企画展「甲飛14期生」④

2月 20th, 2013

濱中榮次 氏(甲飛14期・旧海軍105特攻加賀部隊)

 

 正式名称は、旧海軍の横須賀鎮守府付「海軍第105特別陸戦隊」。当時の隊員は、空挺特攻隊などと呼んでいた。部隊の司令は海軍少佐加賀誠氏(海兵65期)。

 隊員は土浦海軍航空隊甲飛14期出身者が主体で、若干の衛生、主計、砲術等の一般将兵を加え編成された約500名の部隊だった。

 昭和19年にはマリアナ諸島(サイパン、テニアン、グアム)、フィリピンなどが陥落し、翌昭和20年には硫黄島、沖縄などが激戦の上占領されるなど、戦況は一層不利となっていった。昭和19年からは連日のようにB29による大規模空襲が全国の軍施設や主要都市に向けて行われていた。

 特に、マリアナ諸島のアメリカ軍基地にはB29約1,300機が駐留していることを海軍も把握していた。隊の目的は、昭和20年8月、月明かりを利用して一式陸攻や銀河などで出撃し、マリアナ諸島、硫黄島のB29基地を奇襲し、B29を徹底的に破壊するという特攻作戦だった。

 海軍は、アメリカ軍が沖縄周辺に主力を置きマリアナ方面の警戒が薄いと見て、この奇襲作戦が成功するのではないかと考えていたようである。特攻による波状攻撃が成功すれば、日本本土への本格的空襲が当分緩和され、本土決戦態勢の強化、また講和・終戦への筋道をつけることが可能という望みをもっていたと考えられる。

 当時、部隊への作戦伝達は口頭による極秘が貫かれたようで、文書や通信機器は一切使用されなかったらしい。よって、今日、この作戦を裏付ける正式文書は見当たらないとされている。戦後における元司令の談話や元隊員たちの手記や語り等で、当時の状況がかなり明らかになり今日に及んでいる。

 当初は沖縄戦に間に合わせるため部隊編成は昭和20年2月と予定されていたが、諸事情で7月になった。編成は昭和20年7月末に横須賀海軍砲学校で行われた。私は、加賀部隊第2中隊第6小隊第3分隊所属で、当時の階級は飛行兵長だった。この横砲は「トンネルくぐれば軍紀風紀の風が吹く」と言われたところである。私が105部隊員として短い在隊中、兄と偶然出会い何日か語り合ったところであり、昼夜問わずの激しい空爆下での訓練が行われたところであり、思い出も多い。訓練としては、自動小銃(ビルコマン)の扱い、徒手体操、敏捷さを身につけるための駆足の他、夜目を慣らすために夕方出発して山野を駆け巡る陸戦訓練などが行われた。秘密部隊の編成や当初訓練のために横砲は格好の場所であったのか、8月中旬まで17日間滞在した。

 昭和20年8月14日夜半、全隊員が集合し、横須賀から軍用列車で秘密裡に出発した。行き先は北海道千歳特攻基地と聞いていたが、三沢基地に変更となった。

 8月15日の終戦は全隊員がこの列車の中で迎えた。東北線古間木駅で下車後、広場で司令から終戦が伝達され。三沢基地に何日か待機することとなる。特に混乱もなく、皆次の指示を待っていた。やがて横須賀に戻り、部隊の大半は横須賀対潜学校付となり、作戦中止後の終戦処理(残務事務、重要書類焼却、武装解除、物品現金等の運搬授受)にあたった。部隊の一部は戦闘機搭乗員たちの反乱が懸念された厚木基地に派遣され、警備の任についた。私たちはNPの腕章を付け、外部からの不穏分子進入警戒と、連合軍の無事な進駐のための準備にあたった。武装部隊の出動は、正しく組織訓練され秩序が維持されていなければならず、私たちはよくその任を果たしたと思う。

 8月28日にアメリカ軍の進駐が始まり、マッカーサー将軍も到着した。小型機、輸送機、ジープ、無線技術、そして将兵達の様子を見て日本との大差を強く感じた。やがて105部隊の武装解除となったが、内地では最後ではなかったかと思う。

(「旧海軍105特攻加賀部隊について」から抜粋)

 

明日はイベントめじろおしです

2月 15th, 2013

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

ちらほら梅のたよりを耳にするようになりましたね。

百花にさきがけて春一番に咲く梅は、菊・竹・蘭と並んで

「四君子」と言われ、格の高い植物とされています。

また、日本を代表する花といえば桜と思いがちですが、

日本最古の和歌集「万葉集」では、梅を詠んだ歌が桜の歌よりも3倍近く多いのだそうです。

昔の人も、春を知らせてくれる梅の開花を待ちわびて、とっても

気にしていたのかもしれませんね。

 

茨城県内の梅の名所、筑波山では今週土曜日から、水戸市の偕楽園では

20日(水)から梅まつりがはじまります。

おでかけするのが楽しみな季節になってきました。

 

予科練平和記念館でも、明日16日(土)には昼・夜にイベントがあります。

 

♪ お昼のイベント ♪

『大人のための朗読会 加奈の小さなおはなし会』

13:30~ 館内ラウンジ 予約不要 公演時間約45分

休憩時間にホットティーのサービスがあります。

 

元茨城放送アナウンサーの加奈さんによる、大人のための朗読会。

 

 

毎回心に染みるお話を聞かせてくださる加奈さんですが、

今回は映像を使った朗読も予定しています。

いつもとはまた違った雰囲気で、おはなしをお楽しみください。

予約不要で、ふらっとお立ち寄りいただいてもお気軽にお聞きいただけます。

外に出るのはちょっと寒いかな・・・と思われるかもしれませんが、

それ以上の感動を得られると思います。

数々のものがたりに、そして加奈さんの声に心ゆさぶられてみてくださいね。

 

