幸い多き一年に。

1月 4th, 2012

 あけましておめでとうございます。

 本年も、どうぞ宜しくお願いいたします。

 

 本日4日より、予科練平和記念館は平常通りの開館を再開いたしました。これまでに賜りましたご愛顧を、本年も引き続き賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

 

 今日は風も穏やかで、光の暖かさを感じられる日和です。思えば冬至から約2週間が経とうとしています。どれだけ日が長くなっただろうと夕方注意していると、私にはやはり少し日が延びたように感じられます。写真のようにこの朝には未だ人影のないお隣の児童公園ですが、少し延びた昼間をすくい取ろうとばかり、夕暮れまで子どもたちが元気に遊んでいます。「早く帰ろうよ」というお母さんの声も空しい子供の元気さ。子どもは風の子、その姿を見ては明るい希望が常に開かれていることを私は感じます。

 

 ところで「今年はよいことがありますように」と、皆様も神仏にお願いしたでしょうか。今年の初詣で私はその言葉をふと思い出しました。

 よいことがありますように、良い年になりますように…、何があればあるいは起これば皆様にとって「よく」なるでしょうか。

 

 予科練平和記念館にとっては、やはり1人でも多くの方にご来館いただくことが「よいこと」になるでしょう。予科練の歴史、また戦争があったという歴史をよく知ることは、現在に幸せをもたらす大きな力になると言って間違いありません。

 ですから「1人でも多くの方にご来館いただけるように」私たち職員は現実的な課題を1つ1つ丁寧に解決していきたいと考えています。予科練平和記念館には「こうあってほしい」また、「このようなことをやってほしい」などのご要望がありましたら、当記念館ホームページ下段にある「お問い合わせ」からでも、またご来館いただいたときにアンケートでお知らせいただいても、あるいはまた直接職員にご意見を言っていただいても結構です。多くのご意見をお寄せ下さい。

 今年は辰年です。十二支に唯一入っている想像上の生き物「龍」の年です。様々な福をもたらす存在として中国で考え出され、日本にも定着してきました。

 難しく考えず、またのんきに「今年はたくさんよいことに恵まれる」と思い、この一年を走り出しませんか。

今年最後の開館日

12月 28th, 2011

みなさんこんにちは。

2011年も残すところあとわずかとなりましたね。

もう冬休みにはいってのんびりしていらっしゃる方、今日が仕事納めの方、

海外へ飛び立とうとなさっている方、さまざまいらっしゃると思います。

 

今日は今年最後の開館日ですが、風邪を引いて迎えてしまった学芸員Wです。

どうしてこんなに風邪を引きやすいのか・・・来年こそはもう少し

強くなりたいと思っています・・・実は毎年思っています・・・。

 

 

お昼過ぎに、浮世絵の波のような雲が浮んでいました。

これで千鳥でもいたら、着物の柄にでもなりそうな感じでした。

 

 

 

 

冬の日が落ちるのは早いもので、1時間後には夕日を受けて光っていました。

予科練平和記念館にとって、今年最後の一日が暮れていきます。

 

 

 

年末なので、収蔵庫の中も何日かかけてお掃除しました。

今日は、解説員Oさんがとってもきれいにお掃除中。

こざっぱりした収蔵庫の中で、心なしか資料も嬉しそうでした。

 

 

今年を振り返ると、未曾有の大災害によって多くのものが失われました。

地震の前と後では、まるっきり世界が変わってしまったかのようにも感じられます。

予科練平和記念館も、この地震で38日間の休館を余儀なくされました。

建物のあちこちに被害が出て、修復までにいろいろと大変なこともありました。

 

それでも、まだ再開することが難しい館があるなかで、予科練平和記念館は以前と同じように

全国からお客様をお迎えすることができます。

本当にありがたいことだと思います。

 

今日は最後の開館日だから、とおっしゃって、仙台にお住まいの元予科練生が

お疲れ様のお電話をくださいました。

こうして記念館を気遣ってくださる方がいらっしゃることも、本当にありがたいことです。

仙台は雪が降って寒いとのこと。

どうぞ暖かくして、よいお年をお迎えください。

 

今年一年、皆さんにとってどのような年だったでしょうか。

 

良かった方はそれが続きますように。

良くないと思われた方は、良くなる前には悪い膿がたくさんでることがあるそうです。

それが出きったら、きっと良くなります。

トンネルはいつか抜ける、と、私Wも信じております。

 

 

今年一年、予科練平和記念館をご支援くださいましてありがとうございました。

新しい年が良いものでありますよう、心から願っております。

 また新年にお会いしましょう!

