干支は12か60か

1月 14th, 2015

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

新年あけましておめでとうございます。

西暦2015年、平成27年の最初のブログ更新となります。本年も、みなさまよろしくお願いいたします。

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さて、今回はお正月らしく干支の話です。

これを読まれている皆様の中には、年賀状に十二支の未(羊)のイラストを書いた方もおられるのではないでしょうか。

子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)。

この12種類が1年毎に巡ってくるわけで、本年の干支は「未」の番です。

 

しかしながら、実は今年の干支は「未」ではありません。

正確にいえば「『未』でも間違いというわけではないが、完全な正解でもない」といったところでしょうか。

では、今年は何ドシかといえば 「乙未(きのとひつじ)」 です。

 

急に「乙(きのと)」と言われても、なんのことだろうと思われるかもしれません。

現在では知らない方も多くなりましたが、先ほど書いた十二支だけでは、「干支」の後ろ半分の「支」の要素しかありません。

前半分の「干」にも十干と呼ばれる要素があります。

甲(こう、きのえ)、乙(おつ、きのと)、丙(へい、ひのえ)、丁(てい、ひのと)、戊(ぼ、つちのえ)、己(き、つちのと)、庚(こう、かのえ)、辛(しん、かのと)、壬(じん、みずのえ)、癸(き、みずのと)。

この十干と十二支を合わせたのが、本来の干支なのです。

1年ごとに、干支を組み合わせて1年目は「甲子(こうし、きのえね)」2年目は「乙丑(おつちゅう、きのとうし)」と続いて行き、10と12の公倍数である60年、60種類の組み合わせで、最初の甲子まで巡ってきます。

江戸時代の証文や手紙の日付を調べてみると、日付は「慶応四年 戊辰 ○月○日」といったふうに元号と干支が併記されているのが一般的で、普通に使われていました。

 ちなみに60歳を還暦と言いますが、語源はこの十干十二支に由来しており、自分の生まれた干支に61年目で「還って」戻ってくるから、そう呼ばれています。

 

元々、「干支」というは中国で誕生した分類方法で、暦だけでなく時間、方位、五行思想など色々な分野で使用されてきました。

十二支に動物の読みと名前をあてたのは後付のようです。

今では十干を身近に使用する機会は少なくなってしまいましたが、ひとむかし前までは色々な分類に普通につかわれていました。

現在でも各種免許の甲種、乙種。契約を結ぶ際の契約書には名前の前に、甲と乙とついているものもあると思います。

 もちろん予科練生が勉強していた時代には普通に使われています。

予科練の履修コース分類は甲種、乙種、丙種。

一般の学校では成績の評価は良い順に、甲、乙、丙の順で評価され、徴兵検査の結果も甲種、乙種、丙種、丁種、戊種の5種に分類されていました。

型式の分類にも使われており、日本海軍で最初に開発された特殊潜航艇は甲標的(こうひょうてき)と言う名前で、形式が甲型、乙型、丙型、丁型に分類されています。

 

当時は、普通のこと、当たり前のことでも、現在では知られなくなってしまった事柄はほかにも多くあると思います。

新年早々のちょっとした雑学ではありますが、みなさまの探求欲を少しでも刺激できたならば幸いです。

「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」④

12月 28th, 2014

 今年も残すところあと3日となりました。

 阿見は、関東らしく暖かな年末を迎えています。

 本年も予科練平和記念館をお引き立て下さり、誠にありがとうございました。来年も、引き続きご愛顧賜りますよう、どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 予科練平和記念館は年末年始のお休みをいただきます。12/29(月)~1/3(土)が休館日です。

 新年は1/4(日)から開館いたします。お正月の休暇をご利用いただき、是非、予科練平和記念館へお越し下さい。

 

 12/20(土)には、元予科練生・久津美(くつみ)明氏(甲飛14期)を講師にお迎えし、講演会を開催しました。貴重なお話しを伺うことが出来ましたが、こちらのブログでも、引き続き橋原正雄氏の貴重なお話しをご紹介いたします。

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 愛宕での次の戦闘がミッドウェー海戦なんですがね。このミッドウェーというのがハワイのちょっと下、西にあるんですね。この海戦のときにはたいへんな艦隊だったんです。航空母艦が4隻、2等巡洋艦も2隻くらいいて、あと駆逐艦が7、8隻、これは大艦隊です。

 それで、母艦を護衛して行ったんですけれど、結論から申しますと、このミッドウェー作戦というのがたいへんな失敗でした。4隻の大型航空母艦がボカ沈食らっちゃった。加賀、赤城、飛龍、蒼龍、この4隻の大型航空母艦が沈められちゃったんです。

 色々手落ちもあったんですね。第1の手落ちはですね、とにかくあの付近はハワイに近いし、アメリカの艦隊が来ているという想定をしていたので、艦隊攻撃用の魚雷、空中魚雷と言っていますが、全部飛行機に装填してミッドウェーに入って行ったんです。それで、いざ飛び出そうと思っていたら、なんとその飛び出す前に、偵察に出ていた95式水上観測機から「今この付近には敵の空母は一つも見当たらない」と、飛び出して行ってから1時間近く経ってから報告が入ったんです。

 たまたま私はその時艦橋のすぐ右脇の高射装置という指揮所にいたんですよ。そしたら艦橋の話が手を取るようによく聞こえて、特に艦長の声が、体の大きな人でしたから大きな声でね、まだ偵察機からなにも連絡はないかとか、何回も聞こえました。

 多分、航空参謀の具申だったと思うんですが、この辺に艦隊はいないから、陸上砲撃に切り替えたらどうだと。しばらくしてから急遽、飛行機に、攻撃用の爆撃機に装填してある弾薬を全部陸上用に取り替えろという号令が出たんでね。私はすぐ右側の高射装置に、指揮所にいたんですけれども、相手の軍艦がいないんじゃ相手の飛行機も飛んでこねぇなと、そんな安心した気持ちでもいたんですよ。