 

 

☆ 夜のイベント ☆

『冬の星空ファンタジー☆in予科練平和記念館』

 17:30~20:30

(天体観測、天文学は18:00~)

 

予科練平和記念館で星空を楽しむイベントです。

詳細は前回の私Wの更新したブログの中でもお伝えしましたが、

1年でいちばんきれいな星空をみんなでながめよう!という企画です。

 

 

今回講師として冬の星空のお話をしてくださる久保庭先生の撮影なさった星空です。

先生は、「茨城県おもしろ理科先生」として、たくさんの人たちに天文学のおもしろさを

伝えていらっしゃる方です。

おだやかな語り口で、どんな宇宙の不思議を教えてくださるのかとても楽しみです。

 

星空のイベントは、たくさんの方にお申し込みいただき、現時点で定員に達しております。

ご予約いただいたみなさん、ありがとうございます。

今回のイベントには、グルメブースで引き換えられるチケットもついていますが、

担当者に聞いたところ、おいしいものがたくさん用意されているようです。

こちらもぜひお楽しみになさってくださいね。

 

 

また、当日は予約がなくても参加できるイベントはこちらです。

 

「夜の記念館でクイズラリー」

17:30~ 館内エントランスホールで受付 予約不要 参加無料

 

ペンライトを持って、暗い館内にクイズの答えを探す旅にでよう!

クイズ王に、おれはなる!!

館内にはこの日しか見られない演出がしてあります。

参加してくださった方には、おいしいプレゼントもありますよ。

 

クイズの難易度は、Easy→Normal→Hard→Very Hardの4種類ありますので、

ぜひチャレンジしてみてくださいね☆

展示解説員さんもてこずったVery Hardが解けたあなたは、

完全に予科練平和記念館マニアです。

 

 

館の外には、キャンドルが幻想的にゆらめいています。

その数なんと1,000個以上!

水戸や大洗を中心にキャンドルイルミネーションのイベントを手掛けている

みと青年会さんがプロデュースしてくださっています。

キャンドルだけもすてきですが、当日はゴージャスに光るシャンパンタワーも

お目見えする予定です。

写真で見せていただきましたが、とってもきれいでした。一見の価値がありますよ☆

バレンタインにうまくいったカップルのみなさんも、そうじゃないみなさんも、

ロマンティックなイルミネーションで気分を上げてくださいね↑↑

 

明日夜は冷え込むことが予想されます。

会場ではホッカイロ等の防寒具の販売はございませんので、

どなた様も防寒対策を万全にしてお越しください。

  

今日は冷たい雨が降っていますが、みんながんばって準備しておりますので、

明日はどうか晴れますように。

 神様と、天国の予科練生にお祈りしています。

 

 

 

企画展「甲飛14期生」③

2月 6th, 2013

増田三郎 氏(甲飛14期・飛行場増設支援)

 

 昭和18(1943)年の暮れ、甲種予科練生の受験資格が緩和され、中学3年終了程度の学力で、入隊時に14歳6ヶ月以上とされた。そのため、私は中学2年の3学期頃試験を受け、昭和19年3月25日に合格通知を受け取った。土浦海軍航空隊に入隊した6月、14歳6ヶ月になった私は、同期生の中でほとんど最年少だった。4日間の身体検査の間、さっそく下士官たちが同期生にバッターを振るうのを見て、最年少で、体も小さかった自分に耐えられるか不安になった。訓練ではやはり2、3歳年上で、体格も一回り大きい同期の仲間についていくのは容易ではなかった。

 入隊してしばらくたった頃から、戦況の悪化はうすうす感じていた。情報は厳しく統制されていたが、軍艦が沈められているという噂はどこからともなく耳に入ってきた。果たして翌昭和20年からは敵の爆撃が激しくなった。第二警戒配備のサイレンが鳴ると、対空戦闘要員に選ばれた私は、77ミリ旋回機銃を担いで本部庁舎屋上に設けた土嚢囲いの銃座で戦闘配備についた。

 約1万メートルの高度を飛行するB29の編隊を私たちは唇を噛んで見上げるしかなかったが、恐ろしかったのは艦載機だった。本部庁舎前にあった高射砲陣地を狙い、パイロットの顔が見えるくらいの至近距離まで急降下、機銃掃射を仕掛けてくる。バリバリッ、とう耳をつんざく音とともに、空薬莢がバラバラ降ってくると思わず銃を握り締めた。口の中はカラカラに乾いた。撃たれるかもしれないという恐怖感で、身が凍るようだった。その頃から陸戦の訓練が3倍に増えた。隊内で一番広い第2練兵場で、模擬地雷を背に、匍匐(ほふく)前進で敵の戦車下に潜り込む反復演習が続いた。私たちはアメリカ軍の上陸を海岸線で阻止する肉弾特攻兵とみなされていた。「飛行機乗りになろうと思ったのに、最後はこんな死に方か」と思ったが、自分の力でどうにもなることではなかった。

 そんな訓練が続いた3月のある日、突然「来週、飛行場増設の支援のため厚木基地に行く」と告げられ、出発当日、予科練教育が中止になると知らされた。昭和20年3月、首都防衛の第一線部隊である厚木基地には、零戦や雷電、紫電などの飛行機が何十機も並んでおり、B29を迎撃するために飛び立つ戦闘機の爆音を聞くと、私の気持ちも奮い立った。