 

予科練平和記念館年末年始休館

2011年12月29日(木)~2012年1月3日(火)

 

おおらかに生きる②「阿見上空の飛行機」

12月 22nd, 2011

 今年も師走を迎えました、と、このブログで書きましたが、はや年の瀬を迎えようとしています。「もう夏か」「もう秋か」と同じようなことを言い続け、そうなるだろうと思っていた通り「もう正月か」と言うことになりました。光陰矢の如し…。しかし時の経つのが早く感じられるのは、今成すべきことが多いという裏返しなのでしょう。その意味で「中年真っ盛り」の私は、積んできた経験を自身に、またお世話になってきた方々へ一所懸命に還元していることを、むしろホッとするべきなのだと考えています。そういう時を迎えられることが、ありふれたようでも、人生にとって最も大切なことかと中年の私は思います。

 

 とは言え、仕事に忙殺されていると心に余裕を持てなくなります。人間、パンのみにて生きるに非ず。日々温かい人情に触れ、また現在の冬景色からも美しさを感じ取り、平凡ながらも今生きていることに安心する、ひいては感謝する気持ちを持ちたいものです。

 

 私が予科練平和記念館に勤務していて癒されるものの1つに、上空を飛ぶ飛行機があります。

 

 

 阿見町には飛行機を管制する誘導塔があるためか、町上空を通過する飛行機の数が多いようです。もう少し南に位置する龍ヶ崎市あたりでは、成田空港への着陸態勢に入っている飛行機、離陸して間もない飛行機がそれこそ機影も大きく飛び交っており、まだ視力に恵まれている私には飛行機会社のマークさえよく見えるのですが、阿見町上空の飛行機はそこまで高度を下げてはいないようです。

 

 

 しかし、最近、当記念館の真上あたりを低空で旋回する飛行機が増えています。成田あるいは羽田への着陸待ちをしているのだろう、と私は見ていますが、そのときの機影はずいぶん大きく映ります。日本の会社で言えばJAL、ANAなどのロゴが私にはよく見えますし、会社名は知らない外国機も確認できます。

 

  

 

 飛行機っていいなぁ、と私は思ってしまいます。なんだか悠々としている。例えば地面を走ればここ阿見町から成田空港までもそれなりの時間がかかりますが、空の常識ではその距離などあってないようなものなのかもしれません。サッとどこにでも行けるとはこのようなことか、と飛行機を羨ましく思ってしまいます。事故が起きないよう様々な取り決めがあって飛ぶための空は狭くなっているのかもしれませんが、私のような素人は自由に空間を切り取って移動していくように見たがるのでしょうか。地にいて私は、大空に、飛行機に憧れます。

 

 

 

 飛行機を見ていると、自分が行ってみたい世界中の景色を自然と思い描き始めるのは私だけでしょうか。「日曜日には地図を見よ。そうすれば、旅する気持ちで日曜日が過ごせるよ」とイギリスの作家が書いていたのを思い出します。空と飛行機は、なんと大きな力を内蔵していることでしょうか。

 

 かつて大空に憧れて入隊した予科練生も多いと聞いています。自由に飛んで、思いのままに移動してみたい、とは、人間が誕生したときから心の奥底に潜む根本的な欲望なのかもしれません。

 

 空を飛ぶことは今日、平和を作り出すためにのみ利用されている手段ではありません。しかし、空飛ぶ飛行機を見て理屈なしに「ああ、いいなぁ」と思う気持ちを私は大切にしたいと思います。

 夢が膨らむ、とはこのような気持ちを表すのではないでしょうか。

龍の飛ぶ空

12月 10th, 2011

みなさんこんにちは。

やっと風邪から復活してきた学芸員Wです。

今年の風邪は頭痛がひどく、長引く傾向にあるそうですので、

みなさんも今夜の皆既月食を見る際にはどうぞお気をつけくださいね。

 

 

昨日、茨城県の水戸市では初雪が観測されました。

今朝も冷え込んで、外に出ているすべてのものにうっすらと霜がおりていました。

本格的に冬がきたことを一気に実感する寒さです。

 

 

今日は昨日とうってかわってきれいな青空でした。

館の前にある桜の木も、きれいに赤く染まった葉を散らして冬の姿になりつつあります。

 

 

 

晴れ上がった空に、龍のような姿をした長い雲がかかっていました。

 

 

写真で見るとなんとなく鮭の頭?のようでもありますが・・・

折角なので館も一緒に写真に納めようと欲張って、わかりにくい写真に

なってしまいました・・・。

館を正面に見て右に頭のようなところがあり、そこから細長い体が

空の対角線上のはるか向こうまでひゅるんと伸びていました。

ちょうど大きな龍が、館に向って飛んできているようなかっこうです。

 

来年は辰年・・・何かいいことがありそうな予感です。

 

 

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さて、今日は第4回所蔵資料展の会場の様子を少しご紹介したいと思います。

 

 

 

今回の展示では、兵役が終わったり、入隊した隊が解散したりと、

いろんな節目に記念品として作られた

明治や大正期の盃や徳利を130点ほど展示しています。

徴兵で入るのは陸軍が圧倒的に多かったので、展示してあるのも

陸軍関係の盃がメインです。

デザインがちがったり、歌が書かれていたりして、それぞれ趣向を凝らしたつくりに

なっています。

 

 

そういえば、今NHKで司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』のドラマが放送されていますね。

先週は、ちょうど日露戦争における旅順(りょじゅん)攻撃の激しい戦闘場面が

描かれていました。

 

堅固な守りの旅順要塞から攻撃するロシア軍に対して、総攻撃をかける日本軍は、

歩兵が味方の屍(しかばね)を超えながら突撃していくという感じで、

こうした歩兵は多くが徴兵で集められた一般の人たちだったんだな・・・と思うと

何ともいえない気持ちになって見ていました。

 

