終戦記念日

8月 15th, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

今日は67回目の終戦記念日です。

いろいろな方がそれぞれの思いで過していらっしゃるとおもいます。

穏やかな一日になりますように、お祈りしています。

 

予科練平和記念館は本日無料でご覧いただけます。

展示をご覧になって、普段は意識することが少ない“戦争”というものに、

改めて思いを馳せてみませんか。

 

 

 

近くのハス田には、ハスの花がきれいに咲いています。

 

 

グリーンとピンクと白の色合いがなんともやさしく涼しげで、すてきです。

 

 

さて、予科練平和記念館に学芸員実習の大学生がきてくれています。

学芸員の資格を取るために必要な実習で、実際に学芸員の仕事を手伝って

実地的なノウハウを学ぶものです。

 

ほこりをかぶった状態で寄贈された軸をクリーニングしています。

とても一生懸命話を聞いてくださって、お仕事も丁寧なので、

大変助かっています。

ブログを更新するのもお仕事の一つということで、今日は彼女に参加していただきました。

 

 

はじめまして。学芸員実習のために、一週間予科練平和記念館にお世話になっています。

右も左も分からないありさまですが、学芸員の方々や職員の方々には、非常に多くのことを教えていただきました。毎日が初めて知ること、体験することの連続で、大変勉強になっています。

実習期間もあと少しとなりましたが、最後まで真剣に取り組み、一つでも多くのことを学んで帰りたいと思います。

 

 

実習は残念ながら今日までとなってしまい、寂しい限りです。

浅学の私Wがお伝えできることはわずかですが、少しでも

学芸員という仕事の責任や奥深さを感じていただけたら嬉しいなと思っております。

 

実は彼女に教えてもらったことで、とても印象に残ったことがあります。

彼女の大学は東京九段の靖国神社の近くにあるそうですが、毎年この時期になると、

神社で年配の方がじっとうつむいて座っているのをよく見かけるそうです。

 

その方はどのような思いでそこにいらっしゃるのか。

私のようなものには、その方の深い思いを推し量る術はありません。

けれども、そういう方がいらっしゃることを、心のどこかにきちんと留めておかねばならないと、

この話を聞いたときに思いました。

 

 

最近、昭和な装丁に惹かれて買った松下幸之助著『道をひらく』という本に

こんな言葉を見つけました。

 

ながい一生のうちに 人はいくたびか

自分の将来を左右する岐路に

血のにじむ思いで 立たねばならない

ながい歴史のうちに 国もまた いくたびか

みずからの行くすえを鋭く見きわめるべき

意義深い時期に みまわれるー

 

あなたはいま 何をもとめて日々努力し

日本はいま 何をめざして進んでいるのだろうか

ともに育ち ともに暮らしているこの国を愛し

日本人自身のすぐれた素質を大切に思うならば

政治家も経営者も 勤労者も家庭の主婦も

おたがい 他にのみ依存する安易な心をすてて

みずからが果たすべき責任にきびしく取り組もう

この国日本の 百年の計をあやまらないために

 

 

松下幸之助さんは、みなさんがよくご存知のパナソニックグループ

(旧松下電器産業)の創始者です。

私が生まれる前に書かれた本ですが、まるで今の日本の状況を

見ているかのような言葉だと思い、驚きました。

 

先の大戦から67年。

東日本大地震から2回目のお盆です。

 

この時期になるといろいろ考えることがあるのは、天国から懐かしい方々が帰っていらして、

何かささやいてくださっているからかもしれませんね。

みなさんは、今日をどのようにお過ごしになりますか?

 

特別展「回天」へのいざない④

8月 9th, 2012

 今回は、「回天」が誕生したあらすじをお話したいと思います。

 日本海軍は、太平洋戦争においても艦隊決戦、つまり軍艦がある距離を置いて船団を形成し、敵艦を攻撃・沈没させようとする形の戦いが起きると予想していたようです。

 そのため、射程約40キロメートルを誇る大砲9門を備えた大和、武蔵などの巨大戦艦も建造しました。

 同時に、日本海軍は酸素魚雷(九三式魚雷)を開発していました。これは水中を高速で進み航続距離が長く、しかも燃料として酸素を用いるために排気ガスが水蒸気となり海水に吸収されて無航跡となる優れた魚雷でした。

 しかし、太平洋戦争では航空機が主力兵器となったため、日本海軍が想定していた艦隊決戦は起きませんでした。つまり、大和、武蔵がいくら大砲を放ってもその遙か遠くから航空機が飛来し、軍艦を攻撃する時代に変わっていたのでした。そのため大和、武蔵が華やかに活躍できなかったのと同様、酸素魚雷も武器庫に多くが眠ったままだったのです。

