霜と霞

12月 17th, 2014

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

12月に入り朝霜が本格的に降りはじめ、予科練平和記念館の周りも冬の到来を感じています。

茨城では今年の初霜は、例年より一週間ほど遅い11月の中旬に降りたそうです。11月の旧名は霜月ですが、名前のとおり初霜は11月初旬に降りているようです。

冬の到来を霜が降りることで感じる方もいらっしゃると思いますが、先月の当ブログのエントリで「秋が到来」と書いた時点では霜も降りておらず、まだまだ晩秋という風情でした。

一ヶ月たった今の情景と寒さをみるとウソのようです。

12月は手紙を書く際の冒頭にある時候の挨拶に、「霜気の候」、「霜寒の候」、「霜夜の候」などと表されます。

初めて霜が降りるのは11月ですが、やはり霜の冷たさ、冬の冷たさは12月に入って実感されるのかと思います。

 

 

さて話はがらりと変わりまして、今回は予科練の部隊と関わりの深い「霞ヶ浦海軍航空隊」についての話題です。

当館では予科練の練習部隊「土浦海軍航空隊」について主に展示していますが、その土浦海軍航空隊の敷地は霞ヶ浦海軍航空隊の水上班(飛行練習機による水上練習用の班)を、昭和15(1940)年に分離独立・拡大したものです。

霞ヶ浦海軍航空隊は大正11(1922)年に稲敷郡阿見村(現:阿見町)に誕生した航空機練習教育部隊です。

日本海軍としては「横須賀海軍航空隊」(神奈川県)、「佐世保海軍航空隊」(長崎県)に続いて日本で3番目にできた航空隊で、教育部隊としては日本で初めての航空隊です。

昭和5(1930)年に誕生した予科練制度を卒業すると、海軍飛行予科練習生はその名前から「予科」がとれ飛行術練習生となり、この練習部隊で飛行機操縦の訓練をしました。

現阿見地区のほぼ全域にわたる陸上飛行場と、霞ヶ浦の湖岸に建てられた水上訓練用の水上飛行場を中心に作られ、その敷地面積はおよそ85万坪(約2.8㎢)。東洋一の飛行場と呼ばれるほど広大なものでした。

また、茨城県南の海軍航空隊の中心となった航空隊でもあり、零戦などの実機訓練を行っていた筑波海軍航空隊(現:笠間市)や谷田部海軍航空隊(現:つくば市)は、この霞ヶ浦海軍航空隊の分遣隊から誕生しています。

現在では、その広い飛行場を思わせるものは、ほぼ残っておりませんが、この地に予科練の部隊があったことに強く関係のある事柄ですので、ご紹介いたしました。

霞ヶ浦海軍航空隊については、当予科練平和記念館から車で10分ほどの距離に「陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地」内の広報センターにも資料が展示されております。

事前に以下の自衛隊広報へお申込みいただければ無料で見学できますので、当館お立ち寄りの際には、そちらまで足をのばしてみてはいかがでしょうか。

 

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地 広報センター

開館日 :月~金曜日(土・日 及び祝・休日は除く)

開館時間:午前9:00~12:00  午後13:00~16:30

TEL:029-842-1211(内線2217、2218)

URL:http://www.mod.go.jp/gsdf/eae/eadep

 外観

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近日の予科練平和記念館イベントについてご紹介いたします。

12月20日(土)午後2時から「元予科練生講演会『よみがえる私の予科練時代』」が開催されます。元甲種14期生 久津美 明(くつみ あきら)さんから当時の体験談や思いを語っていただきます。

また、久津美さんは書に精通されており、現在は「碧洋」の書号で書展の開催など書家として活動されております。

講演会当日には予科練時代の思いや、そこから得たものを書に表したいと、お客様の目の前で一筆書かれるとのことで、そちらもご覧いただければ幸いです。

講演会の観覧には通常常設展の観覧料がかかりますのでお気を付けください。

「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」③

11月 30th, 2014

 寒くなってきました。しかし、11月最後の日の今日は暖かく感じられます。ちょうど旧暦10月の今頃は「小春」と呼ばれるそうで、今日の暖かさはまさに「小春日和」と言えるのでしょう。

 本日で企画展「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」は最終日を迎えましたが、展覧会でも取り上げた元予科練生の証言テキストは、皆様にまだご紹介を終えていません。貴重なお話しですので、展覧会の会期とは別に、引き続きご紹介させていただきます。

【橋原正雄氏:丙飛12期】

 昭和17年(1942)になって、巡洋艦の愛宕に乗り組みました。愛宕は1万トン巡洋艦、重巡洋艦(重巡)で第2艦隊の旗艦です。第2艦隊の司令長官は栗田健男(たけお)中将でした。愛宕艦長が中岡少将です。中岡少将は鳥取県の出身なんですよ。今もね、この方の娘さんと年賀状をやりとりをしています。艦長はもう亡くなったんですけどね。