 厚木基地で数泊した後、2キロほど離れた航空廠で滑走路を造る作業に駆り出された。近くの山林に大きなテントを張って営舎にし、シャベルを手に毎日畑を地ならしして、コンクリートを流し込んだ。作業中も連日のように艦載機が来襲したが、基地の外にいる私たちには空襲警報も伝わらずまったく無防備だった。丸腰で狙われているという恐ろしさは、経験した者にしか分からないだろう。

 8月15日、普段通りの作業をしていたが、昼過ぎに集合がかかり飛行場の片隅に集められ「戦争が終結した。これから各自、十分自覚した行動をとるように」と分隊長から指示された。張りつめていた気持ちが虚脱感に変わった。2、3日後、原隊復帰の命令を受けて土浦海軍航空隊へ向かった。汽車で横浜、川崎、東京を通過するたび、空襲の残した爪痕に胸を突かれた。(「等身大の予科練」から抜粋)

開館3周年をむかえます

2月 1st, 2013

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

今日もきれいな青空です。

 

 

 

私Wの席からも、こんな風に見えます。

窓が光ってしまいましたが、上の写真と同じような青空が見えています。

 

 

お隣の公園では、小さなお子さんとおとうさん、おかあさんたちが

楽しそうに遊んでいます。

明日はもっと気温が上がって、3月下旬ぐらいの陽気になるとか。

一歩一歩、春に近づいているんですね。

 

 

数日前から気になっている小さな芽。

枯れ枯れの芝生の中にぽつんとあります。

今年一番に気付いた春のお知らせです。

残念ながら、枯れてるほうにピントがあってしまいました。

 

 

予科練平和記念館は明日で開館3周年を迎えます。

思い起こせば3年前の今日は雪が降っていました。

あのとき、そして東日本代震災後に1ヶ月近く閉館していたことを思い返してみると、

今こうやって大きな事故もなく毎日お客様をお迎えすることができるのが、

本当にありがたいことだと思います。

「戦争」という重いテーマを扱う記念館ですが、阿見町民のみなさんはじめ

多くの方に広く親しんでいただける場所になれるよう、スタッフ一同、

毎日がんばっております。

これからも変わらぬご支援を、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

明日の開館記念日は観覧料が無料です。

先着100名様には、館オリジナルの写真絵はがきを差し上げます。

なくなりしだい終了になりますので、ご希望の方はお早めにご来館くださいね。

 

 

*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*

 

 

2月は一年で一番星空がきれいなのだそうですが、皆さんは夜空を見上げていますか?

霞ヶ浦湖畔地域は、星を見るのにとっても適しているそうですね!

そこで、ちょっと寒い時期なのですが、予科練平和記念館で星空を見るイベントを行います☆

 

「冬の星空ファンタジー☆in予科練平和記念館」

2月16日(土) 17:30~20:30

館内外でさまざまなイベントをおこないます☆(※荒天中止)

 

 ☆1 天体観測ショー(約30分)

館の広場で天体望遠鏡を使って星空を観察します。

「つくば星の会」のスタッフさんがわかりやすくナビゲートしてくださいます。

☆2 冬の星空天文学(約30分)

予科練平和記念館のラウンジで、プロジェクターを使って星空を解説します。

「つくば星の会」所属で、茨城県おもしろ理科先生の

久保庭 敦男先生がとってもやさしくわかりやすく教えてくださいます。

 

こんな写真とか

(美浦村の霞ヶ浦湖岸で撮影)

 

こんな写真とか

(2012年7月 霞ヶ浦湖畔にて 明け方)

 

久保庭先生がご自身でお撮りになった美しい写真もたくさん見せていただけると

思います。

とってもやさしい先生なので、星空初心者の方にもおすすめです。

その日から冬の星空博士になれちゃうかもしれませんよ!

 

☆1・☆2は事前予約制です。

これにホットスープ1杯サービスで、おひとりさま500円(大人・こども一律料金)です。

200名様限定ですので、ぜひお早めにお申し込みください。

お友達どうしで、親子で、ご夫婦で、カップルで。

おひとりでのご参加も大歓迎です。

寒い時期ですが、みんなと一緒に美しい星空を眺めて、

宇宙の神秘に目を向けてみませんか?

 

お申し込みはこちらです☆↓↓☆

あみ観光協会(℡:029-888-1111 内線171・175)

 

 

当日いらしても楽しめるイベントはこちら☆ミ

 

☆3 夜の博物館でクイズラリー

まっくらな予科練平和記念館をペンライトで探検しながら

クイズに答えよう!

参加者にはプレゼントを差し上げます☆

探検に必要なものを受付に用意していますので、最初にお立ち寄りください。

館内には、この日限定の演出がしてありますので、楽しみにしていてくださいね。

 

(前回「ナイトミュージアム!」の様子)

 

☆4 キャンドルイルミネーション

予科練平和記念館を、1,000個を超すキャンドルで彩ります。

きれいな星空の下、素朴であたたかなあかりを見てほっこりしませんか?