 今装填した弾薬をみんな降ろして、また陸上攻撃用に取り替えしていた真っ最中に敵機がやってきた。どこから来たのか分からない。あの時は、グラマンのね、F4F、F6F戦闘機が先に来て、それからP38、これは胴が2つある戦闘機、双胴の戦闘機ですね、それからあと一つはP51、この3種類の戦闘機が入れ替わり立ち替わりやって来ましたね。それでまたたまげちゃった。あんな戦闘機が来るんじゃ近くに艦隊がいるという判断をしまして、それで艦隊攻撃用にまた、せっかく降ろしたやつを、艦隊攻撃用にまたセットし直したんです。そんなことをしているうちに今度はまた向こうさんの中型爆撃機、こいつがそれこそ雲霞の如くって言うんですか、空が黒くなっちゃうくらい、もう編隊を組んでね、大編隊で来たわけ。たぶん向こうではね、潜水艦がこちらの動向をキャッチしていたんですね。

 いやぁそれこそね、驚くほど来たんですよ。それで、距離が遠いときは愛宕の主砲が火を噴くわけですけど、45㎝でしたかね、それから高角砲が20㎝、2連装の片舷が2基ずつ、8基ですね。8門が一斉に、愛宕だけじゃなく高雄、鳥海、摩耶という、4つの一等巡洋艦が一斉に火を噴きました。とにかく航空母艦ばかりに敵は突っ込んで行くわけですよ。私らもちょうど水平線の辺りから敵の来るのを待っていたんだけれど、1機も私らの方には向かって来なかった。母艦だけ沈めて、みんな引き上げちゃったんですね。戦闘機にしてもですね、弾の中をくぐって突っ込んできましたよ。急降下でやってきます。バリバリって機銃掃射してヒューとひっくり返って退避していきました。そんなことが何回も繰り返されました。それこそ10分か20分の間でしたね。

 それから味方に近付いて行きましたら、航空母艦4隻が煙を吐いているんですよ。加賀、赤城、蒼龍、飛龍、それから巡洋艦の三隈っていう巡洋艦も1隻、沈められちゃったんですよ。それこそ大負けです。大敗でした。

大破した三隈 

 このすぐ後がソロモン海戦です。ガダルカナル撤退作戦、これは夜中にやったんですけれど、これは成功したんですよね。第3次のソロモン海戦に今度は栗田中将が第二艦隊の司令官となって第3次ソロモン海戦に行ったんですよ。

荷揚げに失敗した輸送船(ガダルカナル)

 その次に参加したのがインド洋作戦です。このインド洋作戦は第二艦隊だけが、これは18年の3月ですけれど、このとき私が零艦で観測命令を受けて、愛宕から飛び出して行ったんです。この時の零式観測機、装備と言いますとね、機銃が、20㎜機銃が2門、前と後ろに。これは搭乗員2人ですので、前と後ろに1門ずつ。で、旋回機銃というのがありましてね、グルグル回るやつですね、あれが1門あって、計3門の機銃を積んでおります。まあ、あまりあれですね、この機銃を使うことは私は一度もありませんでした。敵の戦闘機にでも見つかったらおしまいですよ。なぜかって言うと、下駄を履いてますからね。フロートが付いてるでしょ、スピードは遅いし、それで重量もあるし、これも相手のアメリカの戦闘機見つかったらまず助からないですね、残念ながら。

 この時インド洋で遭遇したのがイギリスの艦隊で、母艦が2隻、巡洋艦が2隻、駆逐艦が数隻、大艦隊ではないけどね、母艦も中型母艦でした。あの時は東方向に30度、距離いくつの地点、ということを愛宕に打電したんです。そしたら2番艦の高雄だけが艦隊からピョーっと外れて、その東30度方向に向かってきたんですよ。これは愛宕じゃねぇな、高雄みたいだな、と思っていると高雄が主砲攻撃を始めました。そしたら何とね、1番艦を狙ったやつが2番艦に当たったんですね。いずれにしても当たったんだからよかったんだけれども。上で見てましたらね、艦隊の1番艦を狙うよという話が入ってきたんです。そしたら2番艦に命中しましてね。

 そこへちょうどスコールが来ちゃったんですよ。今でも覚えています。真っ黒い雲でね、スコールがパーって寄ってきて、イギリスの艦隊を塞いじゃったんですね、スコールが。だからもう全然見えなくなっちゃった。多分飛行機がね、先ほども話しましたように、重い飛行機ですからね、下駄履きですから、スコールの中へ入ってしまうとなかなか抜け出すことが出来ないんです。だから、すぐそこから帰っちゃったんですよ。

 で、帰ってきたらですね、今度は飛行長に怒鳴られまして「お前は何しに行ったんだ。偵察じゃなくて観測に行ったんじゃないか」と。確かに偵察の結果は報告したんです。イギリスの艦隊が母艦が2隻、巡洋艦が2隻、あと駆逐艦が数隻いますよと、いうことは報告したんです。ところがそのときは観測機だけを飛ばしたわけです。帰ってきたら飛行長に怒鳴られましてね、いや、そう言えばそうだなぁ、俺は観測員だなぁなんて思ったわけなんです。

ラバウルブイン基地

 まあ、そんなわけで、インド洋作戦というのはスコールが入ってきたんで、残った艦隊はそのスコールの中に潜っちゃって、ずーっと南の方へ遁走した。逃げて行っちゃったんですね。このインド洋作戦というのが、初めてカタパルトから飛び出して行って、それでアメリカの艦隊じゃなく、イギリスの艦隊にぶつかったわけです。

今日この頃

12月 19th, 2014

みなさまいかがお過ごしでしょうか。

最近は、朝夕だけでなく、日中も冷え込むようになってきました。

体調管理が難しい季節になってきましたね。みなさんは、風邪などひいておられませんか?