重巡洋艦「愛宕」

 まあ、愛宕へ乗ったときのいろいろな細かな話もあります。初めて大きな軍艦に乗せられましてね、艦内旅行というのをやるんですよ。船の中を何がどこにあるか覚える、覚えさせられるためにね、艦内旅行。船の先端、これ「錨鎖庫(びょうさこ)」と言って、錨をしまってあるところですが、そこからずーっと甲板を船の後部まで駆け足するんです。毎日駆け足でどこに何があるかを確かめることを、海軍では「旅行」と言ってました。旅行してこい、とね。

 愛宕に初めて乗って、そのよく食事を今でも聞かれるんですけれど、まず、思い出すのはカレーライスですね。港へ行きますとね、海軍カレーなんていうのが売ってるんですよ。今もありますね。横須賀の港へ行きますと海軍カレーなんて看板が出ていてね。つい食べ損ないますけれど。今のカレーが当時と同じかどうかは分かりませんけれど、とにかくおいしかったですよ。あと食べ物っていうと缶詰が多かったですね。艦隊の移動と言いますと、まあ長いときで10日、あるいは2週間、短いときではほんの2、3日なんていう航海はあるんですけれどね。

 インド洋作戦に行ったときなんて、1ヶ月分の食料を積んだわけですよ。そういうときは缶詰ばかり。それとね、驚いたことに、野菜はですね乾燥野菜。菜っ葉類でもゴボウでも人参でもなんでもみんな乾燥してある。だから主計兵(食事を作る係)は大変だったようですね、これを戻すのに。それで味の付け方も違うみたいですね。また、食べる兵隊もうまいのまずいの、なんだこれ、こんなの食えるか、なんてね、怒鳴っている上官もいますからね。たいへんだったと思いますよ。毎回缶詰だとか、それからパン類はよく出たですね。あれは、コッペパンみたいなやつ。それから堅いパン、まあ戦闘食って言うんだけどね。

 で、感心したことにはね、結構コーヒーが出るんですよ。あの頃、コーヒーなんてどこから手に入れたんでしょうかね。ま、南方手広く占領しましたから、南方からどんどん取り寄せたんでしょうね。南方の基地っていうと、だいたい内地を出ますと、マーシャル諸島のトラック島というところに一度寄ります。ここは艦隊が常に入るところで、そのトラック島というところには4つの大きな島があって、夏島秋島冬島春島と、4つの大きな島があるんですが、たぶんここへ入ったときに積み込んだんじゃないかと思うんですよ。作業員整列、なんて号令がかかりましてね、缶詰担ぎに行くんですよ。野菜なんかもね、たぶんトラック島あたりで補給したんだと思います。

トラック

 それから水です。一番大事な水。まあ、水くらい大事なものはなくて、雨が降りますとねオスタップといって大きなドラム缶みたいなのやつを外に出して雨水を集めて、それで顔を洗ったり洗濯したり、風呂の水に使ったり、そんなことをやるわけですよ。そのオスタップというやつは、とても一人じゃ持てなかったですね。

 雨が降るっていうのは船の上にいると分かるんですね。黒い雲がザーッと押し寄せてくるもんですから。すると艦橋から、艦橋というのは艦長以下偉い人がいるところですが、そこから左何十度方向、例えば「右三十度方向にスコール」っていう号令が来るんですね。だんだんスコールが近付いてくるぞーっ、という号令がくるんですね。すると各分隊大きなオスタップを持ってですね、そのスコールが来るのを待ってるんですよ。戦闘中はそんなこと出来ませんけどね。で、スコールが来るっちゅうとその水を一杯貯めて、お風呂に使ったりもする。巡洋艦以上の大きな軍艦はみなお風呂がありますので、交代でお風呂に入ります。お風呂も偉い人が先に入って、あと順々に入っていくわけですけれど、そんなことも何回もありましたね。

 愛宕に初めて乗りましてね、新兵教育と言いますか、艦内教育と言いますか、朝から晩まで訓練ですよね。特に私はカタパルトから飛び出しまして、観測の訓練をやりました。カタパルトと言いますのは、鉄道線路みたいに2本の線路が延びているんですけれど、軍艦の両翼にカタパルトの台があるんですよ。この線路の上に枠があってですね、ちょうど1m四方くらいの枠があってその上に飛行機が乗っかっているんです。ここから飛び出すときには、エンジンは全回転です。

カタパルト

 飛び出す前はですね、軍艦そのものは風に向かって方向を転換してくれます。飛行機が風に向かって飛びだし風に向かって降りるというのは原則ですから。艦隊から離れて風の方向に向かってくれます。同時に、このカタパルトがグーッと外側に移動してくれまして斜めになりますので、その上から飛行機が飛び出します。

 全回転をしてエンジンの調子がいいと「よろしゅう」ってパイロットは合図をするんです。すると当直将校というのが艦橋のすぐ後ろにおりまして、これが引き金をぐっと引くわけです。すると、カタパルトの上に乗っかっている枠がすごい勢いで動き出してね、と同時に飛行機も動きますから、飛行機は全回転していますから上に飛び上がっていくと。ただ、飛行機がうまく風に乗らないとですね、倒立転回やることがあるんですよ。2回ほどありましたね。これが戦闘中だったらそのまま捨てて行っちゃいますけどね、訓練中でしたので、すぐにカッターを下ろして、あるいは内火艇、小さなボートですね、あれを下ろして救助に行くんですが、2回、3回くらい見ましたかね。