ふつうのことの大切さ、人と人とのつながり、いろんなことを思い出すかも

しれません。

日頃のいやなこともふきとんで、やさしい気持ちを取り戻せますよ☆

 

今回は、「つくば星の会」様、「100万人のキャンドルナイトプロジェクトチーム」様

「みと青年会」様、「大洗海の大学」様はじめ、たくさんの皆さんにご協力いただいております。

この場をお借りして、心から御礼申し上げます。

町商工観光課のスタッフと私Wも、ご来場くださる皆さんに喜んでいただけるよう

がんばって準備を進めておりますので、

当日お時間がございましたらぜひお運びくださいね☆

きっとすごく寒くなると思いますので、寒さ対策MAXでお越しください。

皆さんのご来場をお待ちしております。

 

お申し込み・お問合せ

あみ観光協会

℡:029-888-1111(内線・171・175)

 

チラシはこちら

https://www.yokaren-heiwa.jp/05tenrankai/04event.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

企画展「甲飛14期生」②

1月 26th, 2013

角田義久 氏(甲飛14期・震洋)の場合

 

 昭和19(1944)年4月1日、土浦海軍航空隊甲種飛行予科練習生として、憧れの七ツ釦に身を包み、大空に羽ばたく夢と希望を胸に、晴れの入隊式に臨んだ。

 既に3日前隊門をくぐり、入隊手続きを済ませ、150名の分隊に分けられ、第1班から第6班まで各班25名の班も決められた。私は第10分隊第3班に所属した。

 すぐに被服の支給となり、鍔(つば)のついた軍帽、濃紺ジャケット型の上衣には金色に輝く七ツ釦、下着には褌(ふんどし)まであり、白い事業服(通常着)2着と、黒の短靴2足、それに手箱の中に裁縫道具一式と洗面用具が入っていた。支給された被服は総べて新品、他人の物と区別するため、自分の名前を墨で書くのに随分と時間がかかり、短靴は踵(かかと)の外側に小刀で彫るのだが、革は固いし小刀は切れず苦労した。最後に家を出るとき着て来た衣類を荷作りして送り返し、後は入隊式を待つばかりだった。

 入隊式は午前10時、第一種軍装で第一練兵場に整列、高らかに響き渡るラッパの音に軍艦旗が掲揚され、司令官らしい偉い人が台の上に立ち、「第14期甲種飛行予科練習生を命ず」と宣告され、正式に予科練習生になることができた。

 入隊式の日には赤飯と尾頭付きの御馳走だった。訓練は翌日から始まり、何を言われても勝手が分からず戸惑っていると「貴様達はお客様じゃないぞ!何をモタモタしとる!」と昨日は優しく面倒見てくれた班長も、恐ろしい顔で怒鳴りだした。

 5月末に適性検査があり、操縦班と偵察班に分けられ、私は偵察班で操縦桿を握ることはなくなった。偵察班には通信の他に、物理、科学、気象、航法といった多岐にわたる学科も修得しなければならなかった。

 東京大空襲があった数日後の3月中旬、分隊150名のうち80名に「特班」命令が下された。軍人勅諭に「上官の命を承ること、実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」と示され、上官の命令には絶対服従しなければならない。誰からも事情説明など一言もなく、特班の意味も分からず、その場で質問する人もなく解散となった。この人選にはどのような基準で誰が関わったかなど一切知らされなかった。自ら志願した覚えもなく、全く本人の意思にも関係なく極秘の内に進められ、突然分隊長からの命令となった。

 

 昭和20年3月22日卒業の日を迎えた。特別軍用列車に乗り込み午後2時に土浦駅を離れ、行き先も知らされずに西へ西へと走り続けた。博多を抜け諫早駅に停車したとき、そこで何人かの軍人が乗り込み「貴様達の行くところは川棚で、震洋艇の訓練を受けるのだ」と初めて行き先と目的を聞かされた。

 震洋艇はいずれもベニヤ板の船体にトヨタトラックのエンジンを取り付け、艇の前部に250キロの高性能爆薬を装着し、侵攻する敵艦船に夜陰に乗じて高速で体当たりし爆破させるものである。兵舎は木造平屋のバラックで、訓練は到着早々に開始された。大村湾に突き出した木の桟橋に、俗に青ガエルとか④艇とか呼ばれる緑色の小船が何十隻も係留してあった。訓練は燃料補給から始まり、始動からクラッチの離し方や舵の取り方など、実際に動かしながら説明を受け、交代で操作してみると案外簡単にできた。しかし海を走るとなると思うようにならず、相当に技術や経験を積み、勘と度胸も必要だった。操縦や襲撃訓練以外に、十三粍機関銃とロサ弾(ロケット式焼霰弾)の実弾発射もあったが、このようにしてわずか2ヶ月間で技術を修得し、訓練を修了した。

 昭和20年5月25日、第55震洋隊は第12突撃隊附を命じられ、6月14日に横須賀経由で鵜原(千葉県勝浦)に着任した。7月には物資搬入と共に基地整備が進み、震洋艇を格納する横穴式の地下壕もほぼ完成した。こうして出撃命令に即応できる態勢が整えられ、密かに出撃の機会を待ち受けていた。(「震洋隊の回想」から抜粋)

地域づくり総務大臣表彰をいただきました!

1月 18th, 2013

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

 

先日、ここ茨城にも大雪がふりました。

交通には不便をきたし、雪かきも大変でしたが、

真っ白い雪がしんしんと降り積もっていくさまは、とてもきれいでした。

 

まだまだ雪が溶けきらず、道路なども凍っているところがあります。

足元にはどうぞ十分にお気をつけくださいね。

 

記念館にも、ところどころに雪が残っています。

 

 

 

そしてすごく寒いです。

雪うさぎを作って写真を撮ったらかわいいんじゃないかな、という

かすかなやる気はいっぺんに吹き飛ばされました。

 

 

このような寒い今日ですが、水戸市からリリーベール小学校6年生の

元気なみなさんがきてくださいました。

 

 

リセ風の制服がとてもかわいらしいです。

みなさん熱心に話を聞いてくださってありがとうございました!

 

 

さて、この度、阿見町が行っている、予科練平和記念館を核とした歴史の伝承と

観光振興の点が評価されて、

「平成24年度 地域づくり総務大臣表彰 地方自治体賞」を

受賞することになりました!!