  

 

当館の中は、空調と窓が多い設計が相まって、日中は太陽が館内を温めてくれます。

しかし、当館周辺は霞ヶ浦のすぐ近くということもあり、

遮られることのない風が自由自在に駆け抜けています。

当館隣にある、霞ヶ浦平和記念公園にはたくさんの子どもたちが遊びに来ますが、

みんな吹きすさぶ風に負けず元気いっぱいに駆け回っています。

子供は風の子と言いますが、冷風に身を縮こまらせている私としては、

大人になった今だからこそその能力がほしい!なんて思ったりもしている今日この頃です。

 

 

 

さて、話は変わりまして、現在予科練平和記念館では、企画展「桜花~人間爆弾~」を開催しております。

桜花ポスター

 

旧日本海軍が開発した特攻兵器である「桜花」をテーマとして、「桜花」そのものの構造についてや、

「桜花」を使用した特攻作戦に関する記録などのパネル展示。

桜花に使用された計器類や飛行服などの実物展示。

作戦に参加した方の証言映像を放映する映像展示などを行っています。

変わったものとしては、戦後にアメリカから発売されていた「桜花」の木製模型なども展示しております。

 

 

太平洋戦争で実施された特攻作戦というと、飛行機を用いた「神風特別攻撃隊」などを

思い浮かべる方が多いと思いますが、じつはそのほかにも、特攻作戦は考案され、実施されていました。

その中の一つである「桜花」について、そしてその作戦に参加して戦った人たちについて、

少しでも知っていただきたくて、展示を行っています。

 

 

この企画展は来年の3月1日(日曜日)まで開催しています。

通常観覧料金で、常設展示と一緒にご覧いただけますので、

当館周辺にお越しいただいた際には、是非一度お立ち寄りください。

 

 

 

その他、今後のイベントについてのご連絡です。

 

12月20日(土曜日)の午後2時から、元予科練生の方をお招きしての講演会を開催いたします。

今回講師をしていただくのは、元甲種14期飛行予科練習生の久津美 明さんです。

久津見さんは、昭和19年の6月に予科練生として当時阿見町にあった土浦海軍航空隊に入隊、

隊内での訓練を経て、昭和20年には三沢海軍航空隊へと転隊し、終戦時には大湊の特別陸戦隊に編成されていました。

予科練時代の思い出や、当時の生活の様子などをお話しいただきます。

 

 

12月25日(木曜日)は無料開館日です。

当日はどなたでも無料で館内をご覧いただけます。最初にご紹介した企画展もご覧いただけますので、

お時間のある方は、是非ご来館ください。

閉館時間後の午後5時から6時までは、土浦三高の吹奏楽部による音楽鑑賞会も開催しますよ。

もちろん参加は無料です。事前予約等も必要ありませんので、お気軽にご来館ください。

 

 

 

今年も、もうあと残すところ3週間を切りました。

私などは、年末の忙しさにかまけて、体調の管理をおろそかにしがちな日々です。

寒さはまだまだ続きます。皆様どうぞお体ご自愛ください。

霜と霞

12月 17th, 2014

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

12月に入り朝霜が本格的に降りはじめ、予科練平和記念館の周りも冬の到来を感じています。

茨城では今年の初霜は、例年より一週間ほど遅い11月の中旬に降りたそうです。11月の旧名は霜月ですが、名前のとおり初霜は11月初旬に降りているようです。

冬の到来を霜が降りることで感じる方もいらっしゃると思いますが、先月の当ブログのエントリで「秋が到来」と書いた時点では霜も降りておらず、まだまだ晩秋という風情でした。

一ヶ月たった今の情景と寒さをみるとウソのようです。

12月は手紙を書く際の冒頭にある時候の挨拶に、「霜気の候」、「霜寒の候」、「霜夜の候」などと表されます。

初めて霜が降りるのは11月ですが、やはり霜の冷たさ、冬の冷たさは12月に入って実感されるのかと思います。

 

 

さて話はがらりと変わりまして、今回は予科練の部隊と関わりの深い「霞ヶ浦海軍航空隊」についての話題です。

当館では予科練の練習部隊「土浦海軍航空隊」について主に展示していますが、その土浦海軍航空隊の敷地は霞ヶ浦海軍航空隊の水上班(飛行練習機による水上練習用の班)を、昭和15(1940)年に分離独立・拡大したものです。

霞ヶ浦海軍航空隊は大正11(1922)年に稲敷郡阿見村(現:阿見町)に誕生した航空機練習教育部隊です。

日本海軍としては「横須賀海軍航空隊」(神奈川県)、「佐世保海軍航空隊」(長崎県)に続いて日本で3番目にできた航空隊で、教育部隊としては日本で初めての航空隊です。

昭和5(1930)年に誕生した予科練制度を卒業すると、海軍飛行予科練習生はその名前から「予科」がとれ飛行術練習生となり、この練習部隊で飛行機操縦の訓練をしました。

現阿見地区のほぼ全域にわたる陸上飛行場と、霞ヶ浦の湖岸に建てられた水上訓練用の水上飛行場を中心に作られ、その敷地面積はおよそ85万坪(約2.8㎢)。東洋一の飛行場と呼ばれるほど広大なものでした。

また、茨城県南の海軍航空隊の中心となった航空隊でもあり、零戦などの実機訓練を行っていた筑波海軍航空隊(現:笠間市)や谷田部海軍航空隊(現:つくば市)は、この霞ヶ浦海軍航空隊の分遣隊から誕生しています。