 見ていると分かるんですよ、いや危ねぇぞあれは、なんてね。すると、やっぱり飛び出したはいいけど、ヒューッと海面の方に降りて行っちゃってね、そのまま上がってこないんですよ。これは失敗だっちゅうわけで。いやぁ、失敗して帰ってきたときには飛行長に怒鳴られるわけ。「お前は大切な飛行機を一台壊した」というわけでえらいお説教食うんですけれど。ま、そうやってね、初めてこの、軍艦に乗ったときは訓練を受けました。

 愛宕というのは私にとっては初めての軍艦でしたし、すばらしい軍艦だったと思っています。艦長、第二艦隊の司令官、こういう方に教えられまして、実際に機銃の射撃訓練もやりましたね。この射撃訓練は、吹き流し、あれは10m、30m、50mでしたかね、それに向かって射撃するんですよ。母艦と一緒にいますとね、零戦なんかがそれに向かって射撃訓練をやる。ま、そんなことも愛宕では色々と勉強させられまして、実戦部隊というのは大変だなぁということをつくづく感じました。

行楽の秋、行軍の秋

11月 11th, 2014

おはようございます。こんにちは。もしくは、こんばんは。

秋が到来いたしました。行楽シーズンなこともあり、当館でも連日たくさんのお客様にお越しいただいております。先日は日に500名以上の入館者があり、うれしい悲鳴をあげている次第です。

 

さて今回の話題は上に引き続きまして、予科練生の行楽についてお話ししようと思います。

『予科練歳時記』という本に掲載されている予科練生の日記によれば、11月に鹿島・香取行軍が行われています。

 「行軍(こうぐん)」について説明いたしますと、「軍の部隊が戦闘や、演習をする目的地に向かって、きちんと整列して行進移動すること」です。

こう書くとものものしいですが、鹿島・香取行軍でいうところの目的地とは、鹿島神宮と香取神宮です。

つまり海軍の遠足です。

予科練では教育の一環で、一年に数回名所旧跡をまわっておりまして、正装し、足並みを揃えて整然とした隊列で向かいます。

土浦海軍航空隊では鹿島、香取以外には水戸の偕楽園や、筑波山、東京の宮城、明治神宮、ほかにも鎌倉などを巡りました。

さすがに軍隊らしく自由気ままな旅行とは行きませんが、予科練生にとっては数少ない外出遠出の機会です。

きっと小学生同様にうきうきとした気分で指折り数えて待っていたのだと思います。シャバ(海軍では部隊の外をこう呼びます)は久しぶりだと胸を躍らせたことでしょう。

予科練生の回想録には、病み上がりのため行軍には参加できないところを、なんとか上官にかけあって参加させてもらうというようなエピソードがありました。

鹿島・香取行軍では土浦の民間観光船を貸し切って、ぎゅうぎゅうに乗り込んで霞ヶ浦を行きます。

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表情までは見えませんが、私はなんとなく楽しそうに見えました。 

みなさまも、秋の紅葉をながめながら史跡ツアーなどはいかがでしょうか。

  

 

 

近日の予科練平和記念館イベントについてご紹介いたします。

11月23日(日)午後2時から「元予科練生講演会」が行われます。

元甲種14期生 内田次男さんのお話を伺います。通常常設展の観覧料がかかりますのでお気を付けください。

11月29日(土)には「ラジコン航空ショー」が、予科練平和記念館のお隣の公園を会場にして開催されます。

開催時間は9:00~12:00、13:00~15:00。ボランティアの方々のご協力で、予科練の空を一抱えはあるラジコンたちが飛び回ります。

雨天、強風の場合は中止となるので、当日の快晴を祈るばかりです。

無料開催ですので、お子様をつれて気軽におこしください。

「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」②

10月 19th, 2014

 私が、まあ将来どういう道へ進むか分からんけれども、通信へ行って信号術、暗号術を勉強してこいと上からの命令で入ったのが海軍通信学校の58期なんです。

 モールス信号、トンツートンツーですね、あれを覚えさせられたんですよ。モールス信号というのはご存じの通り、アメリカのモールス博士ですかね、この方がこの基礎を作ったというふうに聞いています。今もモールス符号というのは、通信関係あるいは航海商船関係で使ってますね。

美保-通信術送受信訓練

 特に、軍隊ではこのモールス信号というのが大変貴重な連絡、情報手段になっていましてね。モールス信号というのは、英字がAからX、Y、Zまで26文字ですか。数字が0から9まで10文字ですね。それから記号がありますね、濁点とか半濁点とか、あるいは括弧であるとか、括弧も上向き括弧、下向き括弧、かぎの括弧とかね。あと和文としてはいろは何から、おしまいの「ん」まで、えー48文字、これ全部で95文字あるんですよ。これみんなモールス化されているわけです。