 

今展示してある盃は表面を上にして展示していますが、裏を返してみると、

高台(こうだい うつわの下にある台の部分です)などに

苗字が書かれているものが多くあります。

 

もしかしたらこの人も、遠い地で戦ったのかもしれない、とか

この盃はどういうめぐり合わせで予科練平和記念館が安住の地になったのだろうかと思うと、

何か不思議な感じがします。

 

 

そのまま見るだけでもいろんなデザインがあって面白いのですが、

もう一歩踏み込むと、きっともっといろんなことが見えてくると思います。

ご来館の折には、ぜひご覧になってみてくださいね。

 

 

第4回所蔵資料展『重キ務メヲナシオヘテ‐除隊記念品展』

平成23年11月29日(火)~平成24年3月25日(日)

9:00~17:00(入館は16:30まで)

予科練平和記念館20世紀ホール

常設展観覧料に含まれます。

大人500(400)円 小中高生300(240)円

※( )内は20名以上の団体及び割引提携カード提示時の料金

 

 

 

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余談ですが・・・

風邪で頭痛に打ちのめされてるあいだ、『困っている人』(大野更紗著)という本を読み返しました。

大学院生の時に突然原因のわからない難病を発症した大野更紗さんが

闘病の日々を綴った本ですが、

本当に大変な状況にあるけれど一日一日を時にとてつもない行動力をもって生きていて、

その毎日がひょうひょうとしたユーモアを交えて記されています。

うまく言えませんが、とにかく驚きの本です。

人の人生はどうなっていくのか本当にわからないけれど、どんな状況にあっても

前に進むことはできるんだって、勇気づけられます。

 

大野さんは最近、コピーライターの糸井重里さん(「となりのトトロ」でさつきとメイの

お父さんの声もしています)と対談をなさったようで、

その様子がウェブ上で公開されています。

 

「ほぼ日刊イトイ新聞」という、糸井重里さんが代表を務める会社が運営しているサイトで、

毎日に疲れた頭をちょっとリフレッシュすることができる記事がたくさん載っています。

 

ほぼ日刊イトイ新聞「健全な好奇心は病に負けない。」大野更紗×糸井重里

http://www.1101.com/komatteruhito/index.html

 

ぜひご覧になってみてくださいね。

 

 

もし、ここまで読んでくださったみなさんが、一年の終わりを目前にして

いろいろ悩んでいたら、こちらもお勧めです。

 ↓ ↓ ↓

ほぼ日刊イトイ新聞「大人の小論文教室」山田ズーニー

 http://www.1101.com/essay/

 

 

 

話は戻りまして、大野更紗さんは福島県のご出身で、ご実家は

東京電力福島第一原子力発電所の近くなのだそうです。

(著書の中では「ムーミン谷」と呼ばれています。「ムーミンパパ・ママ」や

「じっち・ばっぱ」がいて、子どもの頃のお茶うけは白砂糖だったそうです。)

 

東日本大震災から明日で9ヶ月です。

避難区域ぎりぎりにあるというムーミン谷は、今どうなっているのでしょうか。

たくさんのじっちさんやばっぱさんは、どうしているのでしょうか。

もし今日、記念館の上空にいた雲の龍が瑞兆であるなら、

ムーミン谷へも飛んでいってほしいと、非現実的ですが思ってしまいます。

 

 

公共の場でお目汚しながらも発言させていただいている私にできることの一つとして、

自分も含めて、震災について繰り返し思いいたすきっかけになるような記事を書く、

ということもあるのかなと思っております。

 

予科練平和記念館を身近に感じていただけるように紹介するブログ、という

本来の主旨からは外れてしまうのですが・・・

未熟で読みづらい文章だと思いますが、これからもどうぞお付き合いいただければ

嬉しいです。

 

おおらかに生きる①「岡崎様の場合」

12月 9th, 2011

 今年も師走を迎えました。

  私にとって今年のお正月は遠い過去のことですが、こうして12月を迎えてみると、やはりあっという間にこの1年が経過してしまったように感じられます。思い起こすと、3月の大地震ばかりでなく、身近な1つ1つの出来事にも心や体を磨り減らしたものですが、過ぎてみれば「あっという間の出来事だった」と思ってしまう、これはどういうことなのでしょうか。

 私は現在、まったくの楽天主義で生きていますので「昨日までを忘れ、明日を夢見るように神様仏様がそうしてくださっている」のだと考えています。

 

 その意味では、生きる上でたいへん勉強になることが最近ありました。

  予科練平和記念館では常設展示でも昔を知る方々の映像を流していますが、出来るだけ多くの方から昔を語っていただき、それを記録する事業を行っています。

 12月に入って早々、予科練元甲種13期生の岡崎圭一郎様をご訪問し、お話をうかがう機会を得ました。

 

  予科練平和記念館にご来館いただいた方にとって、実は身近な存在であるかもしれません。玄関を入り第1番目の展示室に入ろうとするとき、澄んだ目で日本刀の手入れをしている予科練生の写真があります。昭和19年初夏に写真家土門拳は岡崎様を大きく撮影していたのでした。