 一方、真珠湾攻撃が行われた約半年後、ミッドウェー海戦で日本海軍は敗れ戦局が悪化し始めます。その後、山本五十六大将が戦死した昭和18年には、アッツ島、ガダルカナル島などの拠点から日本軍は撤退を余儀なくされ、翌昭和19年2月には南太平洋の重要基地であったトラック島が攻撃されて、基地に集められていた航空機がほぼ壊滅するという事態に陥りました。

 戦うための航空機が数少なくなった日本海軍は、航空機以外の武器に目を向けるほかなかったと言えるでしょう。

 昭和18年当時、呉海軍工廠魚雷実験部(P基地)で特殊潜行艇(甲標的)の訓練・改良、及び新兵器の開発に努めていた黒木博司大尉、仁科関夫中尉(階級は戦没時のもの)は、こうした状況下で酸素魚雷に人間が乗り込む「人間魚雷」の開発に考えが進んでいったと思われます。

 

 回天には脱出装置が付けられていません。これは隊員が生還する可能性をもたない作戦や兵器は認めない伝統をもつ日本海軍にとって容認できない武器でした。しかし、トラック島攻撃以降の情勢を受け、開発上の難点でもあった脱出装置を付けないままに回天は開発されることとなったのです。

 「回天」とは、天を回(めぐ)らす、つまり運勢を変える・形成を逆転させる、などの意味をもちます。約1.5トンもの炸薬を積み込む回天が体当たりに成功すれば、航空機を満載した空母も真っ二つになるほどの威力を見せたに違いありません。追い込まれた日本海軍も期待を寄せたことでしょう。

 しかし、私は黒木大尉、仁科中尉が回天の成功で日本がアメリカに勝利できると考えていたようには思えません。

 例えば、回天には「菊水紋」が描かれます。この菊水紋は、南北朝時代の武将・楠木正成が用いていた紋です。楠木正成は後醍醐天皇に味方し、武家政権を目指して反目した足利尊氏と最後に湊川(現在の神戸市)で戦うこととなります。九州から攻め上る足利尊氏の大軍に対して勝ち目のない戦いを楠木正成は挑み、敗れて自害します。自害の際、「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」と語ったと伝えられます。これは「七生報国」と表される精神ですが、この精神は菊水紋とともに回天特攻隊員に引き継がれました。

 この他、イタリアが日本・ドイツを裏切る形で早期に連合国に降伏することを黒木大尉が予想していたなど、残された記録を読んでも、回天は敵になんとか一矢報いたい、日本人の誇りを守るために戦う武器だったように私には思えるのです。

町内中学生の職業体験学習

8月 3rd, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

オリンピック観戦で寝不足の方も多いのではないでしょうか。

暑さが厳しい日が続いていますので、体調には十分

ご注意くださいね。

 

さて、7月31日から8月3日までの4日間、町内の竹来中学校の2年生9人が

予科練平和記念館に職場体験学習に来て、館内のさまざまなお仕事を

一緒に頑張ってくれました。

 

まず午前中は、展示解説員さんと一緒にお仕事です。

展示解説員さんは、展示室内でのご案内や展示の説明、展示物の監視など

館内各所でさまざまに気を配っています。

また、窓口では、チケットを販売したりお客様からのお問い合わせに答えたりします。

 

 

 

立ち姿がさまになっている渡辺君。

ここの職員です、といっても違和感がないぐらいなじんでいます。

映像室のイスの出し入れも手伝ってくれました。

 

 

 

展示室前で待機する山﨑君。

器械体操をしているそうで、不審者が来てもうまく対応してくれそうな

頼もしさがあります。

 

 

 

お客様を送り出す木道君。

野球部だそうで、お客様の邪魔にならないようにと考えながらの

身のこなし方がすばらしかったです

 

 

窓口では、お客様にリーフレットを渡したり、お手洗いをご案内したりする

仕事をお願いしました。

リーフレット一つわたすのでも、お客様のほうに正面を向けたり、両手でお客様にとって

受け取りやすい高さでお渡ししたりと、気をつけるポイントがたくさんあります。

 

 

お客様にリーフレットをお渡しする橘さん。

今回唯一の女の子で、笑顔がとってもキュートでした。

お客様も笑顔になっていらっしゃいました。

 

 

 

解説員さんの説明を聞く方波見君。

仕事を覚えるのが早く、周囲への気配り、お客様のご案内も完璧でした。

仕事ができる人になる予感がします。

 

 

 

笑顔の沖君。

めがねが壊れるというアクシデントがありつつも、

穏やかな笑顔でお客様をお迎えしてくれました。

 

 

午後からは、私Wの仕事をお手伝いしていただきました。

まずは受け入れた資料の整理。

受け入れ時に番号をつけ、台帳に登録し、ほこりやカビなどを

クリーニングして、写真をとって、ほこりやカビを殺菌して、種類ごとに

分類して収蔵庫におさめる、というのが、当館で資料を受け入れるときの

一連の流れですが、今回は資料のクリーニングと

整理のお手伝いをお願いしました。

 