 このモールス符号を一週間で覚えろっちゅうんですよ。これには参ったですね。えー。みんなそれこそ寝ずに勉強しましたよ。隣の奴ももう就寝時間になっているのに寝ねーでね、トンツートンツー、トツー、いろはのは、にツートトト、とかね。一生懸命やってる、あーこれは負けちゃいらんねーと思ってね。それが全くまー、不思議に、若かったしね、16歳ですから、覚えもよかったんでしょう、一週間十日くらいでみんな覚えましたよ。全部で95文字あったんですから。今でもびっくりしますよ。今やれなんつったってとても出来ません。

砲術学校

 これが終わってからね、砲術学校へ行ったんですよ、砲術学校の92期。砲術関係というのはどこの船へ行っても、どこの軍艦へ乗っても、あるいは陸上勤務になってもですね、銃器というのは使いますので。あの頃はね、歩兵銃、93式、93式歩兵銃かな。それから一式銃っていうのがあった、イタリア製ですね。それから機関銃、これは20ミリ機関銃から17.7から、それから高角砲、飛行機を撃つあれですね、軍艦に乗ると必ず、駆逐艦以上は高角砲を積んでますから、それから機関銃も積んでますので、まー当時一等巡洋艦で改装した私が乗った愛宕なんていうやつは100挺くらい積んでましたよ、機関銃をね。

 それで、高角砲なんていうのは飛行機を専門に撃つんですけど、2連装が1、2、3、4、4基8門ですね、8門ありまして、まあこれらの操作、それから射撃訓練、こういったものを砲術学校で一ヶ月ほどやったんで。

奈良-陸戦術射撃訓練

 それから回されたところがですね、山口県の宇部空です。航空隊へ行く前にですね、たぶん海兵団で希望を書かされたような気もするんですよ、飛行機に乗りたいという意思のね。それで砲術学校を終わるとすぐ、山口県の宇部航空隊へ行けと。宇部ってどこにあんですか、山口県だって言うんだよ、それすら分かんなかったですよ。

 ここへ行ったときにですね、93式の水上中間練習機とうのが与えられまして、それで実際に初めて飛行機にさわった。これが2ヶ月ほど、ここでは操縦、偵察、観測それから整備、この4つを重点的にやらされまして、やっている間に教官がいろいろ見てんですね、あーこいつは操縦に適しているとか、こいつは偵察だとか、観測だ、整備関係だと。この宇部空にいるときに振り分けられちゃったんですよ。

 93式練習機ですね、結構操縦もやったんですが、どうもそのテストには落っこったみたいで。それで観測を重点的にやれと。簡単ではないんですね観測と言っても。飛び出していって、まずどこへ行くかと、後でもお話ししますけど、命令を受けて軍艦であればカタパルトから飛び出していきますんでね、それが遠いか近いか、あるいは1日以上かかるか、そういったときの燃料はどこで補給するか、あるいは食料もですね、食料がだいたいまあ2、3日分の食料は積んでいくんです。燃料は、ガソリン満タンです。満タンにして飛び出していくわけですけど。その観測を重点的にやれと命じられました。

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 観測兵というのはね、観測ばかりじゃないんですね。基地との、あるいは旗艦との通信ですね。これでモールスが生かされる。我、今、どこどこ、北緯何度、経度何度の洋上を今どの方向に進んでいるとかね、そういう連絡はみんな暗号です。その暗号というのは暗号書というのがあってね、表紙が真っ赤になってて、この表紙の背中に鉛が入ってるんですよ。どんな大きな暗号書でも小さいやつでも。何のためにそうなってるかというと、もしその船が沈没したとき、敵の潜水夫が潜っていってこの暗号書を引き上げられると、暗号文が全部解読されちゃうわけです。ですから海底深くに暗号書が沈むように鉛が仕込まれていたんですね。暗号書には2種類あって、偶数日に使うものと奇数日に使うものとに分かれてまして、厚いやつには厚いのがあるし、薄いのはもっとペラッとしたのもあるしですね、ま、2種類の暗号書を使ってました。

 飛んでいる時に、これは暗号でやらなくちゃならんというのは機長の命令ですね。機長から我こうこうだという文書が来ますので、観測員は後ろにつかまって、パイロットは、機長は前にいますから手渡しで来るんです。それを受け取ってその文書によって暗号書を引いて、暗号を引いて、それから基地に送るわけです。あんまり時間がかかったんじゃね、それこそ10分も20分もかかったんじゃ、これはもう仕事にならないわけです。ほんの何秒です。何秒の戦いですよね。で暗号文を作って、基地に送信するわけです。

 送信するのは電鍵(でんけん)と言いましてね。プラスとマイナスによって接点が出て、トンとツーが出るんです。トンはポッと、ツーはツッと、これは3分の1ですから、トンの3分の1がツーだと。ツートントンツー、だから有名なトラトラなんてありますね、トントンツートントン、トントンツートントン、トントントン、これはトラですね。こういうふうになってます。これは通信学校出た連中がみんな相手にいますので、この連中がそれを受信してすぐに司令、あるいは責任者のところへ届けるわけです。こういう観測関係、私も観測を重点的にやりましたんで、これがまあ2ヶ月ほどかかりましたね。