 

 

 

  私がこの写真撮影の様子を伺って驚いたのは、岡崎様の「いつ撮影されたのかも分からなかった」とのお言葉。遠くからズームレンズを使って撮影したわけではないはずなので、私には正直言って不思議な思いがしました。

 

 

 岡崎様は戦後復員されてから薬剤師の資格を取得され、現在も東京杉並区で薬局を開業されている現役バリバリの薬剤師でいらっしゃいます。頭脳明晰、足腰も丈夫、と83歳には到底見えない方です。

 私は初対面でしたから、まず岡崎様の穏やかな笑顔が印象的でした。また、お話を伺っていく中でいつも感じられる大らかな口調は、人を決して苛々させない魅力だと思いました。そして、岡崎様が「戦後病気らしい病気はしたことがないね」と述懐されたそのお元気さの秘訣についてお尋ねしたとき「私は特に何もしてないんだけれど」というお返事でした。そこで私が一歩粘ると「まあ、適度に運動して、夜の食事はあまり摂り過ぎないようにして、酒は赤ワインが好きかな。とにかく、くよくよ考えたりしないことだね。そうなったらそうなったで仕方がない、ってね」

 このお言葉を引き出せただけでも、私は務めを果たせたような気がしました。予科練生には優秀な人材が揃っていたわけですが、岡崎様は旧制足利中学のご出身で、復員された後国体のバレーボール選手にも名を連ねたことがおありになるという、例に漏れず優秀な方です。「そうなったらそうなったで仕方がない」という考え方は、一つ踏み誤ると自堕落になるばかりでしょうが、目的を持ち、また強い意志を持ち生きて行く方にとっては、まるで「不老長寿」の霊水のような存在かもしれません。

 

 約2時間半の短いお付き合いでしたが、土門拳に「いつ撮影されたのかも分からなかった」という岡崎様が、私にはたいへん羨ましく思えました。生来の性格は余人には決して真似できないものです。岡崎様のご性質は悟りの境地「達観」を生む、まさに貴重な才能と言えるのではないでしょうか。

 このようなことを言えば「いやぁ、そんな大袈裟なことじゃないよ」と岡崎様は笑っておっしゃることでしょう。しかし、些細なことに一喜一憂し、無駄に命を磨り減らしているような凡人には、岡崎様のような存在こそ慈悲の「仏」なのかもしれません。

 

 私は予科練生に多くの逸材が存在し、そして若くして命を失って行った事実を知るごとに、その方々には生き残って是非とも日本のために働いていただきたかった、と考えるのです。「記念館にはご無沙汰して申し訳ない」と岡崎様はおっしゃっていましたが、現在のご多忙なご生活を出来るだけ長く続けていただきたいと心から思います。そして、人間としての優れた有り様の1つを、多くの後輩に見せていただきたいと思います。

 かつて予科練に集った方々も「岡崎もっとやれ」と大応援しているのではないでしょうか。

所蔵資料展がはじまります

11月 27th, 2011

みなさんこんにちは。

来週の29日(火)からはじまる所蔵資料展の準備に追われている

学芸員Wです。

所蔵資料展は学芸員の手作りで行なっておりますので、不器用な私は作業が遅く、

来週のオープンまでに間に合うかどうか、かなりドキドキしています。

 

今回の展示は今までとちょっと違っていて、明治~大正期の

除隊記念品を中心に、当館で所蔵している旧日本陸軍の資料を皆さんに

ご覧いただこうと思っております。

 

 

明治の人たちが徴兵による兵役を無事終えた記念につくった盃です。

 

 

日清・日露戦争に勝ったことを記念して作られた徳利です。

こうした記念品約130点を展示する予定です。

 

 

日本が国の軍隊を持つようになったのは明治時代からのことです。

徴兵令が施行されたのが明治6(1873)年。

明治22(1889)年に施行された大日本帝国憲法には

20歳以上の男子の兵役義務が明文化されました。

 

江戸時代の徳川幕府による政治から天皇を中心とした中央集権体制へと変わり、

西洋文明を積極的に取り入れて世界の列強に並ぼうとした日本。

各藩の士族が中心だった国防は、徴兵制により広く一般国民がになうことになります。

それまでの士族による封建的な軍隊ではなく、近代的な軍を作り上げることを

目的としたためです。

 

農業や漁業、林業といった一次産業に従事する人が多かった

時代のことですので、

働き盛りの男手を軍隊に送ることは大変だったと思います。

 

無事に兵役を終えた人たちは、記念品を作って配る習慣があったようで、

「除隊記念」「満期祈念」などと書かれた盃がたくさん残っています。

 

このほかにも、隊が改編されるときの記念の盃や、戦地から帰ってきたときに

作られた盃などがあります。

いわゆる「兵隊盃」といわれている一群で、様々なデザインのものがあり、

コレクターも多いとか。

また、日露戦争の後はこうした盃や徳利などがたくさんつくられて、陶磁器の産地は

好景気にわいたそうです。

歴史はいろんな側面がありますね。

 

今の日本には徴兵制度がありませんが、こうした資料から、軍が身近にあった時代の

人たちのことを考えていただければ・・・と思っています。

 