 

 

図書の整理を手伝ってくれる松麿君。

作業が細かくて大変?と聞くと、「やりがいあります」と言ってくれました。

奥にいるのは渡辺君です。

 

 

 

中性紙の袋に入れた資料を番号順にならべる吉田君。

考えて気をつけながら資料をとても丁寧に扱ってくれました。

奥の山﨑君と一緒に作業をしています。

 

資料の整理は時間がかかって結構大変なのですが、

中学生のみなさんにお手伝いいただいたおかげでだいぶはかどりました。

 

 

 

 

資料整理のあとは、クリーニングのお仕事です。

寄贈された予科練生が使っていた教科書を、1ページ1ページ丁寧に

ハケを使ってほこりを落としていきます。

30分も過ぎると、みんな手つきがプロっぽくなってきます。

こちらも地味なわりに結構時間がかかる作業なので、

中学生のみなさんにお手伝いいただけてとっても助かりました。

 

 

最後には体験の修了証をお渡ししました。

 

手前の竹沢君は、きちんと目を見て話を聞いてくれるところが

とても偉いと思いました。

体験の最後にも、ちゃんと「お世話になりました」と大きな声で言ってくれました。

 

 

ハードな1日で大変だったのではないかと思いますが、

みんな一生懸命頑張ってくれました。ありがとうございました。

中学生たちが仕事にあたる際に感じた緊張感は、私たちも忘れてはならないものだと思い、

改めてこちらも勉強になりました。

今回の体験が、みなさんの何かのお役にたてれば幸いです。

 

予科練平和記念館は、阿見町内在住の小中学生は無料でお入りいただけますので、

またいつでも遊びにきてくださいね。

心からお待ちしています。

 

特別展「回天」へのいざない③

8月 1st, 2012

 ロンドン五輪が始まりました。開会式はたいへん華やかでした。

 アトラクション中「平和の象徴」鳩に扮した人たちが自転車に乗り競技場に入ってきましたが、オリンピックは平和の祭典であることを忘れてはなりません。人間は優劣を争いたがるものです。しかし、命のやりとりをするのではない、ルールに則り「競争」するスポーツというものは、これからの人類にとってもきわめて重要でしょう。高度な技術をもつ人たちにとって、スポーツもまた綺麗事ではすまない世界なのだと思いますが、真からの感動を味わえる瞬間に多く立ち会いたいものですね。

 ちなみに日本とロンドンには約8時間の時差があるようです。日本の朝はロンドンの夜、つまり日本の夜はロンドンの昼間ということです。なんと、昼間ふつうに働いている私たちもテレビ観戦が出来るではありませんか。たいへんありがたいオリンピックです。

 

 ロンドン五輪が開幕する前に、こちら予科練平和記念館では特別展「回天」が7/21(土)から開幕しています。

 先回のブログでは、回天記念館の入口までご紹介しました。今回はその続きを。

 回天記念館の入口を入るとすぐ右に受付があり、ここから観覧が始まります。それほど大きな空間が広がっているわけではありませんが、ぐるっと一周する間に、回天の誕生から訓練・出撃と、回天による特攻作戦の全てがわかる展示になっています。

 茨城を含め関東地方からは遠い山口県ですが、美しい瀬戸内の海を見るだけでも価値があります。そして回天の故郷・大津島へも是非渡航して、必死を覚悟した回天隊員の心の拠り所となった島の風景も目に焼き付けてほしいと私は願っています。

 今回、予科練平和記念館で「回天」展を開催するにあたっては、山口県周南市教育委員会、および回天記念館の方々のご厚意を得て、通常なら回天記念館に展示されている資料もお借りすることが出来ました。お世話になった皆様に、ここに改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 さて、大津島からそのまま場を移して、というわけにはいきませんが、これから当予科練平和記念館の「回天」展をご紹介していきます。

 今回の展覧会の目玉の1つは、実物大回天模型およびコックピットを展示しているところです。

 これは、平成18年(2006)にTBS系列で放映された2時間ドラマ「僕たちの戦争」収録に使われた模型です。その大きさを実感していただくとともに、コックピットを覗いていただいたら、直径約1メートルという非常に狭い空間に身を置き覚悟を決めた搭乗員の心を想像してほしいところです。

 今を生きる私などがそのまま当時の薄暗い回天の中に収まったなら、訓練・攻撃どころではなく、気が狂ってしまったのではないかと思うことさえあります。

職場体験

7月 25th, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

今日はおとなり美浦村から、美浦中学校の2年生が

職場体験に来てくれています。

今日は学芸員の体験ということで、展示の際の注意点を知ってもらったり、

ほこりをかぶった状態で寄贈された掛け軸の

クリーニングを手伝っていただきました。

最終日なので、二人に一言ずつコメントを書いてもらおうと思います。 

 

 

吉田晋悟くん

いつもは自分が全然知らない人達と交流する機会が無いので、色々なお客さんと

ふれあう事ができてよかったです。

 

鈴木雄大くん

この予科練記念館の仕事を体験して戦争の恐ろしさを知りました。

この恐ろしさを知るには、資料を大事に保管して展示して

戦争を知らない人達に伝える事が大切だと思いました。

 

 

二人ともどうもありがとう!