「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」①

10月 5th, 2014

 紅葉の見頃を伝えるニュースを聞く頃となりました。空気も冷えて涼しく、空が「抜けるように」青く、そして高く感じられます。

 

 現在、予科練平和記念館では企画展「Reyte-予科練生が見たレイテ沖海戦」を開催中です。

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 レイテ沖海戦は昭和19年(1944)10月に行われた戦いです。同年2月には、南方の要衝だったトラック島が大空襲を受け、事実上機能しなくなり、サイパン・テニアン・グアム島も夏には連合軍に占領され、いよいよフィリピンへ連合軍が迫ったのでした。

 

 レイテ沖海戦を体験された元予科生がご健在です。これから数回に分けて、レイテ沖海戦の体験談を含め、伺った体験談をご紹介していきます。

 

橋原正雄氏(大正13年生まれ-90歳。丙種12期生)

橋原正雄氏

 

 私は、橋原正雄といいます。静岡県沼津市の生まれです。旧制の沼津中学校を卒業しまして、まあ学生時代はですね、教職員を希望しておりまして、在学中にその資格も取ったんですが、当時の内外情勢ですね、非常に険しいものになってきまして、仲間はみんな陸軍、海軍へ志願していくわけですよ。「そんなに早くいくことは無いだろう」なんてね、「二十歳になればもう、否応なしに検査を受けて行くんだから」って言われたんですがね。もう私の性分として、陸軍でも海軍でも行きたいという希望があって、親戚の叔父さんも、相談をしましたら「ひとつ、自分の思うとおりにやってみろ」と。せっかく教職免許も取ったんだけれども。同級生なんかに押されまして、あるいは引っ張られたのかな、海軍へ志願をしました。

 一人だけ、私のその出身地から海軍に入った兵隊さんがいました。その方が休暇で来た時に、村のみんなを集めて海軍の話をしてくれたわけです。「ああ、すごいなあ、立派な、いい格好だなあ」なんてねえ。それ聞いて憧れましてね。それでまあ、昭和16年(1941)の5月1日。横須賀海兵団楠ケ浦練習部というところへ入隊をしました。

 適性検査を受けて、まあ合格ということになって、新兵教育が始まったわけです。一般の海軍では一か月ぐらい新兵教育をやると、それぞれの現地へ派遣されるという風に聞いてましたけれど、なぜか私は楠ケ浦練習部で二ヶ月、まあ座学ですねえ、座って教官からの話を受けていました。座学は一般的なものだったんですけれども、数学が主でしたね。アルファ、ベータ、シグマでしたかね、ある一点を与えられて、あとのこのAとBの距離とか、それからAとDの距離であるとかそれらを算出するんですけれども。まあ座学で一番しぼられたのはこの数学でした。

辻堂演習

 それから陸戦、鉄砲持ってですね、ええ、剣も持ってそこらを駆けずり回るわけですよ。徒手訓練とか。これで一番つらかったのは辻堂演習。神奈川県に辻堂っていうとこがありますわな、あそこの海岸の砂浜でね陸戦やるんですよ。これがきつかったです。砂浜ですからね、駆け足しようと思ってもなかなか足が前へ出ないわけです。足がめり込んじゃってね。うん。まあそれが一番、まあ記憶には残ってますね。

 他にもいろんな競技あるんですよ。ハンモック競技、まあ吊り床の競争をやるんです。ピュッて、班長が鳴らしますとね、もうハンモック抱えてビュームっていうんですが、これひっかけて、それで寝るばっかりにして、吊り床をつるんですよ。これ各班の対抗の競技でした。負けるとね、昼飯食わしてくんねえんですよ。ハハハハッ。いやあ、負けたことはなかったんですけれどね。

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 あとカッター競技ですね。これがまたこう、手にマメがいっぱいできちゃってね。あれもきつかったですねえ。おしりは真っ赤にこすれちゃって。このカッター競技も負けるっちゅうといろいろ罰直食らったわけですけれど。

 まあそんなことを二ヶ月もやって終わってですね、上からの命令で海軍の通信学校へ行くことになりました。

博物館実習生日記②

8月 24th, 2014

残暑お見舞い申し上げます。まだまだ暑いですね。

集中豪雨による災害が全国各地で起きているようです。

ニュースではこれまでの「異常気象」はもはや異常とは言えない、現在における「当たり前」に変わった、という厳しい見解を伝えていましたが、地球環境を狂わせているのが人間の営みであろうことを考えると、地球という私たちの母なる星に対して、実は「一方的侵略」を行ってきたこの半世紀だったのかと深く反省しなければなりません。

人間同士の平和は無論、あらゆる存在に対して「和する」ことが、人間そのものを生き延びさせる絶対的な条件であることを考えさせられます。

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さて、先回に引き続き、博物館実習に来てくれた大学生の意見を皆さんにご紹介します。今回は3年生の女子に登場してもらいましょう。