現在では、その広い飛行場を思わせるものは、ほぼ残っておりませんが、この地に予科練の部隊があったことに強く関係のある事柄ですので、ご紹介いたしました。

霞ヶ浦海軍航空隊については、当予科練平和記念館から車で10分ほどの距離に「陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地」内の広報センターにも資料が展示されております。

事前に以下の自衛隊広報へお申込みいただければ無料で見学できますので、当館お立ち寄りの際には、そちらまで足をのばしてみてはいかがでしょうか。

 

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地 広報センター

開館日 :月~金曜日(土・日 及び祝・休日は除く)

開館時間:午前9:00~12:00  午後13:00~16:30

TEL:029-842-1211(内線2217、2218)

URL:http://www.mod.go.jp/gsdf/eae/eadep

 外観

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近日の予科練平和記念館イベントについてご紹介いたします。

12月20日(土)午後2時から「元予科練生講演会『よみがえる私の予科練時代』」が開催されます。元甲種14期生 久津美 明(くつみ あきら)さんから当時の体験談や思いを語っていただきます。

また、久津美さんは書に精通されており、現在は「碧洋」の書号で書展の開催など書家として活動されております。

講演会当日には予科練時代の思いや、そこから得たものを書に表したいと、お客様の目の前で一筆書かれるとのことで、そちらもご覧いただければ幸いです。

講演会の観覧には通常常設展の観覧料がかかりますのでお気を付けください。

「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」③

11月 30th, 2014

 寒くなってきました。しかし、11月最後の日の今日は暖かく感じられます。ちょうど旧暦10月の今頃は「小春」と呼ばれるそうで、今日の暖かさはまさに「小春日和」と言えるのでしょう。

 本日で企画展「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」は最終日を迎えましたが、展覧会でも取り上げた元予科練生の証言テキストは、皆様にまだご紹介を終えていません。貴重なお話しですので、展覧会の会期とは別に、引き続きご紹介させていただきます。

【橋原正雄氏:丙飛12期】

 昭和17年(1942)になって、巡洋艦の愛宕に乗り組みました。愛宕は1万トン巡洋艦、重巡洋艦(重巡)で第2艦隊の旗艦です。第2艦隊の司令長官は栗田健男(たけお)中将でした。愛宕艦長が中岡少将です。中岡少将は鳥取県の出身なんですよ。今もね、この方の娘さんと年賀状をやりとりをしています。艦長はもう亡くなったんですけどね。

重巡洋艦「愛宕」

 まあ、愛宕へ乗ったときのいろいろな細かな話もあります。初めて大きな軍艦に乗せられましてね、艦内旅行というのをやるんですよ。船の中を何がどこにあるか覚える、覚えさせられるためにね、艦内旅行。船の先端、これ「錨鎖庫(びょうさこ)」と言って、錨をしまってあるところですが、そこからずーっと甲板を船の後部まで駆け足するんです。毎日駆け足でどこに何があるかを確かめることを、海軍では「旅行」と言ってました。旅行してこい、とね。

 愛宕に初めて乗って、そのよく食事を今でも聞かれるんですけれど、まず、思い出すのはカレーライスですね。港へ行きますとね、海軍カレーなんていうのが売ってるんですよ。今もありますね。横須賀の港へ行きますと海軍カレーなんて看板が出ていてね。つい食べ損ないますけれど。今のカレーが当時と同じかどうかは分かりませんけれど、とにかくおいしかったですよ。あと食べ物っていうと缶詰が多かったですね。艦隊の移動と言いますと、まあ長いときで10日、あるいは2週間、短いときではほんの2、3日なんていう航海はあるんですけれどね。

 インド洋作戦に行ったときなんて、1ヶ月分の食料を積んだわけですよ。そういうときは缶詰ばかり。それとね、驚いたことに、野菜はですね乾燥野菜。菜っ葉類でもゴボウでも人参でもなんでもみんな乾燥してある。だから主計兵(食事を作る係)は大変だったようですね、これを戻すのに。それで味の付け方も違うみたいですね。また、食べる兵隊もうまいのまずいの、なんだこれ、こんなの食えるか、なんてね、怒鳴っている上官もいますからね。たいへんだったと思いますよ。毎回缶詰だとか、それからパン類はよく出たですね。あれは、コッペパンみたいなやつ。それから堅いパン、まあ戦闘食って言うんだけどね。

 で、感心したことにはね、結構コーヒーが出るんですよ。あの頃、コーヒーなんてどこから手に入れたんでしょうかね。ま、南方手広く占領しましたから、南方からどんどん取り寄せたんでしょうね。南方の基地っていうと、だいたい内地を出ますと、マーシャル諸島のトラック島というところに一度寄ります。ここは艦隊が常に入るところで、そのトラック島というところには4つの大きな島があって、夏島秋島冬島春島と、4つの大きな島があるんですが、たぶんここへ入ったときに積み込んだんじゃないかと思うんですよ。作業員整列、なんて号令がかかりましてね、缶詰担ぎに行くんですよ。野菜なんかもね、たぶんトラック島あたりで補給したんだと思います。

トラック

 それから水です。一番大事な水。まあ、水くらい大事なものはなくて、雨が降りますとねオスタップといって大きなドラム缶みたいなのやつを外に出して雨水を集めて、それで顔を洗ったり洗濯したり、風呂の水に使ったり、そんなことをやるわけですよ。そのオスタップというやつは、とても一人じゃ持てなかったですね。