あわせまして、当館で所蔵している陸軍関係の資料も展示する予定です。

海軍の予科練とはまた違ったことが見えてくる資料の数々、ぜひご覧ください。

 

 

第4回所蔵資料展「重キ務メヲナシオヘテー除隊記念品展」

11月29日(火)~平成24年3月25日(日)

9:00~17:00(入館は16:30まで)

予科練平和記念館20世紀ホール

予科練平和記念館常設展観覧チケットでご覧いただけます

大人500(400) 小中高生300(240)円

(  )内は20名以上の団体料金及び各種割引提携カード提示による割引料金

 

 

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さて、街はすっかりクリスマス仕様になっていますね。

予科練平和記念館の館内にもクリスマスがやってきました。

 

 

帆かけ船の隣にあるのもまた味があります。

布でつくられたツリーは解説員のOさんお手製で、丸みを帯びて

温かみがあってとってもかわいいです。

Oさん、今年も飾ってくれてありがとうございます!

 

ツリーはお手洗いの中にもありますので、ご来館の際にはぜひ寄ってみてくださいね。

 

 

今年最後の月に向けてだんだんと忙しくなってきましたが、季節の楽しみに目を向けて

気持ちだけでもわくわくしていきたいものです。

空気が乾燥して風邪がはやってきましたので、皆さんもどうぞお気をつけくださいね。

 

イベント報告・歴史調査委員講演会

11月 22nd, 2011

 秋も深まってきました。テレビで北国の雪を見るようにもなると、関東の暖かさがありがたく思えます。予科練平和記念館がある阿見町にも筑波山から冷たい風がやってきますが、積雪がないということは本当に恵まれていると断言できます。

 皆さん、元気に動き回りましょう。

 

 さて、去る11月20日(日)に予科練平和記念館歴史調査委員講演会「連合艦隊司令長官 山本五十六元帥が阿見町に残したもの」が開催されました。多数の方に来ていただくことができました。ありがとうございました。

 

 

 講師は井元潔氏に務めていただきましたが、以下に講演の概要をお伝えします。

 

 

◇山本五十六とは

※1884年(明治17年)旧長岡藩(新潟県長岡市を中心とする)の儒学者であった高野家に生まれる。

※1916年(大正5年)旧長岡藩家老山本家の養子となる。長岡精神(文武両道、質実剛健、常在戦場、米百俵)を堅持した。

※1919年(大正8年)から2年間アメリカに駐在しハーバード大学に留学するなどの経験もあり、アメリカのことをよく知っていた。

※1924年(大正13年)霞ヶ浦海軍航空隊副長兼教頭となる(階級は大佐)。航空戦力の重要性に早くから気付き、海軍航空戦力の育成と発展に尽くした。

※1925年(大正14年)アメリカ大使館付武官として任官。(霞ヶ浦海軍航空隊には約1年3ヶ月いたことになる)

※日独伊三国軍事同盟締結、すなわちアメリカとの戦いに生命を懸けて反対した。「…現在、世界を見渡して、飛行機と軍艦では日本が先頭にたっていると思うが、しかし、工業力の点だけは全く比較にならぬ。米国の科学水準と工業力を併せ考え、また、石油のことだけをとってみても、日本は絶対に米国と闘うべきではない。…」(太平洋戦争開戦の2ヶ月半前、長岡中学同窓会における講演)

※連合艦隊司令長官として太平洋戦争の海軍を指揮し、1943年(昭和18年)4月18日ブーゲンビル島上空で戦死。

 

◇山本五十六元帥が阿見町に残したもの

1[霞ヶ浦海軍航空隊副長時]大正13~14年

※土浦市全国花火競技大会の開始・霞ヶ浦海軍航空隊海軍航空殉職者供養塔の建立

 山本大佐(当時)は・規律の刷新・航空事故防止施策・航空殉職者慰霊に力を注いだ。神龍寺の隣接地に住んでいた山本大佐は住職の秋元梅峰和尚と懇意になり、和尚の助言などもあって殉職者慰霊のための花火大会などを実現した。

※霞ヶ浦神社建立

 山本大佐は訓練中の事故などによる殉職者を少なくすることに腐心し、また、殉職者の慰霊に努めた。(靖国神社に祀られない殉職者慰霊)

 

 

※霞月楼との交流

 山本大佐は賭け事や将棋など遊びが好きな一面をもっていた。お世話になった霞月楼(土浦市)の2代目堀越正雄・満寿子夫妻には太平洋戦争開戦前夜に手紙(「…最後の御奉公に精進致居」の文言がある)を送っている。

 

2[航空本部長時]昭和11年

※搭乗員選抜に手相骨相を導入(霞ヶ浦海軍航空隊)

 

3[戦死後]昭和18年~現在

※山本五十六全身像建立

 山本五十六全身像は昭和18年12月に土浦海軍航空隊本部前・号令台横に建立された。予科練とは直接関係しなかった山本五十六像が土空に建立された理由について、昭和天皇の義理の兄・久邇宮朝融王(くにのみやあさあきらおう)の意向が強く反映されているのではないか、と井元氏は考えている。(予科練を含む練習連合航空隊司令長官であり、山本五十六との親交も深かった久邇宮朝融王は現在の稲敷市大日苑から土浦海軍航空隊へ通っておられた)