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最初に私が学芸員という職業を知ったのは、中学生の時の適職診断でした。適職診断の結果の中で教師や大学教授の他に出てきたのが学芸員で、私は学芸員という職業をそれまで聞いたことが無く何も知りませんでした。これが学芸員に興味を持つきっかけとなり、どんな職業なのか調べて仕事内容をなんとなく理解した私は、美術品・芸術に囲まれて仕事ができる事に魅力を感じていました。それに加え、中学時代に私は美術部に所属しており顧問の先生がよく博物館や美術館に見学に連れて行って下さったこともあり、見学に行った館の学芸員の方々が作品の解説をスラスラと話し案内をされている姿に強く憧れました。

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今、自分が学芸員を目指す一番のきっかけとなったのは中学時代一番お世話になった顧問の先生が教師を辞め、学芸員になる事になった際に嬉しそうに学芸員になる事を話していたのが心に残りその時に、資格を取ろうと決心し学芸員の資格が取れる大学に行こうと考えていました。

 学校では専門的な知識や展示の方法等を学んできましたが、いざ現場での実習を受けてみると大学の先生が皆さんとても忙しく仕事をされていて所蔵資料の管理や整理に手が回らないという現状に驚きました。また、自分の専門外のことでも新しく学びながら仕事をする事も大変だと感じましたが、とてもやりがいのある仕事ではないかと感じました。展示の構成を考える事やポスターを作成する際にも多くの方に来ていただく為に様々な技術が必要であると自分でやってみて改めて感じ、作成がとても難しかったです。特にポスターは、一枚の紙で展示の伝えたいこと、見たときに目を引くレイアウトを作らなくてはいけないということで全然上手くできませんでした。現場調査、資料の管理、展覧会の企画作成など5日間で様々な事を体験見学させて頂きましたが、自分の中での学芸員という職業を具体的に理解することが出来た5日間だったと思います。学芸員への憧れがもっと強くなりました。

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予科練平和記念館は、数少ない予科練の事と戦争の事を未来に残し伝える事の出来る博物館です。美術品や芸術品を見る所は数多くありますが、予科練の事を伝え戦争を実際には知らない若い人達に正しい歴史を伝え、理解して貰うことが出来る場であるので今後も、戦争があった事を風化させない為、メッセージを発信し多くの方に伝えていく事が役割であると考えます。また、今後戦争を体験した方々が居なくなってしまう時が来ますがその方々が話して下さったこと、伝えて下さったことを予科練記念館が次の世代へと伝えて行かなくてはいけないのだと思います。

 

 

 

博物館実習生日記①

8月 17th, 2014

暦の上では既に秋を迎えています。

朝夕の空気が例年より涼しいと感じるのは間違いでしょうか。

外観(斜め)

8/15(金)の終戦記念日、予科練平和記念館は無料観覧日でしたが、今年も多くのお客様をお迎えすることができました。

当日は、茨城放送(ラジオ)で、予科練平和記念館や開催中の展覧会についてご紹介させていただく機会をもつことができましたが、お忙しい日常ではあると思いますが、落ち着いた時間が取れるときには、ぜひ予科練平和記念館にお越しいただき、命の尊さや平和の大切さについて改めて考える機会を作っていただきたいと思います。

ちなみに、次回の無料観覧日は12/25(木)のクリスマスです。

皆様、お誘い合わせのうえ、どうぞご来館下さい。

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さて、そうした意味では、予科練平和記念館の次代を担うべき若者が、博物館実習生として勉強をしに来てくれました。

今年は男女1名ずつ、阿見町内の大学生でした。

戦争を知らない私たち若い者がしっかりと先人の意思を継いでいくためにも、大学生のような若い人たちに記念館に来てもらい、しっかり勉強してもらうことは非常に大切な活動になります。

まず、4年生の男子(ちなみにもう1人は3年生の女子でした)K君の感想からご紹介します。

しっかりと予科練平和記念館を観察し、彼なりの考えを深めてくれたようで、たいへん心強く思いました。

 

①学芸員に興味をもった理由

 私にとっては、予科練平和記念館の展示を見たことが興味をもった大きな理由である。初めて私が記念館に来館したのは、まだ開館間もない時であり、私が高校生のときであった。以前から日本近現代史、特に太平洋戦争期の日本海軍に大きな関心をもっていたことや、祖父が少年期に航空隊近くの航空廠で勤労奉仕を行っていた頃の話を幼い頃から聞いて育ったことから、私にとって戦争中の出来事はどこか現実感があり、他人事に思えなかった。

 このように、日常的に戦争の情報が蓄積されていったことから、いつしか私はこの知識を生かした職業に就きたいと考えるようになっていった。そんな中、出会ったのが、この予科練平和記念館である。私は何か運命的なものを感じたことを覚えている。

展示室6窮迫

②現場を通して感じたこと

 一番に感じたことは、現場の学芸員に求められていることがとても多い、ということであった。これまで学校でも学芸員というものは「雑芸員」である、社会教育の普及だけが学芸員の業務ではない、と教わってきた。だが、この5日間の実習を通して学芸員が置かれている現状を確認したことで、それが本当であったことを改めて理解した。また、専門的な知識の他、この実習で学んだ技術は、学芸員以外の様々な分野の仕事で自分にとってもプラスとなる、極めて汎用性の高いものであることも肌身を通して理解することができた。