 雨が降るっていうのは船の上にいると分かるんですね。黒い雲がザーッと押し寄せてくるもんですから。すると艦橋から、艦橋というのは艦長以下偉い人がいるところですが、そこから左何十度方向、例えば「右三十度方向にスコール」っていう号令が来るんですね。だんだんスコールが近付いてくるぞーっ、という号令がくるんですね。すると各分隊大きなオスタップを持ってですね、そのスコールが来るのを待ってるんですよ。戦闘中はそんなこと出来ませんけどね。で、スコールが来るっちゅうとその水を一杯貯めて、お風呂に使ったりもする。巡洋艦以上の大きな軍艦はみなお風呂がありますので、交代でお風呂に入ります。お風呂も偉い人が先に入って、あと順々に入っていくわけですけれど、そんなことも何回もありましたね。

 愛宕に初めて乗りましてね、新兵教育と言いますか、艦内教育と言いますか、朝から晩まで訓練ですよね。特に私はカタパルトから飛び出しまして、観測の訓練をやりました。カタパルトと言いますのは、鉄道線路みたいに2本の線路が延びているんですけれど、軍艦の両翼にカタパルトの台があるんですよ。この線路の上に枠があってですね、ちょうど1m四方くらいの枠があってその上に飛行機が乗っかっているんです。ここから飛び出すときには、エンジンは全回転です。

カタパルト

 飛び出す前はですね、軍艦そのものは風に向かって方向を転換してくれます。飛行機が風に向かって飛びだし風に向かって降りるというのは原則ですから。艦隊から離れて風の方向に向かってくれます。同時に、このカタパルトがグーッと外側に移動してくれまして斜めになりますので、その上から飛行機が飛び出します。

 全回転をしてエンジンの調子がいいと「よろしゅう」ってパイロットは合図をするんです。すると当直将校というのが艦橋のすぐ後ろにおりまして、これが引き金をぐっと引くわけです。すると、カタパルトの上に乗っかっている枠がすごい勢いで動き出してね、と同時に飛行機も動きますから、飛行機は全回転していますから上に飛び上がっていくと。ただ、飛行機がうまく風に乗らないとですね、倒立転回やることがあるんですよ。2回ほどありましたね。これが戦闘中だったらそのまま捨てて行っちゃいますけどね、訓練中でしたので、すぐにカッターを下ろして、あるいは内火艇、小さなボートですね、あれを下ろして救助に行くんですが、2回、3回くらい見ましたかね。

 見ていると分かるんですよ、いや危ねぇぞあれは、なんてね。すると、やっぱり飛び出したはいいけど、ヒューッと海面の方に降りて行っちゃってね、そのまま上がってこないんですよ。これは失敗だっちゅうわけで。いやぁ、失敗して帰ってきたときには飛行長に怒鳴られるわけ。「お前は大切な飛行機を一台壊した」というわけでえらいお説教食うんですけれど。ま、そうやってね、初めてこの、軍艦に乗ったときは訓練を受けました。

 愛宕というのは私にとっては初めての軍艦でしたし、すばらしい軍艦だったと思っています。艦長、第二艦隊の司令官、こういう方に教えられまして、実際に機銃の射撃訓練もやりましたね。この射撃訓練は、吹き流し、あれは10m、30m、50mでしたかね、それに向かって射撃するんですよ。母艦と一緒にいますとね、零戦なんかがそれに向かって射撃訓練をやる。ま、そんなことも愛宕では色々と勉強させられまして、実戦部隊というのは大変だなぁということをつくづく感じました。

行楽の秋、行軍の秋

11月 11th, 2014

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

秋が到来いたしました。行楽シーズンなこともあり、当館でも連日たくさんのお客様にお越しいただいております。先日は日に500名以上の入館者があり、うれしい悲鳴をあげている次第です。

 

さて今回の話題は上に引き続きまして、予科練生の行楽についてお話ししようと思います。

『予科練歳時記』という本に掲載されている予科練生の日記によれば、11月に鹿島・香取行軍が行われています。

 「行軍(こうぐん)」について説明いたしますと、「軍の部隊が戦闘や、演習をする目的地に向かって、きちんと整列して行進移動すること」です。

こう書くとものものしいですが、鹿島・香取行軍でいうところの目的地とは、鹿島神宮と香取神宮です。

つまり海軍の遠足です。

予科練では教育の一環で、一年に数回名所旧跡をまわっておりまして、正装し、足並みを揃えて整然とした隊列で向かいます。

土浦海軍航空隊では鹿島、香取以外には水戸の偕楽園や、筑波山、東京の宮城、明治神宮、ほかにも鎌倉などを巡りました。

さすがに軍隊らしく自由気ままな旅行とは行きませんが、予科練生にとっては数少ない外出遠出の機会です。

きっと小学生同様にうきうきとした気分で指折り数えて待っていたのだと思います。シャバ(海軍では部隊の外をこう呼びます)は久しぶりだと胸を躍らせたことでしょう。

予科練生の回想録には、病み上がりのため行軍には参加できないところを、なんとか上官にかけあって参加させてもらうというようなエピソードがありました。

鹿島・香取行軍では土浦の民間観光船を貸し切って、ぎゅうぎゅうに乗り込んで霞ヶ浦を行きます。

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表情までは見えませんが、私はなんとなく楽しそうに見えました。 

みなさまも、秋の紅葉をながめながら史跡ツアーなどはいかがでしょうか。

  

 

 

近日の予科練平和記念館イベントについてご紹介いたします。

11月23日(日)午後2時から「元予科練生講演会」が行われます。

元甲種14期生 内田次男さんのお話を伺います。通常常設展の観覧料がかかりますのでお気を付けください。

11月29日(土)には「ラジコン航空ショー」が、予科練平和記念館のお隣の公園を会場にして開催されます。

開催時間は9:00~12:00、13:00~15:00。ボランティアの方々のご協力で、予科練の空を一抱えはあるラジコンたちが飛び回ります。

雨天、強風の場合は中止となるので、当日の快晴を祈るばかりです。

無料開催ですので、お子様をつれて気軽におこしください。

「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」②

10月 19th, 2014

 私が、まあ将来どういう道へ進むか分からんけれども、通信へ行って信号術、暗号術を勉強してこいと上からの命令で入ったのが海軍通信学校の58期なんです。

 モールス信号、トンツートンツーですね、あれを覚えさせられたんですよ。モールス信号というのはご存じの通り、アメリカのモールス博士ですかね、この方がこの基礎を作ったというふうに聞いています。今もモールス符号というのは、通信関係あるいは航海商船関係で使ってますね。