 

この賞は、地域を良くしようと頑張る団体や個人を表彰するもので、

1983(昭和58)年に創設され、今回30回目となる歴史ある賞です。

これまでに、880の団体や個人が受賞しているそうです。

 

当館は、来月で開館して丸3年になります。

まだまだ至らないところがたくさんありますが、

こうして評価していただけることはとても嬉しく、励みになります。

これからも、予科練の歴史を永く後世に伝えていくために頑張ってまいりますので、

今後とも当館を見守っていただければ幸いです。

 

詳しくは総務省HPをご覧ください。

 

総務省HP 報道資料

http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01gyosei09_02000012.html

 

 

 

最後にもう一つ。

予科練1期生の伊藤進さんが天国に旅立たれました。

99歳でした。

あまりに突然のことで心が定まりませんが、もしかしたら

きっと、地上を離れて大空を自由に飛んでいらっしゃるか、

真っ白い船で大海原へ漕ぎ出していらっしゃるのではないか、と

思ったりもしています。

本当にすばらしい方でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

企画展「甲飛14期生」①

1月 12th, 2013

 新年を迎えてから、はや10日が経ちました。七草粥を皆さん食べたでしょうか。鏡開きしたお餅を美味しくいただけたでしょうか。

 何と言っても健康が一番だと思います。皆様の今年一年のご多幸をお祈りいたします。

 

 さて、予科練平和記念館では昨秋より引き続き、3月31までの会期で企画展「甲飛14期生~特攻が始まった年の入隊者たち~」を開催しています。これから数回にわたり、展覧会の内容をご紹介していきます。

 甲飛14期生は昭和19年(1944年)4月以降10次に渡って入隊された方々で、予科練史上最高の4万1千人超を数えました。10月にフィリピンが陥落する際、初めて零戦による特別攻撃が始められた年であり、同年11月からは人間魚雷「回天」による特攻も始まりました。

 前年の18年には戦略上の要衝であったアッツ島、ガダルカナル島からの撤退があり、日本の敗戦が事実上秒読みに入る時代にあたります。戦死者も多数に上りました。

 このように、昭和19年は敗戦の影が日毎に濃くなりながら、未だに日本が徹底的に抗戦しようとしていたときと言えるでしょう。

 昭和19年の予科練入隊者は、甲飛14期の他甲飛15期約3万6千名、乙飛22期約1万2千名、同23期約1万3千名、同24期約1万2千名、特別乙飛6期~10期約2千4百人であり、総計約11万6千人にも上るわけです。

 戦局悪化といいながら、全国から優秀な人材がこれだけ集められたということにたいへん驚きます。

 しかも、昭和19年には飛行機の残存数、燃料不足の点からも、飛行機搭乗員としての訓練はできないことが分かっていた上で予科練生は募集されたわけで、後世に生きる者としては憤りを禁じ得ないやり方でした。

 甲飛14期生の進路は多岐に渡ります。一つ一つの事例をご紹介しながら、優秀な人材が集った予科練の翻弄された実態を通して、戦争がない社会作りのヒントを得ていきたいと考えています。

 

横田正大 氏(甲飛14期・整備兵)

 

 昭和19(1944)年6月、新設間もない愛知県碧海郡矢作村の岡崎海軍航空隊に入隊する前日、多数の同期と大阪から夜行列車にゆられて岡崎へ。期待と不安が交錯した複雑な気持ちは何ともいえない。

(中略)

 毎日の教課は少しずつ整備教育に重点がおかれ、エンジンの分解結合を何回もくり返しているうちに前期教育も終了間近になったある日、整備教育成果のテストが格納庫の片隅で実施された。

(中略)

 昭和19(1944)年12月、岡崎海軍航空隊をあとに不安と希望をもって都城海軍航空隊に転属となった。基地につくとわれわれの所属する部隊はフィリピンに転任したあとで、やむをえず関係の兵舎に配属となり「彗星」艦爆の整備にはげんだ。年があけて昭和20年2月初旬、また部隊移動で都城から串良基地(鹿児島)に出発した。

 4月以降、予科練出身者が飛行服の内に七ツ釦の軍服をつけ特攻隊として出撃する姿を何回も見送った。出撃機の中にはエンジンの調子が悪く帰還すると昼夜をとわず整備する整備員の努力は大変なもので、搭乗員との心のつながりを感じるのはこんなときである。

 9気筒エンジンからはじまり、18気筒複列エンジンの整備まで体験したが、予科練に入って空飛ぶ夢は実現できなかったが、整備員として戦力の1つの源となったことに誇りを思っている。

 昭和20年以降、沖縄に向け集結し、2日目には夜間攻撃にて飛び立つ特攻機も全国から串良基地を出撃する隊が多くなり、整備員は昼夜の別なく友軍機と掩体壕内で整備した。

(中略)

 昭和20年7月、整備部隊は転任で観音寺航空隊へ移動した。ここは練習航空隊で、練習機が列線に並んでいる。空襲が激しいので近くの小学校の講堂を宿舎にし町からはずれた道路にそって迷彩した建物(格納庫)に2機づつくらい待避させており、整備員はそれを巡回して整備していく。

 やがて昭和20年8月15日、天皇陛下の放送があるから集合という伝令が各格納庫にあり、作業を中止して宿舎の小学校に集まった。翌日から飛んでくる「グラマン」も低空できては、わが方に手を振っている姿を見たり、まわりの状況から戦争に負けたことがはっきりしてきた。(「月刊豫科練」から抜粋)

新年来たりなば

1月 5th, 2013

2013年、新しい年がはじまりました。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

新年最初の週末、いかがお過ごしでしょうか。

 

私Wは、元予科練生の方々から年賀状をいただいて

年のはじめから一人で嬉しくなっています。

伝説の予科練一期生、伊藤進さんの年賀状には、

数えで今年100歳になられることが記されていました。

本当に本当におめでとうございます!!