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③記念館の今後の役割について

 今後、記念館は「海軍の町 阿見」という一種のブランドをさらに生かし、日本近現代史の中で日本海軍、引いては軍隊が担った発展の功績=プラス面と、軍隊がもたらしたマイナス面を取り上げて、比較検討し、双方の立場を見ていかなければならないと考える。戦争の悲惨さを伝え、過ちを二度と繰り返さないためにも、歴史を後世に連綿とつないでいかなければならないことは自明の理である。だが、昨今では、その方法が感情に訴えることだけに終始してしまっているように思えてならない。確かに、それは大切なテーマのひとつでもあるが、歴史を学ぶことの本質はそこではないはずである。史実を史実として受け止め、公正中立な立場で歴史を俯瞰して、そこから現代に生かせる要素を抽出することこそ、戦争の爪痕を現代にまで残す阿見町の記念館に求められていることではないだろうか。

「予科練ツバメ」はいかがですか?

6月 29th, 2014

 夏至を過ぎました。

 もう昼間が短くなり始めています。こんなことを言えばペシミスティックに聞こえるかもしれませんが、冬至から半年の経過を思うと、この半年を無事に生きられたことに安堵しながらも、なにか寂しさを感じてしまいます。

 そんな低調な気持ちを吹っ飛ばしてくれるようなギンギラギンの夏を望んでもみますが、今年はエルニーニョ現象の影響で大雨・冷夏の予報が出ているようです。

 これからの夏、これからの半年に一体どのような物語が生まれるのでしょうか。

 

 さて、予科練平和記念館エントランスにはカメラが設置されているのですが、平成24年からカメラ上部に燕が巣を作り、雛が巣立つようになっています。このブログでも何度かご紹介しました。

 今年も燕が巣を作り、雛が生まれています。3期生、と言ったところでしょうか。

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 実は昨年の巣立ち後「翌年のために」と、空になった巣を大事に保存してきたのですが、人間の勝手な好意に反して燕は卵を産もうとしませんでした。

 そんなこんなで気を揉んでいたある嵐の翌日、巣が綺麗に取れているのを発見しました。風雨のいたずらか、あるいは悪戯小僧の愛嬌か、とにかくそれが吉となったのでした。

 今回の主役となったつがいはせっせと泥を積み重ね、あっと言う間に愛の巣を完成させました。

 その後しばらくして親鳥がご飯に行っているとき巣を覗いてみると、今年はまず4個の卵が産まれていました。昨年はやはり4個の卵から3羽の雛がかえりましたので、この燕はきっと同じ血筋だと思っていました。

 人が近づいても、雀がいたずらに来ても親鳥が絶対に動じない様子が6月始め頃に見られたので、覗く機会を待ち続けることある一瞬、親鳥が巣を離れた隙に覗いてみたら毛がない「ET(古い?)」のような雛が4羽眠っており、その後ろに新しく2個の卵が産まれていたのでした。

 眠っている雛は、茄子の丸漬けが小さい容器にきちんと収められている、まるでそんな趣でした。可愛いと言うより、生命力、野性味そのものを感じました。

 その時、親鳥の甲高い警告が鳴り響いていたのは言うまでもありません。ごめんなさい。

 その親鳥が頻繁に巣を離れ、餌を運んで来るようになったのが6月20日過ぎでしょうか。薄い黄色のくちばしが5個並んでいたので、今年は5羽がかえったのだと分かりました。写真の左奥に写っているのが5男坊です。

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 やはり、先に生まれた4羽より体が小さく、どうしても兄貴(姉?)たちに押しのけられてしまうようでした。

 生き延びられるか心配しましたが、今日になると随分逞しくなり、兄貴たちの背中に乗りかかって親から餌をもらっている様子を目にすることが出来ました。一安心です。

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 予科練平和記念館カメラでは燕の産卵は年に1度のようです。今年の吉例にならって、雛が巣立った後は綺麗にお掃除して、来年の新居建設に協力をしようかと考えています。

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 温泉好きの方はご存じだと思いますが、新潟県妙高山麓に「燕温泉」があります。妙高山頂(2,446m)が手の届く所に見える、しかし道半ばの標高約1,100mくらいにある閑静な温泉街です。場所によって若干の違いはありますが、白濁の硫黄泉で、疲労回復には効果てきめんの実にありがたい温泉です。

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 燕温泉という名の由来は、どうも燕が多いからのようですが、本当にスイスイと軽やかに舞っています。極楽に住む鳳凰は甘酒を飲んで身を美しく保つと言われますが、燕温泉の燕たちはよい温泉に浸かって、またちょっと一杯舐めながら美を保っているかのようです。

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 燕に恵まれた温泉が「燕温泉」であるなら、燕の故郷となった予科練平和記念館は何と名付けられるべきでしょう?「予科練燕」が誇りに思える愛称を考えていただけないでしょうか。

「海軍航空隊ものがたり」をご紹介します。

6月 12th, 2014

 梅雨に入りました。

 正月を迎え、新年を言祝いでから半年が経ってしまいました。日が長くなったと喜んでいたら、まもなく夏至を迎えるのですね。

 今年こそ充実しているような、なんとなく今年も過ぎて行っているような、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 