美保-通信術送受信訓練

 特に、軍隊ではこのモールス信号というのが大変貴重な連絡、情報手段になっていましてね。モールス信号というのは、英字がAからX、Y、Zまで26文字ですか。数字が0から9まで10文字ですね。それから記号がありますね、濁点とか半濁点とか、あるいは括弧であるとか、括弧も上向き括弧、下向き括弧、かぎの括弧とかね。あと和文としてはいろは何から、おしまいの「ん」まで、えー48文字、これ全部で95文字あるんですよ。これみんなモールス化されているわけです。

 このモールス符号を一週間で覚えろっちゅうんですよ。これには参ったですね。えー。みんなそれこそ寝ずに勉強しましたよ。隣の奴ももう就寝時間になっているのに寝ねーでね、トンツートンツー、トツー、いろはのは、にツートトト、とかね。一生懸命やってる、あーこれは負けちゃいらんねーと思ってね。それが全くまー、不思議に、若かったしね、16歳ですから、覚えもよかったんでしょう、一週間十日くらいでみんな覚えましたよ。全部で95文字あったんですから。今でもびっくりしますよ。今やれなんつったってとても出来ません。

砲術学校

 これが終わってからね、砲術学校へ行ったんですよ、砲術学校の92期。砲術関係というのはどこの船へ行っても、どこの軍艦へ乗っても、あるいは陸上勤務になってもですね、銃器というのは使いますので。あの頃はね、歩兵銃、93式、93式歩兵銃かな。それから一式銃っていうのがあった、イタリア製ですね。それから機関銃、これは20ミリ機関銃から17.7から、それから高角砲、飛行機を撃つあれですね、軍艦に乗ると必ず、駆逐艦以上は高角砲を積んでますから、それから機関銃も積んでますので、まー当時一等巡洋艦で改装した私が乗った愛宕なんていうやつは100挺くらい積んでましたよ、機関銃をね。

 それで、高角砲なんていうのは飛行機を専門に撃つんですけど、2連装が1、2、3、4、4基8門ですね、8門ありまして、まあこれらの操作、それから射撃訓練、こういったものを砲術学校で一ヶ月ほどやったんで。

奈良-陸戦術射撃訓練

 それから回されたところがですね、山口県の宇部空です。航空隊へ行く前にですね、たぶん海兵団で希望を書かされたような気もするんですよ、飛行機に乗りたいという意思のね。それで砲術学校を終わるとすぐ、山口県の宇部航空隊へ行けと。宇部ってどこにあんですか、山口県だって言うんだよ、それすら分かんなかったですよ。

 ここへ行ったときにですね、93式の水上中間練習機とうのが与えられまして、それで実際に初めて飛行機にさわった。これが2ヶ月ほど、ここでは操縦、偵察、観測それから整備、この4つを重点的にやらされまして、やっている間に教官がいろいろ見てんですね、あーこいつは操縦に適しているとか、こいつは偵察だとか、観測だ、整備関係だと。この宇部空にいるときに振り分けられちゃったんですよ。

 93式練習機ですね、結構操縦もやったんですが、どうもそのテストには落っこったみたいで。それで観測を重点的にやれと。簡単ではないんですね観測と言っても。飛び出していって、まずどこへ行くかと、後でもお話ししますけど、命令を受けて軍艦であればカタパルトから飛び出していきますんでね、それが遠いか近いか、あるいは1日以上かかるか、そういったときの燃料はどこで補給するか、あるいは食料もですね、食料がだいたいまあ2、3日分の食料は積んでいくんです。燃料は、ガソリン満タンです。満タンにして飛び出していくわけですけど。その観測を重点的にやれと命じられました。

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 観測兵というのはね、観測ばかりじゃないんですね。基地との、あるいは旗艦との通信ですね。これでモールスが生かされる。我、今、どこどこ、北緯何度、経度何度の洋上を今どの方向に進んでいるとかね、そういう連絡はみんな暗号です。その暗号というのは暗号書というのがあってね、表紙が真っ赤になってて、この表紙の背中に鉛が入ってるんですよ。どんな大きな暗号書でも小さいやつでも。何のためにそうなってるかというと、もしその船が沈没したとき、敵の潜水夫が潜っていってこの暗号書を引き上げられると、暗号文が全部解読されちゃうわけです。ですから海底深くに暗号書が沈むように鉛が仕込まれていたんですね。暗号書には2種類あって、偶数日に使うものと奇数日に使うものとに分かれてまして、厚いやつには厚いのがあるし、薄いのはもっとペラッとしたのもあるしですね、ま、2種類の暗号書を使ってました。

 飛んでいる時に、これは暗号でやらなくちゃならんというのは機長の命令ですね。機長から我こうこうだという文書が来ますので、観測員は後ろにつかまって、パイロットは、機長は前にいますから手渡しで来るんです。それを受け取ってその文書によって暗号書を引いて、暗号を引いて、それから基地に送るわけです。あんまり時間がかかったんじゃね、それこそ10分も20分もかかったんじゃ、これはもう仕事にならないわけです。ほんの何秒です。何秒の戦いですよね。で暗号文を作って、基地に送信するわけです。