伊藤さんファンの私としては広くお知らせしたいと思い、

新年最初のブログでご紹介させていただきました。

ますますのご健勝とご活躍をお祈りいたしております。

 

 

昨日4日から、予科練平和記念館も通常通り開館しています。

今日も気温が低くてとっても寒いですが、午前中はよいお天気でした。

 

 

館の前の桜は、小さな芽をつけて空に向ってぐんぐん伸びているような感じがします。

 

 

「冬来たりなば 春遠からじ」

日本のことわざだと思っておりましたが、実はイギリスのロマン派詩人

パーシー・ビッシュ・シェリーという人の詩の一節なんですね。

(奥さんのメアリー・シェリーは、あの「フランケンシュタイン」の作者です。

どんなご夫婦だったんでしょうか・・・)

同じイギリスには「夜明け前が一番暗い」、日本には「夜まさに明けなんとして益々暗し」

ということわざがあるそうです。

 

そうであるならば、今年の日本は朝日がのぼって夜が明けるかもしれませんね。

美しい朝焼けが見られるかもしれません。

 

「希望」は与えられるのを待つものではなく、苦しくても自らの内に自ら

育てるものだと思います。

今辛いことも多いけれども、その分大きな幸せを抱えることができる力を

蓄えているんだ、と思って、へっぽこな私も

今年一年頑張っていきたいと思います。

 

 

館内からも澄んだ青空が見えます。

 

みなさんの一年が、この青空のように澄みきって、どこまでも行けそうな

わくわくした日々になりますよう、心からお祈りしております。

 

 

さて、新年早々お知らせがあります。

去年末に予科練平和記念館で調査協力、資料提供した

テレビ番組が放送されます。

NHK総合テレビで放送中の「ファミリーヒストリー」という、毎回様々な方の

家族のルーツをたどっていく番組で、みなさんもご覧になったことが

あるかもしれませんね。

1月中に放送される①俳優・歌手の髙橋克典さん、②(株)ローソン代表取締役社長の

新浪剛史さんのルーツを取材した回に、当館も協力しています。

 

①1月7日(月)22:00~22:50 NHK総合

「ファミリーヒストリー 高橋克典~特攻を覚悟した父・絶望の中で音楽と出会う~」

 

歌手・俳優の高橋克典の父は、戦時中、特攻隊で死を覚悟した。

ある偶然で死を免れるが、多くの仲間を失った。戦後にはその記憶に悩み、

16歳で酒に溺れた。絶望の中で音楽と出会い、横浜の市立高校で音楽教師となる。

なかなか生徒たちの気持ちをつかむことができない中で起きた一つの事件。それがきっかけで、

生徒たちから慕われるようになる。

さらに、満州・柳条湖事件後のリットン調査団。家族との深い関係が明らかになる。

(NHK ファミリーヒストリー HPより)

 

 

髙橋克典さんの父、勝司さんは、1944(昭和19)年に

甲種第14期予科練生としてここ土浦海軍航空隊に入隊しますが、

1945(昭和20)年に入って戦局が末期的な様相を呈し、

6月1日付けで予科練の訓練は中止されてしまいます。

 

練習生たちは水上・水中特攻部隊に配属されたり、土木作業や松根油作りに

従事したりと、さまざまにわかれていきました。

土浦海軍航空隊ではグライダー特攻の訓練を行う予定でしたが、

6月10日にB-29による大規模な空襲をうけて壊滅的な被害を被ったため、

急きょ秋田県合川町(現北秋田市)の国民学校(現合川東小学校)を兵舎として、

甲14期生の一部がグライダーの訓練を行うことになりました。

 

髙橋勝司さんも、この秋田基地でグライダーの訓練を受けたお一人です。

予科練平和記念館には、この時の練習生が班ごとに写っている記念写真があります。

これは、髙橋さんと同じく秋田基地で訓練をなさっていた方が寄贈してくださったもので、

戦後、この時の仲間で集まったときに、当時の上司が持っていたこの班ごとの写真を

焼き増ししてくれたものだそうです。

 

番組内でもこの写真が出てくると思いますので、ぜひご覧になってみてください。

授業や訓練を受けている様子の写真も、記念館が提供しています。

また、もしカットされていなかったら、よれよれに疲れた私Wもちょこっと映るかもしれません。

 

 

②1月28日(月)22:00~22:50 NHK総合

「ファミリーヒストリー 新浪剛史 編」

 

みなさんも日頃お世話になっているでしょうか。

コンビニ「ローソン」の代表取締役社長さんです。

この方のご親族にも予科練生がいました。

前述の髙橋勝司さんと同じ甲14期生ですが、空襲で戦友を亡くしてしまいます。

自分の身代わりのようにして戦友を亡くしてしまったことを、とても悔いていたそうです。

戦友の名前は、空襲で犠牲になった方の慰霊塔に刻まれていました。

 髙橋さんの回と同じように、訓練や授業風景の写真を提供しています。

 

どちらの回も、きっと見ごたえのあるものだと思いますので、

お時間があいましたら、ぜひご覧ください。

 

NHK ファミリーヒストリー

http://www.nhk.or.jp/program/famihis/

 

 

 

2012年最後の開館日

12月 28th, 2012

みなさんこんばんは。

学芸員Wです。

今日は今年最後の開館日。

展示解説員Tさんが、予科練1期生の3時間にも及ぶインタビューの

文字起こしを完了したことが今日のハイライトでした。

 