試合の後で疲れていたと思いますが、一生懸命にお仕事を頑張ってくれました。

明日は午前6時から部活だそうです。

忙しいですが、体に気をつけて頑張ってくださいね。

またいつでも遊びにきてください☆

 

 

 

女性たちは戦争をどうみたのか

7月 21st, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

急に暑くなったと思ったら、昨日今日と気温がぐっとさがりましたね。

こういうときは自律神経のバランスが崩れやすいのだそうです。

みなさんも週末ゆっくりなさって、心身のバランスを整えてくださいね。

 

さて、私事ですが、先週、今週と2週にわたって

学芸員を対象とした研修を受講してまいりました。

東京・上野にある「東京文化財研究所」で、資料の保存や博物館環境のあり方について、

さまざまな分野のトップで活躍していらっしゃる先生方の講義を

受けさせていただきました。

とてもわかりやすく、今すぐ自分の館で使える知識をたくさん

教えていただくことができて、本当に勉強になりました。

また、北海道から沖縄まで、全国から学芸員が集まりましたので、

ケンミン的な話を含め、資料の展示や保存に関するいろいろなお話を(苦労話も含めて)

うかがうことができました。

学芸員の仕事は、横のつながりがとても大事です。

何かあった時に相談できる仲間がたくさんいることはとても強みになります。

先生方も、現代の資料はとても難しいものが多いので、何かあったら

相談に乗ってくださるとのことで、本当にありがたく思いました。

 

講義してくださった先生方はじめ、お忙しい中受講生の面倒を

一手にひきうけてくださった研究所のYさんに、心より御礼申し上げます。

本当にお世話になりました。

ブログも読んでくださってありがとうございます!

 

東京文化財研究所は、日本の文化財を伝えるための

大切なお仕事をしているところです。

みなさんもぜひ、HPをご覧になってみてくださいね。

 

東京文化財研究所

http://www.tobunken.go.jp/index_j.html

 

 

さて、先週末の14(土)・15(日)に、「女性が語る戦争」と

題しまして、戦時を生きた女性のおはなし会を開催しました。

 

14日(土) 「昭和ガールズトーク」

 

 

お話ししてくださった熟田鶴江さんは、土浦海軍航空隊の近くで

おばさんが経営していた銭湯「亀の湯」に、こどもの頃から遊びにきていました。

そこには日曜日になると予科練生が遊びにきて、鶴江さんやお姉さんたちと

遊んでいたそうです。

 

鶴江さんの初恋は13才のとき。遊びにきていた予科練生でした。

ある日、おばさんが、予科練生のまあくんに、

“鶴江をお嫁にもらっておくれ”

と突然言ったそうです。

 

そうしたら、彼は、「飛行機乗りにはお嫁にゆくな 今日の花嫁明日の後家」というけれど、

それでもよければお嫁においでと、言ってくれたそうです。

 

実はこのお話、少し悲しい結末で終わります。

鶴江さんは自分の心に芽生えた気持ちに気付きますが、

まあ君は予科練を卒業して、さらに訓練を受け、戦地で亡くなってしまうのです。

遺品が送られてきたそうですが、鶴江さんの実家は東京大空襲で焼けてしまい、

まあ君のものも一緒に灰になってしまいました。

 

私は鶴江さんにお話をうかがうのが大好きです。

特にまあくんのことを教えてくださる鶴江さんは、まるで少女のようで、

人生の大先輩に適切かどうかわかりませんが、ほんとうにかわいらしいのです。

 

戦後67年経っても、初恋の人の思い出はきらきらとかがやいていて、

その光が鶴江さんの笑顔にやさしく反射しているような、そんな感じで、

なんとなくじんわりと涙が出てしまいます。

 

今回、そうしたお話をたくさんの方にもお聞きいただきたくて、

「昭和ガールズトーク」というタイトルで対談させていただきました。

戦争があった時代に生まれた恋のお話は、現代に生きる私たちの心にも

ぐっと届いてきます。

 ご参加のみなさんは、どのようにお感じになったでしょうか。

 

15(日)「土空看護婦が語る予科練と空襲」

 

 

最初お話してくださる方はお一人の予定でしたが、

当時の同僚の方二人がかけつけてくださって、急遽ご参加くださいました。

 

 

左から角田(かくた)しづ子さん、栗原志津子(しづこ)さん、森戸(もりと)すゑ(え)さんです。

 