 送信するのは電鍵(でんけん)と言いましてね。プラスとマイナスによって接点が出て、トンとツーが出るんです。トンはポッと、ツーはツッと、これは3分の1ですから、トンの3分の1がツーだと。ツートントンツー、だから有名なトラトラなんてありますね、トントンツートントン、トントンツートントン、トントントン、これはトラですね。こういうふうになってます。これは通信学校出た連中がみんな相手にいますので、この連中がそれを受信してすぐに司令、あるいは責任者のところへ届けるわけです。こういう観測関係、私も観測を重点的にやりましたんで、これがまあ2ヶ月ほどかかりましたね。

「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」①

10月 5th, 2014

 紅葉の見頃を伝えるニュースを聞く頃となりました。空気も冷えて涼しく、空が「抜けるように」青く、そして高く感じられます。

 

 現在、予科練平和記念館では企画展「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」を開催中です。

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 レイテ沖海戦は昭和19年(1944)10月に行われた戦いです。同年2月には、南方の要衝だったトラック島が大空襲を受け、事実上機能しなくなり、サイパン・テニアン・グアム島も夏には連合軍に占領され、いよいよフィリピンへ連合軍が迫ったのでした。

 

 レイテ沖海戦を体験された元予科生がご健在です。これから数回に分けて、レイテ沖海戦の体験談を含め、伺った体験談をご紹介していきます。

 

橋原正雄氏(大正13年生まれ-90歳。丙種12期生)

橋原正雄氏

 

 私は、橋原正雄といいます。静岡県沼津市の生まれです。旧制の沼津中学校を卒業しまして、まあ学生時代はですね、教職員を希望しておりまして、在学中にその資格も取ったんですが、当時の内外情勢ですね、非常に険しいものになってきまして、仲間はみんな陸軍、海軍へ志願していくわけですよ。「そんなに早くいくことは無いだろう」なんてね、「二十歳になればもう、否応なしに検査を受けて行くんだから」って言われたんですがね。もう私の性分として、陸軍でも海軍でも行きたいという希望があって、親戚の叔父さんも、相談をしましたら「ひとつ、自分の思うとおりにやってみろ」と。せっかく教職免許も取ったんだけれども。同級生なんかに押されまして、あるいは引っ張られたのかな、海軍へ志願をしました。

 一人だけ、私のその出身地から海軍に入った兵隊さんがいました。その方が休暇で来た時に、村のみんなを集めて海軍の話をしてくれたわけです。「ああ、すごいなあ、立派な、いい格好だなあ」なんてねえ。それ聞いて憧れましてね。それでまあ、昭和16年(1941)の5月1日。横須賀海兵団楠ケ浦練習部というところへ入隊をしました。

 適性検査を受けて、まあ合格ということになって、新兵教育が始まったわけです。一般の海軍では一か月ぐらい新兵教育をやると、それぞれの現地へ派遣されるという風に聞いてましたけれど、なぜか私は楠ケ浦練習部で二ヶ月、まあ座学ですねえ、座って教官からの話を受けていました。座学は一般的なものだったんですけれども、数学が主でしたね。アルファ、ベータ、シグマでしたかね、ある一点を与えられて、あとのこのAとBの距離とか、それからAとDの距離であるとかそれらを算出するんですけれども。まあ座学で一番しぼられたのはこの数学でした。

辻堂演習

 それから陸戦、鉄砲持ってですね、ええ、剣も持ってそこらを駆けずり回るわけですよ。徒手訓練とか。これで一番つらかったのは辻堂演習。神奈川県に辻堂っていうとこがありますわな、あそこの海岸の砂浜でね陸戦やるんですよ。これがきつかったです。砂浜ですからね、駆け足しようと思ってもなかなか足が前へ出ないわけです。足がめり込んじゃってね。うん。まあそれが一番、まあ記憶には残ってますね。

 他にもいろんな競技あるんですよ。ハンモック競技、まあ吊り床の競争をやるんです。ピュッて、班長が鳴らしますとね、もうハンモック抱えてビュームっていうんですが、これひっかけて、それで寝るばっかりにして、吊り床をつるんですよ。これ各班の対抗の競技でした。負けるとね、昼飯食わしてくんねえんですよ。ハハハハッ。いやあ、負けたことはなかったんですけれどね。

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 あとカッター競技ですね。これがまたこう、手にマメがいっぱいできちゃってね。あれもきつかったですねえ。おしりは真っ赤にこすれちゃって。このカッター競技も負けるっちゅうといろいろ罰直食らったわけですけれど。

 まあそんなことを二ヶ月もやって終わってですね、上からの命令で海軍の通信学校へ行くことになりました。

博物館実習生日記②

8月 24th, 2014

残暑お見舞い申し上げます。まだまだ暑いですね。

集中豪雨による災害が全国各地で起きているようです。

ニュースではこれまでの「異常気象」はもはや異常とは言えない、現在における「当たり前」に変わった、という厳しい見解を伝えていましたが、地球環境を狂わせているのが人間の営みであろうことを考えると、地球という私たちの母なる星に対して、実は「一方的侵略」を行ってきたこの半世紀だったのかと深く反省しなければなりません。

人間同士の平和は無論、あらゆる存在に対して「和する」ことが、人間そのものを生き延びさせる絶対的な条件であることを考えさせられます。

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さて、先回に引き続き、博物館実習に来てくれた大学生の意見を皆さんにご紹介します。今回は3年生の女子に登場してもらいましょう。

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最初に私が学芸員という職業を知ったのは、中学生の時の適職診断でした。適職診断の結果の中で教師や大学教授の他に出てきたのが学芸員で、私は学芸員という職業をそれまで聞いたことが無く何も知りませんでした。これが学芸員に興味を持つきっかけとなり、どんな職業なのか調べて仕事内容をなんとなく理解した私は、美術品・芸術に囲まれて仕事ができる事に魅力を感じていました。それに加え、中学時代に私は美術部に所属しており顧問の先生がよく博物館や美術館に見学に連れて行って下さったこともあり、見学に行った館の学芸員の方々が作品の解説をスラスラと話し案内をされている姿に強く憧れました。