 

 

※常在戦場碑建立

 山本五十六が昭和10年に郷里長岡にて揮毫した「常在戦場」の碑は、昭和19年に土浦海軍航空隊内にあった土浦神社に建立された。その後、転変を経て、昭和35年に山本五十六元帥像があった台座に移され現在に至っている。

 

 山本五十六も1人の人間であり、公私それぞれにおいて長所・短所ない交ぜになった生き様を見せたものかと思います。しかし、人の上に立つ者が必ずと言っていいほどに備えている「人、特に弱者を思いやる心」を持ち、「現実を冷静に把握・分析し、行動の方針を立てる」ことができた人間のように私には感じられます。そして「勇気をもっていた」ことは、軍人であろうとなかろうと難しいことであると考えると、やはり尊敬の念が湧いてくるのです。

 

 歴史上の大人物の1人が阿見町に足跡を残してくれていることは阿見町にとってたいへん幸運なことです。

 残された形には必ず人の心が付き添うものですが、よい形にはよい心が刷り込まれているものです。皆様も山本五十六元帥が残した遺産を目にすることがあったときは、その人の心に是非思いを馳せていただきたく思います。

  今後も予科練平和記念館では各種の講演会を開催していく予定です。どうぞまた、当記念館に足をお運び下さい。

アートなお散歩

11月 10th, 2011

みなさんこんにちは。

昨日からぐっと冷え込みましたね。

茨城県は朝晩の冷え込みが厳しいところだそうですが、

フリースのパジャマに守ってもらって、今のところ何とか乗り切れている学芸員Wです。

 

フリースを開発してくださった方、本当にありがとうございます!

今年の冬もお世話になります。

 

 

8日の立冬を過ぎて、暦の上ではもう冬になりました。

明日11日で、東日本大震災から8ヶ月目を迎えます。

いまだ不自由な生活を強いられている方、身近な人の行方がわからない方も

多くいらっしゃると思います。

 

冷たい風に吹かれると、ふと、忘れようとしていた何か恐ろしく不安な気持ちを

のぞきこむような思いをすることがありますが、

冬の訪れが早い被災地の方々の不安はいかばかりかと、胸が痛くなります。

放射能の影響で立ち入りができなかった福島の沿岸部で一斉捜索が始まったそうです。

風がもっともっと冷たくなる前に、一人でも多くご家族のもとへ戻れるように祈っております。

 

 

 

さて、今日の予科練平和記念館にはたくさんのお客様がお見えになりました。

事前にご予約をいただいていた10の団体様のほか、当日お見えになったところが3団体。

あわせて13団体様がご来館くださいました。

職員、解説員が皆フル回転でお客様をお迎えして、慌しく1日が過ぎていきました。

 

 

どちらのお客様のご来館も嬉しいものでしたが、

今日はいつもとちょっと違うお客様もお見えになりました。

 

 

元気がでるようなカラフルな色の「アートわんこ」たちです。

茨城県桜川市にある知的障がい者施設の方たちが作ったもので、

「元気なアートコラボラボ2012・桜川芸術祭vol.3 ~晴れどきどき、

お散歩アート~」の一環で行われたワークショップです。

 

 

 

わんこは思い思いの色に染められているだけでなく、花が描かれていたり

名前が書かれていたりして、

姿もそれぞれ、世界で1体だけのオリジナルなわんこです。

一人ではちょっと緊張してしまうようなところも、自分のわんこと一緒なら行けそうですね。

足の代わりに車輪がついていて、リードでひっぱるとほんとにお散歩をしているようです。

 

普段はモノトーンで統一されている予科練平和記念館の館内が、ぱっと明るくなりました。

わんこの明るい色もそうですが、いらしてくださった皆さんの元気のお陰かもしれません。

 

 

学芸員Wがご案内させていただきましたが、皆さん真剣に説明を聞いてくださいました。

私にとっても、色々と勉強になるひとときでした。

 

皆さんとわんこに会えて、今日はとてもいい一日になりました。

解説員も、皆さんがいらっしゃるのを楽しみにしていました。

記念館の中から見る空はとてもきれいなので、またぜひお散歩にいらしてくださいね。

 

こうしてすてきなアート活動のお手伝いをさせていただけて、

本当に嬉しかったです。

また、プロジェクト事務局のKさんは、以前大変お世話になった方で、

しばらくぶりでお会いすることができて、懐かしく、嬉しく思いました。

 

ワークショップの様子は、作品となって下記の日程で展示されるそうです。

このほかにもすてきな作品とたくさん出会えると思いますので、

お時間がありましたら、皆さんもぜひご覧になってみてくださいね。

 

 

「元気なアートコラボラボ2012・桜川芸術祭vol.3 ~晴れどきどき、

お散歩アート~」

平成24年1月17日(火)~22日(日)

茨城県つくば美術館 展示室B

チケット代:500円

 

 