昭和20(1945)年、戦局がいよいよきびしくなったころ、土浦海軍航空隊の

医務課で勤務するために赴任された方たちです。

当時10代後半から20代前半。

予科練の少年たちにとっては、おねえさんのような存在でした。

 

その頃、日本は本土空襲がはげしくなって、主要な都市のほとんどが空襲の

被害を受け、たくさんの人が亡くなりました。

土浦海軍航空隊も例外ではなく、彼女たちが赴任してそれほどたたないうちに、

B-29による大規模な空襲にみまわれ、一般人も巻き込んで

400名近い死傷者を出しています。

 

この空襲については映像や文字で知ることができますが、やはり体験なさった方から

うかがうと、お話のリアリティが圧倒的に違うような気がします。

ふだんお話をしているととてもチャーミングな彼女たちが語る恐ろしい空襲の様子には、

思わずぞっとしてしまい、改めてその恐ろしさを感じました。

 

会場のみなさんも、しん・・・としてお話に耳を傾けていらっしゃいました。

また、質問のコーナーでは、実は自分もこの空襲を体験したんだ、という

元予科練の方がお話ししてくださり、短いながらも貴重な経験談を

おうかがいすることができました。

 

最後は大きな拍手でつつまれた会場。

ご参加くださったみなさんに、激動の戦中戦後を看護に生きた女性たちの

強さと心が伝わったのではないかと感じました。

 

実は元看護婦の皆さんには、予科練平和記念館ができるときから

いろいろとお世話になっており、

ご寄贈いただいた資料は展示室5「交流」に展示させていただいております。

また、森戸すゑさんは、展示室6「窮迫」の空襲の映像にも出演してくださっています。

みなさんもご来館の折にはぜひご覧になってみてくださいね。

 

女性の目から見た戦争の姿。

男性の視点とはまた違った角度からその悲惨さを伝えてくれます。

今回は2日続けて貴重なお話をうかがうことができて、本当によかったと思います。

 

 

そして本日は、中学生の職場体験。

 

記念館がある阿見町のおとなり美浦村から、

自転車で40分かけてきてくれた中学2年生。鈴木君と吉田君。

今日は2日間体験のうちの初日と言うこともあり、とても緊張しているようでしたが、

緊張しながらもきちんとお仕事をしてくれました。

 

 

二人はハンドボール部で明日から大会があるそうです。

それが終わったらすぐにまた職場体験。

忙しいですが、大会頑張って、また笑顔で来てくれることを楽しみにしています。

 

特別展「回天」へのいざない②

7月 15th, 2012

 徳山港を船で出発すると、点在する小島の間を縫うように、結構な大きさの船がそれこそ交通ルールを遵守して整然と航行している光景に出会います。瀬戸内では目の前にある海を船で行き来するのが昔から当たり前のことだった、ということを教えられるようです。 

 馬島港に到着し回天記念館へ向かうとまもなく坂が見えてきます。その坂は向かって右手にあたるのですが、左手には海が広がっています。

 整備された堤をトントンと駆け上がると、そこには青い海が見えます。瀬戸内の波は穏やかと聞いていましたが、本当に穏やかな波が幾重にも打ち寄せてきます。「見通しがきくときは、国東半島(大分県)まで見える」そう回天記念館・松本館長に教えていただきました。国東半島の南側には大神回天基地がありました。遠い昔、目の前の海が訓練する回天を包んでいたのだと思い、遙か遠くに思いが飛ぶようでした。

 そして目は、海中に突き出た構造物に移ります。これが大津島にあった魚雷発射試験場であり、訓練する回天の発着場でした。

 ここへ行くためにはトンネルを通って行きます。かつて、敷かれたレ-ルの上を訓練用の回天が発着場まで運ばれていった通り道です。私にはそれほど不気味に感じるところのないトンネルでした。ただ、発着場に近づき幅が広がったところで、現在は回天の説明パネルが展示してある照明付きの明るい場所に差しかかったとき、いきなり案内の音声が高らかに流れ始めました。平日の昼間ですから島にそれほどの来客はありませんでした。私は帰りの船の時刻を気にしながら、同時になにかしみじみした気持ちで1人歩いていましたので、正しく働いたセンサーに対して、本当に久しぶりに心からびっくりしました。私は驚きの声をトンネルに刻んできました。アテンションプリーズ…。

 

 発着場には危険な箇所に金網がかけられているので特に心配はありません。しかし、金網越しに覗ける魚雷発射のための「コンクリート洞窟」とも言うべきところには、一見穏やかそうだった波が打ち付け、砕ける音が響き渡り、海・水がもつエネルギーの恐ろしさを私に伝えてきました。海と渡り合った海軍の人たちの度胸に恐れ入り、またどうせならその気力こそ平和な社会で発揮したいものだと思いました。

 発着場には、回天を上げ下ろししたクレーン跡などが残り遺跡としても一見の価値ありですが、そこから眺める大津島、馬島の円く穏やかな風情、そして九州は国東半島まで届く大海原の明るさがたいへん魅力的です。

