悟して志願した身ではあってもなんとなく重苦しい気分になってくるのは避けられない。出撃待機中のある日、窓の外を眺めながら郷里の景色や台所に立っている母のうしろ姿などをなんとなく思い出していると軒端でチュンチュン鳴いている雀が目にとまった。無心に戯れている雀を眺めながら、彼らは天から与えられた寿命を自然のままに全うすることができて幸せだなと一瞬うらやましく思った。隊員の作詞した軍歌で“弱冠二十歳の若桜・・・”と歌っていた私はそのとき満18歳と6ヶ月で、“はたち”という歳には届くことのないあこがれがあった。

 人間はいかに使命感に燃えようとも自分の命を犠牲にすることに全く頓着しなくなることはありえない。特にものを考える余裕ができたときに深刻である。しかしながら、出撃祭典で七生報国の鉢巻を締めてもらったときには全身に電撃が走り、一瞬にして自分自身が神になったと感じると同時に使命を全うしようという意欲が湧然と盛り上がって来た。その後の長い人生においてもこのときに勝る感動を味わったことはない。

 多くの特別攻撃隊員が尊い命を自ら進んで国家に捧げた。どの隊員も多数の志願者の中から選ばれた心身ともに健全な若者であったが、人間である以上、出撃前に多少の迷いはあったかも知れない。しかしながら最後は使命感に燃えて気力充実した状態で突入したに違いないと私は自分の経験から思う。そうでなくては突入ができるはずがない。

 特に回天では突入するとすぐ衝撃信管の安全装置を解除し電気信管用の電池を接続する冷静な操作と、目標に命中するまで何回でも再突入する強靭な精神力が要求されていた。

  特別攻撃隊員に限らず、人のために命を捧げることは人間の死に方としてこれ以上崇高なものはないと今でも私は信じている。

「回天神社と高校生」

 平成14年4月、別府湾北岸の大神にあった旧海軍の人間魚雷回天の訓練基地跡に当時の隊員約70名が集まり、回天神社と呼んでいた隊内神社を戦後ずっと預かってもらった近くの住吉神社において元隊員その他の寄金により再建された回天神社の改築記念遷宮祭と犠牲者の合祀を地元の皆さんのご協力を得て盛大に執り行った。

 その夜の懇親会が始まる直前、地元の高校生男女数人が引率の先生と共に会場を訪れ、“終戦直前に別府湾で米艦載機に襲われ擱座した‘海鷹’という航空母艦のことをクラブ活動で調べているうちに、昭和20年7月に人間魚雷回天の訓練の目標艦になったという記録を発見しましたがその時のことをご存知ありませんか”と玄関近くにいた私の友人に聞いたという。友人が“勿論知っています。その時海鷹の下を回天で実際にくぐった4人のうちの2人も来ています。”と答えたところ“是非お目にかかってお話を伺いたい”ということになり、私ともう一人の隊員が会ってわずかな時間であったが話をした。

 回天神社という小さな祠があることは知っていてもその由来を知らず、まして自分達と同じ年ごろの若者が国家に命を捧げるための訓練をしていたという事など思いもよらなかった高校生達は、その後地元の老人たちに聞いたり残された資料を調べたりして目の前の海であった事を記録に残そうとした。高校生たちの作った記録の中で彼(女)達は最初に“国を守るとはどういうことか”という政治の根源的な問題を問いかけている。

 このような若い人達が現在の日本にいること自体が私にとっては信じられないほど嬉しいことであった。また半世紀以上も昔のわずか数ヶ月の付き合いを忘れず、回天神社改築の企画当初から全面的に協力して下さった地元の皆さんや、新社殿を総ヒノキ作りで釘一本使わずに精魂込めて組み上げて下さった棟梁の心情に心から感謝している。

 “日本という国は侵略戦争を起し大勢の若者を戦場に送り特攻攻撃を命じて多数の戦死者を出し、残虐行為で世界中に多大な迷惑をかけた末にその報復で都市のほとんどを焼け野が原にされ多くの国民が塗炭の苦しみを味わった暗い過去をもつ国である、などと教えられた私たちはそれをそのまま生徒に教えてきました。ところが皆さんの話を聞いて以来このような人たちが命を捧げてまで守ろうとした日本という国はそんな悪いばかりの国ではなかったのではないかと気付き、生徒たちと一緒に事実はどうであったのかということを本気で考えるようになりました。”

 これは高校生たちとの数年にわたる付き合いのなかで担任の先生があるとき述懐してくれた言葉である。