 さて、予科練平和記念館では「海軍航空隊ものがたり」を、3月末に上梓しました。

 これは「阿見と予科練」「続・阿見と予科練」に続く第3集になります。

 海軍航空隊ものがたり

 予科練平和記念館には歴史調査委員という近代阿見町の歴史を中心に調査・研究している先生方がいらっしゃいます。

 先生方のご成果は、あるときは展覧会に、またあるときはこうして本になり、余すところがないまるで茨城特産のアンコウのようなものです。

 予科練平和記念館職員もたいへんお世話になっています。

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 海軍航空隊ものがたりは8章から成り立っています。

 

「第1章 予科練」

・戦没予科練生の家族との便り

・特攻隊「回天」「桜花」「震洋」と予科練

 

「第2章 海軍飛行予備学生」

 

「第3章 霞ヶ浦海軍航空隊よもやま話」

例として、

・阿見町の零戦製造工場

・93式中間練習機の翼布塗料

 

「第4章 阿見町と聯合艦隊司令長官山本五十六元帥」

 

「第5章 阿見町の兵役と銃後の守り」

 

「第6章 予科練万葉集」

 

「第7章 元予科練生・予備学生インタビュー記録及び手記」

例として、

・伊藤進 氏(予科練第1期生)

・角田和男 氏(乙種5期・零戦パイロット)

・塩月昭義 氏(甲種13期・回天搭乗員)

 

「第8章 予科練平和記念館の歩み」

 

 概要も概要ですが、全体像は以上のようになります。

 

 人間には生死の別れという定めがあります。第7章でご紹介した伊藤進さん、角田和男さんも今は故人です。戦争があった時代を生き抜き、そして現代まで長く人生を歩んでこられた方々の言葉には、現代人が発し得ない重みがあります。

 私たちのような戦争を知らない、そして平和のありがたみも本当に分かっているのかどうか危ぶまれる人間たちには、本当に貴重な教訓をこの本から得ることが出来ます。

 

 一人でも多くの方に読んでいただくことを心より願っています。

 

 定価:3,500円

 販売:予科練平和記念館売店

    ※遠隔地にお住まいの方には、書籍代+郵送料、を現金書留でお送りいただくという方法もございます。

     詳細は予科練平和記念館まで。℡ 029-891-3344

防衛大臣がご来館になりました

5月 24th, 2014

 

 今年も花との出会いが早まっている、と先回のブログでも書きましたが、アヤメもまた然り、のようです。

 例年、6月には、こちら予科練平和記念館へ潮来のアヤメ祭を満喫された後にお立ち寄りくださるお客様が多くいらっしゃいます。他の花々の早熟ぶりに待ちきれずか、アヤメの成長も1週間ほど早いように聞きました。百花繚乱を締めくくる紫の花々も、今年は美しく咲き誇るように予想されています。

 梅雨入り前の爽快な空気にも包まれて、本当に生きているだけで喜ばしい季節です。

 

 さて、ご紹介が遅くなりましたが、今年の桜も落ち着いた4月16日(水)に、小野寺五典(おのでら・いつのり)防衛大臣が予科練平和記念館を視察されました。

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 当初、1月20日に予定されていましたが、自衛隊に事故が起きたこともあり延期となっていました。今年の冬はとりわけ寒かったですから、暖かくなった4月にお越しいただいたことで、この阿見町への印象もアップしたのではないかと思います。天の助けは日頃の行いがよかったおかげ、と考えておきましょう。

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 当日は、ご到着地の霞ヶ浦駐屯地に朝からものものしい警備が敷かれているのを見て、大臣が移動することはとても大変なことなのだと実感しました。

 そのようなご多忙の中、また警備も大変な中、予科練平和記念館を視察いただけたことはとても光栄なことと考えました。

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 当日は予科練平和記念館長をはじめ、阿見町職員がお迎えし、館内をご案内しました。

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 「予科練」は歴史の教科書にも掲載されていない事柄ですから、あるいは小野寺大臣におかれても、知悉されているとは言えなかったかもしれません。

 予科練平和記念館歴史調査委員でもいらっしゃる、元予科練甲飛14期生・戸張礼記氏がご案内に加わると、小野寺大臣もさらに傾聴してくださったように思われました。

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 現在の複雑な国際情勢においては、様々に難しい問題が存在し、単純に割り切ることが難しいことばかりなのだと思います。

 しかし、戦争があった方がよいのか否か、つまり「国と国とで人の殺し合いをした方がよいのかしない方がよいのか」という問いに対しては、何時でも何処でも簡単に答えが出せることでしょう。

 戦争を知らない世代に属する予科練平和記念館職員が職務に就く際肝に銘じているその事柄について、きっと小野寺防衛大臣にもご理解いただけたのではないかと考えています。

 館を離れる際に「ありがとうございました」と小野寺防衛大臣は言ってくださいましたが、その言葉の強さや目の輝きからも、予科練平和記念館が発信する平和へのメッセージを確かにお受け取りくださったと私たちは考えています。