 

 再びトンネルを歩き、坂を上り詰めると回天記念館に到着します。私が4月に訪問したときは、道中、ソメイヨシノと山桜が混在する桜のトンネルを抜けていくこととなりました。

 

 回天記念館に入館する前に、右手にある「回天碑」の前で哀悼の意を表しました。そのすぐ左には回天一型の模型があり、その向こうには徳山の町へと続く青い海が穏やかに光っています。

たなばたおさんぽの会

7月 7th, 2012

【速報】つばめのひなが巣立ちました

しばらくの間、お客様のみならず館職員も楽しませてくれていた

つばめのひなが飛び立ちました。

結局かえったのは一羽だけだったらしく、親をもしのぐほど

まるまるとして巣立って行ったそうです。

元気に大きくなって、こんどは親になって帰ってきてくれることを

楽しみにしています。

 

 

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

気づけばもう7月。1年の半分が過ぎましたね。

みなさんは今年の上半期、どのようにお過ごしでしたか?

充実している方はそのままに、思ったようにいかなかった方は、

その倍以上素晴らしいことが下半期に起こりますように、

お祈りしております。

 

 

 

さて、先日、予科練平和記念館に

君塚陸上幕僚長がおみえになりました。

陸上自衛隊のトップの方です。

 

 

 

そんな偉い方をおむかえしてご案内するのははじめてだったので

とても緊張していました。

というのも、何日か前からおとなりの土浦駐屯地で

陸上幕僚長をお迎えする予行練習が行われていて、

いつも仲良くしてくださる広報班の方が、その様子を

いろいろと教えてくださったので、

自衛隊さんについて不勉強な私でも、「これは大変なことだ」と

感じたからです。

 

でも、当日お会いした幕僚長は、とても柔和な笑顔で

人をあたたかく包み込むような雰囲気をお持ちの方でした。

私たちが暮らす日本を見守るという責任の重い大変なお仕事をなさっておられるので、

もっと厳しい方なのかなと勝手に思っておりましたが、

ときどきユーモアもおっしゃる、すてきな方でした。

同時に、その人の裏側まで瞬時に察するような、人を見る目をお持ちのようにも

感じました。

 

自衛隊さんといえば、被災地での行方不明者の捜索やがれきの撤去、

物資の輸送や被災者の方々の生活の保護など、

本当に大変なお仕事をしてくださいました。

 

私などがこんなことを言うのはおこがましい気がいたしますが、

大きな地震を経験して、本当に困ったときに

助けにきてくださる人たちがいることはありがたいことだなと感じました。

 

だから、そうした人たちのトップに立つ方が素晴らしい方で、

本当によかったな、と思います。

 

分刻みのスケジュールで、お伝えしたいことがうまくお話できませんでしたが、

もしよろしければ、今度はプライベートでまたぜひ

ゆっくりご来館いただけたら嬉しいなと思っております。

 

 

幕僚長のメダルもいただきました。

とても珍しいものだそうです。

お写真と一緒に飾らせていただきたいと思っておりますので、

皆さんもご来館の折にはぜひご覧くださいね。

 

 

さて、今日7日(土)は七夕です。

予科練平和記念館では、こども向けの企画

「おはなしおさんぽの会&昔の遊びをやってみよう!の会」を

開催いたしました。

 

今回は絵本3冊と紙しばい1つを読みました。

 大きなトマトのお話 「トマトさん」

戦時中に上野動物園であったお話 「かわいそうなぞう」(紙しばい)

ちいさなゴリラのお話 「ちびごりらのちびちび」

七夕のお話 「たなばたものがたり」

です。

 

 

 

よみきかせのあとは、みんなでたなばたかざりを作りました。

おりひめとひこぼしの短冊にかわいい顔をかいたり、

星のかざりをつけたり、

おねがいごとを書いたり・・・。

 

 

 

つくったかざりは、小さなささに飾ってお持ち帰りいただきました。

おうちに飾って、ご家族のみなさんで楽しんでいただけたら

嬉しいなと思っております。

 

 

 

 

たなばたかざりを作ったあとは、竹とんぼ名人が作った

竹とんぼを、館内のホールで飛ばして遊びました。

 

 

 

 

さすが名人がつくった竹とんぼ、よく飛びます。

お子さんたちは汗だくになって飛ばしまくり、走りまくりでした。

一人一つずつプレゼントしましたので、帰った後も

ご家族で飛ばして遊んでいただければと思います。

 

今回、「竹」にこだわった遊びをご提案したのには理由があります。

予科練平和記念館がある阿見町は、町の面積に占める竹林の割合が

茨城県内で一番広いのだそうです。

 