アートディレクターの出町光識(でまち・みつのり)さんは、学生時代の先生が

予科練出身の方だったそうです。

今日は犬のぬいぐるみを背負って、とってもあたたかそうなかわいい帽子をかぶって

いらっしゃいました。

上にある集合写真の真中あたり、肌色の顔をしたわんこを持っている方です。

ちょっと写真が小さいですが、わかりますでしょうか。

 

ブログも読んでくださったそうで、本当にありがとうございます。

頑張って更新していきたいと思いますので、これからも宜しくお願いいたします。

出町さんのますますのご活躍を楽しみにしております。

 

出町光織さんのHP

http://www.mitsunoridemachi.com

 

 

 

また、今日は前回お伝えしました予科練1期生の伊藤進さんから

お手紙をちょうだいしました。

読むとくすっと笑ってしまう、ウィットに富んだお手紙でした。

その一部を、ブログを読んでくださっている皆さんに――

 

 

(お家がとってもきれいだったこと、スーツが似合っていらっしゃったとブログに書いたことに対して)

家内は京都女子大ですが多分掃除洗濯科卒でしょう。

(中略)私も毎日の様にお客様 メーカー 問屋さんの訪問客にお目にかかりますので

身奇麗は予科練時代からの躾です。

予科練(横須賀)、飛行練習生(土浦 今の武器学校)ではトイレ掃除は輪番でよくさせられました。

土浦の冬は寒かったですが掃除は上手でした。海軍の軍人上がりは掃除洗濯は皆上手です。

お酒より高価な水を使って洗濯するのですから(軍艦では)。

 

 

伊藤さんのお人柄が思い出されて、思わずほっこりしました。

伊藤さん、元気の出るお手紙をどうもありがとうございました!

 

インタビューの様子は、また次回ご紹介したいと思います。

楽しみにしてくださっていた方、申し訳ございません。

 

このブログは、学芸員Aと学芸員Wが週がわりで更新しています。

来週は学芸員Aが担当いたしますので、どうぞお楽しみに。

 

 

イベント報告・元予科練生のお話会

11月 8th, 2011

 文化の日、11月3日(木)に元予科練生のお話会を開催しました。

 

 講師は元予科練甲種13期生・池田龍雄様でした。池田様は現在も画家として日本の第一線でご活躍されています。 

 

 

 池田様のご略歴をご紹介します。

・1928年(昭和3年)8月15日、佐賀県伊万里市生まれ。

・1943年(昭和18年)海軍飛行予科練習生甲種13期生として鹿児島海軍航空隊に入隊。

・1945年(昭和20年)特攻隊として霞ヶ浦海軍航空隊にて訓練(九三式中間練習機「赤とんぼ」での特攻要員)

・17歳の誕生日に玉音放送を聞き終戦を迎える。佐賀へ帰郷。

・同年秋に佐賀師範学校入学。

・1946年(昭和21年)秋、マッカーサーの占領政策により師範学校追放となる(終戦時、1等飛行兵曹/下士官に昇任していたための処置)

・1948年(昭和23年)現在の多摩美大に入学。岡本太郎らの戦後アバンギャルド(前衛)芸術運動に参加。

・以後、個展、グループ展、美術館企画展を中心に活動。  

 

 以上、池田様のご略歴と言っても本当に略歴に過ぎないこれらの言葉からでさえ、池田様の波瀾に満ちた人生が感じられるようです。 

 池田様が予科練に入隊したのは当時の「尽忠報国」思想が当たり前に存在した世相の中で、ごく自然に「お国のため」という考えからのことだったそうです。

 予科練に入ってからは厳しい訓練、そして時として理不尽なしごき・罰直に耐えながらパイロットとしての道を進んで行かれたとのことでした。

 

 終戦直前の約4ヶ月は霞ヶ浦海軍航空隊で特攻訓練に明け暮れたそうです。岩国から移動してきた際の感想「霞ヶ浦飛行場は周囲を松に囲まれて非常に美しかった」というお言葉が印象的でした。夜間の訓練中には満月に近い月光を受けて聳える筑波山に心を奪われることもあったそうです。

 終戦間際の7月末には夜半に鹿島灘方面への特攻命令が出たものの、なんと夜光虫の誤認であることが分かり出撃中止。250キロ爆弾が赤とんぼに鎖で固定されるのを見ながら出撃前には特に悲壮感はなかったそうですが、爪と髪を封筒に形見として残すよう命令を受け「17年生きて残るのはこれだけか」という索漠とした思いを抱いたそうです。

 「お国のために」命をなげうつ覚悟で訓練を重ね、投げ出されるように終戦を迎え、情報も混乱する中で「これからどうしたらいいのだろう」という気持ちになったとのことです。しかし、故郷に帰る途中未だ焼け跡も生々しい広島の惨状を見た後、家に着いたときお母さんがただにっこりして迎えてくれたのを見たとき「やはり、生きていてよかった」と思ったそうです。

 その後は、若くして数々の試練に遭いながら画家を志し、岡本太郎ら超一流の芸術家と交わりながら、池田様は前衛絵画の道を邁進してこられました。

 ただ「昔から絵は上手だったけれど、絵描きになりたいと思っていたわけではないんです。それしか道がなかったからそうするしかなかった」また「軍国教育も上からの押しつけという側面がある。間違ったことからも逃れられないことがある。自分は誰にも指図されない、自由な生き方をしたいと思った」などの言葉から、私などの戦争の「せ」の字も知らない人間など計り知れないほどの悔しい思いをされ、またご苦労をされ、微動だにしない覚悟の元に生きてこられたのだと私は考えました。