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今、自分が学芸員を目指す一番のきっかけとなったのは中学時代一番お世話になった顧問の先生が教師を辞め、学芸員になる事になった際に嬉しそうに学芸員になる事を話していたのが心に残りその時に、資格を取ろうと決心し学芸員の資格が取れる大学に行こうと考えていました。

 学校では専門的な知識や展示の方法等を学んできましたが、いざ現場での実習を受けてみると大学の先生が皆さんとても忙しく仕事をされていて所蔵資料の管理や整理に手が回らないという現状に驚きました。また、自分の専門外のことでも新しく学びながら仕事をする事も大変だと感じましたが、とてもやりがいのある仕事ではないかと感じました。展示の構成を考える事やポスターを作成する際にも多くの方に来ていただく為に様々な技術が必要であると自分でやってみて改めて感じ、作成がとても難しかったです。特にポスターは、一枚の紙で展示の伝えたいこと、見たときに目を引くレイアウトを作らなくてはいけないということで全然上手くできませんでした。現場調査、資料の管理、展覧会の企画作成など5日間で様々な事を体験見学させて頂きましたが、自分の中での学芸員という職業を具体的に理解することが出来た5日間だったと思います。学芸員への憧れがもっと強くなりました。

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予科練平和記念館は、数少ない予科練の事と戦争の事を未来に残し伝える事の出来る博物館です。美術品や芸術品を見る所は数多くありますが、予科練の事を伝え戦争を実際には知らない若い人達に正しい歴史を伝え、理解して貰うことが出来る場であるので今後も、戦争があった事を風化させない為、メッセージを発信し多くの方に伝えていく事が役割であると考えます。また、今後戦争を体験した方々が居なくなってしまう時が来ますがその方々が話して下さったこと、伝えて下さったことを予科練記念館が次の世代へと伝えて行かなくてはいけないのだと思います。

 

 

 

博物館実習生日記①

8月 17th, 2014

暦の上では既に秋を迎えています。

朝夕の空気が例年より涼しいと感じるのは間違いでしょうか。

外観(斜め)

8/15(金)の終戦記念日、予科練平和記念館は無料観覧日でしたが、今年も多くのお客様をお迎えすることができました。

当日は、茨城放送(ラジオ)で、予科練平和記念館や開催中の展覧会についてご紹介させていただく機会をもつことができましたが、お忙しい日常ではあると思いますが、落ち着いた時間が取れるときには、ぜひ予科練平和記念館にお越しいただき、命の尊さや平和の大切さについて改めて考える機会を作っていただきたいと思います。

ちなみに、次回の無料観覧日は12/25(木)のクリスマスです。

皆様、お誘い合わせのうえ、どうぞご来館下さい。

展示室4飛翔

さて、そうした意味では、予科練平和記念館の次代を担うべき若者が、博物館実習生として勉強をしに来てくれました。

今年は男女1名ずつ、阿見町内の大学生でした。

戦争を知らない私たち若い者がしっかりと先人の意思を継いでいくためにも、大学生のような若い人たちに記念館に来てもらい、しっかり勉強してもらうことは非常に大切な活動になります。

まず、4年生の男子(ちなみにもう1人は3年生の女子でした)K君の感想からご紹介します。

しっかりと予科練平和記念館を観察し、彼なりの考えを深めてくれたようで、たいへん心強く思いました。

 

①学芸員に興味をもった理由

 私にとっては、予科練平和記念館の展示を見たことが興味をもった大きな理由である。初めて私が記念館に来館したのは、まだ開館間もない時であり、私が高校生のときであった。以前から日本近現代史、特に太平洋戦争期の日本海軍に大きな関心をもっていたことや、祖父が少年期に航空隊近くの航空廠で勤労奉仕を行っていた頃の話を幼い頃から聞いて育ったことから、私にとって戦争中の出来事はどこか現実感があり、他人事に思えなかった。

 このように、日常的に戦争の情報が蓄積されていったことから、いつしか私はこの知識を生かした職業に就きたいと考えるようになっていった。そんな中、出会ったのが、この予科練平和記念館である。私は何か運命的なものを感じたことを覚えている。

展示室6窮迫

②現場を通して感じたこと

 一番に感じたことは、現場の学芸員に求められていることがとても多い、ということであった。これまで学校でも学芸員というものは「雑芸員」である、社会教育の普及だけが学芸員の業務ではない、と教わってきた。だが、この5日間の実習を通して学芸員が置かれている現状を確認したことで、それが本当であったことを改めて理解した。また、専門的な知識の他、この実習で学んだ技術は、学芸員以外の様々な分野の仕事で自分にとってもプラスとなる、極めて汎用性の高いものであることも肌身を通して理解することができた。

展示室7特攻

③記念館の今後の役割について

 今後、記念館は「海軍の町 阿見」という一種のブランドをさらに生かし、日本近現代史の中で日本海軍、引いては軍隊が担った発展の功績=プラス面と、軍隊がもたらしたマイナス面を取り上げて、比較検討し、双方の立場を見ていかなければならないと考える。戦争の悲惨さを伝え、過ちを二度と繰り返さないためにも、歴史を後世に連綿とつないでいかなければならないことは自明の理である。だが、昨今では、その方法が感情に訴えることだけに終始してしまっているように思えてならない。確かに、それは大切なテーマのひとつでもあるが、歴史を学ぶことの本質はそこではないはずである。史実を史実として受け止め、公正中立な立場で歴史を俯瞰して、そこから現代に生かせる要素を抽出することこそ、戦争の爪痕を現代にまで残す阿見町の記念館に求められていることではないだろうか。