今回遊びに使っている竹は、町内の区長さんがご好意で分けてくださったものです。

また、町商工観光課の方にも、竹の切り出し等大変お世話になりました。

本当にありがとうございます。

地元のものを使って、昔のこどもも楽しんだ遊びができるというのは、

とってもすばらしいことだなと思いますので、

またこうした楽しい企画を立てていきたいと思います。

 

おはなしおさんぽの会、次回は11月24日(土)です。

お子さまと一緒に、ぜひご来館ください。

 

また、来週末には、「女性が語る戦争」と題しまして、土日連続で

戦争を体験された女性のお話をうかがいます。

 こちらもぜひご参加ください。

 お待ちいたしております。

 

女性が語る戦争 Vol.1「昭和ガールズトーク」

7月14日(土)13:00開場 13:30開始

無料

Vol.2「土空看護婦が語る予科練と空襲」

7月14日(土)13:00開場 13:30開始

無料

 

https://www.yokaren-heiwa.jp/05tenrankai/04event.html

 

 

 

祝!15万人

7月 1st, 2012

 予科練平和記念館は、本日7月1日(日)、平成22年2月の開館以来15万人目のお客様を

お迎えしました。

 

記念すべき15万人目のお客様は、土浦市板谷からお越しの富田さんご家族です。

当館職員が待ちうける中、午後2時57分に入館された富田彰汰君(都和小5年)、

大騎君(同3年)が記念すべき15万人目のお客様となりました。

ご両親の仁さん、淳子さんとご家族4名でお越しいただきました。

 

お二人には、記念のくす玉を割っていただき、加藤館長から15万人目の認定証と

予科練クッキー、書籍、赤とんぼの模型など記念品を贈呈させていただきました。

 

「入口にくす玉が下がっていたけど、まさか僕たちが15万人目だなんて、

すごくびっくりした。でもラッキー」ととても喜んでいただきました。

 

 

お父さんによると、お隣の公園には何度か来ていただいているそうで、今度は記念館に

行ってみようと話していたところ、通りにある、所蔵資料展「兄を追って」(本日最終日)の

看板をご覧になってご来館いただいたそうです。

 当館としましても、若いご家族に戦争の歴史をお伝えできるのは、館設立の趣旨にも

かなうものでとてもうれしく思います。

 

 

15万人は、平成22年2月2日の開館以来2年5か月、712日目での達成となりました。

これまでご来館いただいた方々をはじめ、ご協力をいただいております関係者の皆様に心より

御礼申し上げます。

 

先日のブログで紹介しました、つばめのひなも今日は大きく羽を広げ、さかんに飛び立つ練習を

しています。当館の15万人目のお客様をお迎えしてから大きく飛び立つつもりだったのでしょう。

 

当館では、7月、8月と展示会などイベントが目白押しです。21日からは「特別展回天」が

スタートするほか、読み聞かせの会、戦時を経験した女性が語る戦争講演会、回天搭乗員に

よる講演会などなど。

 

当館では、これからも予科練生の姿を通して、命の尊さ平和の大切さを伝えてまいりたいと

考えております。

お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。お待ちしております。

 

のんぶのこと

6月 27th, 2012

【速報】つばめのひながかえりました

おとうさんとおかあさんが交代でご飯を運んでいます。

 

 

一眼レフカメラを構えてシャッターチャンスを待っていましたが、

なかなかみなさんに伝わるような写真が撮れず・・・

右側の親つばめのとなりでちょこんと頭を出しているのが

ひなつばめです。

日に日に動きが大きくなってきているように思います。

ますます楽しみになってきました。

 

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

昨日に続いて今日も梅雨の中休みとなり、時々陽射しが入る予科練平和記念館です。

明日以降はまた梅雨らしいお天気になるそうですので、

梅雨バテにならないよう、みなさんもどうぞお気をつけくださいね。

 

さて、4月より開催しておりました第5回所蔵資料展『兄を追って』展ですが、

いよいよ今週末までとなりました。

たくさんの方にご来場いただき、本当にありがとうございました。

とりわけ今回の展示は、貴重な資料を寄贈してくださり、NHKさんの取材にも快く

応じてくださった辻 猛さんのお力によるところが大きいと思っております。

予科練だったお兄さんを想う猛さんのお気持ちが一つの形になったことで、

多くの方に大切なメッセージを届けることができたのではないかと思います。

これからも、予科練平和記念館に寄贈されている貴重な資料を

みなさんにご覧いただける展示を企画してまいりますので、

ぜひご覧ください。

 

第5回所蔵資料展『兄を追って』

7月1日(日)まで開催

9:00~17:00(入館は16:30まで)

常設展観覧チケットでご覧いただけます。

 

 

 

 

予科練平和記念館には、毎日さまざまなお客様がご来館くださっています。

なかには、ご自分の戦時中の体験をお話しくださる方もたくさんいらっしゃいます。

今日は、そのうちのお一人からうかがったお話を

ご紹介してみたいと思います。

 

 