最後のお客様をお見送りして、2012年の業務も無事に終了です。

展示解説員のみなさんも笑顔で帰宅していきました。

ひとり、またひとりと年末のご挨拶を交わしてお別れするのは

なんとなくさみしくなるものです。

ひとりぼっちの事務室でブログを更新しながら、

今年一年も早かったなー・・・と考えています。

 

  

さて、今日の新聞等でご覧になった方がいらっしゃったら嬉しいのですが、

先日、アメリカから旧日本兵のものと思われる日章旗が寄贈されました。

 

 

天田町長(左)と寄贈者の竹田さん(右)です。

 

はるばるアメリカからこの日章旗を持ってきてくださった竹田さんは、

30年以上前にアメリカに渡り、ノースカロライナ州で子どもたちの教育に

長年携わっていらっしゃいます。

 

事の発端は去年の夏。

竹田さんの娘さんが、東日本大震災のチャリティー絵画展を開いたところ、

会場を訪れたアメリカ人の女性から、この日章旗を手渡されたそうです。

「この旗はおじが戦時中から大切に保管してきたものです。日本の旗だから、

日本人のあなたにお返しします。」

とおっしゃり、詳しいことは語らないまま竹田さんの娘さんに渡したそうです。

旗はしばらく娘さんのところにありましたが、今年の夏、竹田さんがニューヨークに

住む娘さんを訪ねたところ、

「パパ、ケリーさん(旗を渡してくださった女性)のためにできる限りのことをしてあげて!!」

と、この旗を頼まれたそうです。

竹田さんはその場で、旗を持って日本に帰国することを決意なさいました。

 

この時のことを、メールで私に教えてくださいました。

 

「私が思うことは、ケリーさんは悲惨きわまる大震災の様子をテレビのニュースで見ながら

心を動かされて、このような善意と哀れみに満ちた決断に至ったのだと思います。

それにしても彼女のこの好意は、日米両国を結ぶ親善の賜物です!

かつては敵同士で戦った国の人々が世代を超えて心を分かち合えることは、

真の国際親善であり、これほど尊いものはありません。

私はその親善の橋渡しの役目を授かったことに、大きな喜びを感じております。」

 

 

70年近くもアメリカで保管されていた旗を日本に返すため、

竹田さんは、日本の友人に相談したり、行政機関や博物館など

さまざまなところに国際電話をかけて調査をなさいました。

その最中に当館をお知りになったそうです。

 

11月の初旬だったと思うのですが、ちょうどファーストコールを受けたのが私Wでした。

竹田さんの熱心なお話をうかがい、旗に墨書された「岡崎航空隊」には

予科練生がたくさん入隊しているという縁もあることから、受け入れを決め、

準備を進めてまいりました。

 

竹田さんはクリスマスにあわせて帰国。

 日米両国をつなぐこの日章旗はまさに「ギフト」だから、といって、

クリスマス期間中の12月26日に寄贈してくださいました。

 

 

寄せ書きされた日章旗というのは、通常、入隊や出征時に

親しい人が寄せ書きをして贈ることが多いので、

旗には贈られる人の名前が書かれているものが一般的です。

でも、竹田さんがお持ちになった日章旗には人名らしきものが書かれておらず、

かわりに 「武運長久」や「岡崎航空隊」などのほか、「ワシントン」「ハワイ」

「グアム」「名古屋」「レイテー(レイテ?)」「オールマーク(オルモック?レイテ島にある

湾の名前です)」などの地名が墨書されている、という大変珍しいものです。

 

 

 

戦時中から旗を保管していたという方と直接連絡することができないため、

どのようにして所持するにいたったかの詳細がまだわかりませんが、

竹田さんの娘さんに旗を渡してくださったケリーさんが、持ち主だったおじさんに

聞き取り調査をして知らせてくださることになっています。

 

この旗がどのようなドラマを持っているのか、これから明らかになる

事実を心待ちにしているところです。

 

また、旗を所持していたアメリカの方は、元の持ち主を探しているそうです。

どんな小さなことでもかまいませんので、何かお心当たりがある方は

予科練平和記念館(029-891-3344)までお知らせください。

よろしくお願い申し上げます。

 

 

2012年も残すところあと3日。

みなさんにとってどのような1年だったでしょうか。

 

前述の竹田さんは、娘さんのチャリティ絵画展で得られた寄付金を持って

宮城県石巻市の大川小学校を訪ねたそうです。

北上川沿いに建っている大川小学校は、東日本大震災時に

川をさかのぼってきた津波によって大きな被害を受け、

全校児童の7割が死亡・行方不明になったところです。

 

被災地の復旧、復興にはまだまだ課題が山積しているなか、

被災地以外のところでは、早くも大震災の記憶が過去のものになりつつあると聞きます。

竹田さんは、被災地のこと、そして原発事故のことをとても心配なさっていました。

 

時計の針が戻ることはありませんが、まもなくやってくる2013年が、

今なお辛い状況におかれている方々にすこしでも優しい日々でありますよう

願ってやみません。

 

 

年末のお忙しいなか、私の拙い文章にお付き合いくださいまして

本当にありがとうございました。

みなさんのおかげで、こうして記念館での日常、というか、私Wのつぶやき的

散文を綴らせていただいていることに、心から感謝しております。

来年はもう少しおもしろい記事が書けるといいな、と思っておりますので、

これからもお目通しいただければ幸いです。

 

 

予科練平和記念館は明日12月29日(土)~1月3日(木)まで

年末年始休館になります。

1月4日(金)からは、通常通り開館いたします。

来年も、みなさんのお越しを心よりお待ち申し上げます。

 

それでは、どうぞよいお年をおむかえください!