 

 

 講演終了後、座談に入ってから「生きてきてよかった。人の死に方は様々だが、最もいけないことは殺されることだと思う」というお言葉がありました。「殺されるということは殺す人間も存在することであり、これもあってはならない」と言われました。人間の文化を普遍的に貫通する深く、重いお言葉だと思います。

 

 私など甘く甘く生きてきた者には、池田様のお言葉が生まれる人生体験をすることなどあり得ないことでしょう。ただただ「殺人をしない。人殺しをしなくて済む社会を作る」という現象を生真面目に作り出していくことだけです。

 

 池田様はもちろん、戦後復員された元予科練生の方々のご活躍を見聞するにつれ、予科練生には非常に優秀な方が揃っていたことが改めて分かります。そのような優れた方々が若くして命を落とした時代が確かにあったのです。このことを私たちはよくよく考えなければならないでしょう。

 

 もし、池田様の作品を見ることがあるときには、お話会当日のお元気なお姿を思い出しながら、色と形で作り上げられた絵というものから池田様が何を伝えようとされているのか、是非とも深く観照していただきたいと思います。池田様の人生から私たちが学ぶべきことはきっと多くあるでしょう。

 

 なお、講演の内容は御著書「蜻蛉の夢(海鳥社)」にも含まれています。

 

 

 また、池田様の個展も開催予定ですので、渋谷に行く機会がある方は、どうぞ足をお運び下さい。

 

イベント報告・レコード鑑賞会①

10月 27th, 2011

 今日はとても爽やかな風が吹き抜ける予科練平和記念館です。秋風、とこの秋初めて言ってもいいような、たいへん心地よい風が吹いています。この近くで言えば筑波山、少し足をのばせば大子、そして那須、塩原など、山々が紅に染まる様子を思い描ける朝の空気でした。気持ちいい。この言葉以外には何もいらない朝でした。美味しいご飯があれば他には何もいらない、というように。

 

 さて、過ぎる10月22日(土)にレコード鑑賞会を開催しました。

 

 

 

 夕方5時の閉館後、人の気配が館内から落ちて静かなホールに、懐かしい音楽が広がりました。

 

 今回ご紹介したのは7曲です。

「蘇州夜曲」    …映画「支那の夜」(昭和15年・1940年)の劇中歌。

「そよかぜ」     …昭和20年(1945年)10月10日、戦後にGHQ(連合国

                総司令部)の検閲を通り公開された第1号作品。「そよ

                          かぜ」は主題歌。

「リンゴの唄」   …映画「そよかぜ」の挿入歌。こちらの方が大ヒットしました。

「愛馬進軍歌」 …昭和14年(1939年)、平時・戦時を通した国民の馬事思想

                         普及のため、作詞・作曲が募集された歌。

「ヨカレン節」    …昭和19年(1944年)の作品。作曲者は、「決戦の大空へ」

                         「若鷲の歌」と同じ古関裕而。

「決戦の大空へ」

「若鷲の歌」

 

 

 最後の2曲は、予科練平和記念館の日常にも馴染みが深いものです。

 

 昭和18年(1943年)9月に封切られた映画「決戦の大空へ」の主題歌、挿入歌で、特に「若鷲の歌」は大ヒットし、予科練の代名詞とも言える存在になりました。映画は土浦海軍航空隊で撮影が行われ、予科練生も多数エキストラとして出演しました。この映画は当時の日本海軍が飛行機搭乗員を募集する目的で予科練によいイメージを持ってもらおうとした性格をもちます。

 「若鷲の歌」1番の歌詞をご紹介します。

 

 若い血潮の予科練の

 7つ釦(ボタン)は桜に錨(いかり)

 今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にや

 でっかい希望の雲が湧く

 

 私の母は筑波山の麓に生まれ育った戦前の女性ですが、子ども心に何も分からぬまま若鷲の歌を口ずさんでいたそうです。先日も昔覚えたそのままを私に歌って聞かせました。

 飛行機が落ちた、と聞けば友だちと走って見に行ったという終戦頃の生活もあったようです。

 

 このように、歌というものは水が土や岩に染み入るように人の心に刻まれるものなのでしょう。歌詞やメロディーとともに、そこには当時の生活風景も感情もともに織り込まれるのでしょう。

 

 現在のCDで聴く音楽とはまた別のよさがレコードにはあります。音のふくらみ、優しさ、針がレコード盤を引っ掻く音さえ心憎い演出とさえ感じられます。

 

 古いものは淘汰され消えゆくことが多くなっていますが、心の故郷を消す必要はどこにもありません。懐かしい音楽をどうぞ鑑賞に来ていただきたく思います。昔を思い出すことも、昔を想像することも心に元気を満たすことでしょう。

 

 次回は11月12日の土曜日、17時から開催予定です。

 皆様のご来館をお待ちしております。