展示室7「特攻」の前で待機していた解説員さんが、

「敷島隊の谷さんの同級生がいらしてますよ」と教えてくれたのは

5月3日、憲法記念日のことでした。

 

「敷島隊」というのは、海軍の特別攻撃作戦において

最初に戦果が確認されたとされる神風特別攻撃隊「敷島隊」のことで、

谷さんとは、隊員で元予科練生の谷暢夫(のぶお)さんのことです。

 

戦局がいよいよ厳しさを増した1944(昭和19)年10月、

爆弾を装備した零戦で敵艦隊に突入する特別攻撃 「特攻」作戦が決行されます。

最初の特攻隊「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の4隊は、

予科練出身者を中心に編成されました。

 

敷島隊隊長の関行男さんと、予科練甲10期生の谷暢夫さん、

中野磐雄(いわお)さん、丙15期永峯肇(はじめ)さん、丙17期大黒繁男さんは、

1944(昭和19)年10月25日、フィリピンのマバラカット飛行場から

零戦に乗って飛び立ち、

命とひきかえの体当たり攻撃で護衛空母1隻を沈め、

3隻に大打撃を与えるという

戦果をあげたことが記録されています。

 

谷さんは、隊長の関機に次いで二番機で出撃。

森志朗著『敷島隊の五人』には、その最期が次のように記されています。

 

同艦(護衛空母カリニン・ベイ W注)「戦闘報告」は、関行男の最期を

次のように記述している。

「(零戦)突入と同時に、火焔(かえん)が噴き上げ、激しい熱気が飛行甲板に

みなぎった。しかしながら、それは、爆弾の破裂によるものではなかった。

甲板には大穴があき、火災が発生した。体当たりした零戦は粉々になったが、

胴体部分は飛行甲板前方をくるくる転がって行き、左舷側から海に転落した」 (中略)

舞鶴出身の一青年谷暢夫もまた、冷静に自らの使命を意識していたようである。

関の突入が不発に終わったことを知るや、彼はカリニン・ベイに向けて急降下をはじめた。

谷の突入角度はさらに急で、七〇度に近かった。

ただ一番機とちがってこの零戦は、無数の対空砲火の命中弾をあび、

すでに焔を吹き出していた。 (中略)

谷の零戦は危ういところで海中への転落を避けることができ、

かろうじて左舷舷側に体当たりした。機体は海に沈んだが、

今度は二五〇キロ爆弾が破裂し、水柱を吹き上げ、艦体にショックをあたえた。

 

 

息詰まる描写から伝わってくる谷さんは、何か人を超えたような強い意志で

自分の乗っている零戦の何倍もある大きな艦船にむかって行った、

という印象を受けます。

 

 

でも、本当の谷さんは、どのような方だったのでしょうか。

 

 

谷さんと舞鶴中学で同級生だったというSさんは、次のようなお話をしてくださいました。

 

― 谷さんはどんな方でしたか?

谷さんは2人兄弟で、お寺の息子でした。

あだ名は「のんぶ」。のん気なところがあって、誰かとけんかをするようなところはありませんでした。

軍人に向いているタイプではないと思っていました。

 

― 谷さんのことで、一番思い出に残っていることは何ですか?

中学のとき、漢文の先生がクラスの笑いをとるために谷さんを

何度もあてたことがありました。

みんなは「またのんぶが当った」という感じで笑ったことをよく覚えています。

 

― 谷さんが予科練に入ったことについて、どのように思いましたか?

予科練に入隊したのは急なことで、どうして予科練に行ったのか、と思っていました。

海兵(海軍兵学校)や陸士(陸軍士官学校)への道もあり、

皆それを目指していたので、

谷さんの入隊は突然のことで驚きました。

穏やかな性格の谷さんが特攻隊になったことを考えると、

だいぶ訓練を頑張ったのではないか。

よく、辛抱したと思います。

戦後谷さんの親御さんに聞いたところ、最後に帰ってきたときの様子で、

何かあるのではないか、と思ったそうです。

 

― 谷さんが最初の特攻隊になったことについて、どう思われましたか?

何故谷さんが特攻隊に選ばれたのか。海軍に対して言いたいことは今でもあります。

しかし当時はそういうことを口に出したらどうなるかわからない時代でした。

 

 

今日は久しぶりに谷さんに会えて嬉しい。

Sさんは目に少し涙をにじませて、最後にそうおっしゃいました。

 

遠い昔の記憶をたぐるように、少しずつ、少しずつ語ってくださった言葉は

とても重く、ぜひみなさんにもSさんのお話をご紹介したい、と思っていました。

 

谷暢夫さん(『敷島隊の五人』より)

 

 

みなさんは、どう思われましたでしょうか。

 

 

私のような泡沫学芸員ができることといえば、こうした方たちの声を

いただいて、広くみなさんにお知らせすることかもしれないと思っています。

 

またお話を聞く機会がありましたら、お知らせしますね。