 

 

 

元予科練生インタビューから

12月 21st, 2012

  今年の冬は寒いですね。最近では、冬至は日が短くてもなんとなく暖かかったものですが、11月から「おっ、寒いな」と思う日が非常に多い本年です。先日の天気予報で学習したところでは、偏西風の流れが例年より南に下がっている(蛇行している)ため北極圏の寒気が日本にも入りやすくなっているそうです。

 おそらく地球は人類という我がまま勝手な暴君に手を焼いているのだと思います。変にストレスが溜まり、調子悪くなっているのではないでしょうか。

 子孫のためには、現在の状態が薬を飲めば治る「胃炎」程度であることを願いたいものです。われら生き物の母なる地球を「不治の病」に追い込まない知恵が私たちに求められていると思います。

 

 地球を破壊しないことにもつながりますが、戦争のない、つまり殺し合いをしなくてすむ社会の実現を目指して、予科練平和記念館では元予科練生など昔を知る方々にインタビューを行い、その知恵が詰まった経験談を記念館で放映し、ご紹介しています。

 生きた知恵というものはたった一度きりの人生と真剣に向き合った方からしか得られないものだと思います。その意味でも、今後さらに1人でも多くの方からお話しを伺いたいと考えていますが、今回のブログでは、先日インタビューに応じてくださった方をご紹介いたします。

 

 ご紹介するのは大東秀夫さんです。

 大東さんは昭和3(1927)年に横浜でお生まれになり、現在は笠間市にお住まいです。85歳でいらっしゃいますがたいへんお元気で、さすが予科練で鍛えた方は違う、と私が心底脱帽するお一人です。

 昭和18年12月、15歳の時に乙飛24期生として三重海軍航空隊に入隊され、水上機パイロットへの進路が決まっていたそうです。横浜生まれの大東さんの心残りは、憧れていた土浦海軍航空隊への入隊が果たせなかったこと、とのこと。しかし、当時の若者らしく、予科練に入りお国のために役立ちたい一心で、予科練に入隊できた喜びそのままに訓練の日々はとても充実していたと笑顔でお話しになりました。

 大東さんの周辺では戦争の状況についての情報がほとんど得られなかったそうです。ですから隊内では「特攻」についても何も分からないに等しい状況だったようです。

 ただ、昭和19(1944)年10月には、現在真珠の養殖地で知られる三重県鳥羽市賢島へ移動し「震洋」の特攻基地建設に従事されました。その時も造っているものが何のためのものかは当然知らされず、だから何も分からなかったそうです。

 大東さんは運動神経が特に優れていたそうですが、その点からも白羽の矢が立てられたのでしょう、昭和20(1945)年3月には「伏龍」特攻隊員に選抜されました。

 伏龍については情報が少なく、今回のインタビューでは貴重なお話しを伺うことができました。記念館でも準備が調い次第、大東さんの映像を皆様に見ていただく予定です。

 ここでは、インタビューの概要をご紹介します。

 特攻隊選抜を言い渡されたときには、具体的な任務を知らされることなく、横須賀海軍水雷学校への転属を命じられたそうです。同期の中では大東さんだけが選抜されたこともあり「やるぞ」という強い使命感が湧いてきたそうです。毎日土を掘ることではない、戦うことができると気合いが漲ってきたとのことでした。

 横須賀ではじめて「伏龍」特攻であることが知らされ、内容を知って驚かれたそうです。

◇10名単位で組になった。

◇水に入る訓練→夜間に水に入る訓練→簡易潜水服を着用し、頭に浮き袋を付け(隊員の位置を知らせるためのもの)海へ潜る訓練。

◇とにかく重いため、海へ入るまでの砂浜を歩くのが大変だった→浮力が働くため海に入ってからの方が移動は楽だった。

◇海中では自由に歩き回ることなど出来なかった。頭と足の位置で水圧が違うため立っていられず、海底を手で這いながら移動した。

◇目的の地点に着くとクルッと仰向けになり水面を見ながら機雷棒を構えた。

◇深度10メートル程から見上げる太陽は満月のように見えた。

◇機雷棒は海流のために自由に扱えたとは言えなかった。

◇酸素弁を調節し、水深に応じて酸素を出すが、海から上がるときが大変で、潜水服中の酸素を抜きながら上がるため調節に失敗すると潜水服が破裂し溺死する危険があった。(装置の付いた潜水服は自分一人では着脱できないものだった)

◇訓練は潜水服の数が少ないこともあり、1人ずつ行われた。悲壮感をもって訓練をしたというより、少年であったために新しい遊具に挑戦するような気持ちでもあったとのこと。

◇大東さんの班では事故は1つもなかった。他班で事故があっても知らされることはなかった。

◇訓練中、伏龍については大東さんも実効性に疑問をもったとのこと。しかし、上官の命令は「天皇」の命令と教育されていたため、それ以上のことは深く考えなかった。

◇終戦になると特攻隊はすぐ解散となり、大東さんは実家が横浜だったためすぐに帰郷できたとのこと。

 戦後、大東さんは家族で唯一の男手として文字通り身を粉にして働き続けてきたそうです。その大東さんも「絶対に戦争をしてはならない」と強いメッセージをお寄せ下さいました。

 戦争の残酷さ、悲惨さ、無意味なことを是非とも発信し続けてもらいたい、元予科練生の大東さんから予科練平和記念館がいただいたメッセージです。

 戦争を実体験したことがない人間の集まりでもある予科練平和記念館です。しかし、臆することなく、先人の声を自身の声として、来年も引き続き普及活動に努めたいと考えています。