みなさんこんにちは(*^-^*)
今日も厳しい暑さの予科練平和記念館です。
何日も雨が降っていないので、
館の周りの芝生が黄色っぽくなってきてしまいました。
夜に職員が水をまいたりしていますが、
なかなか連日の渇きを癒すことは難しいようです。
雨の神様、ここらでひとつみんなのために雨を降らせては
いただけませんでしょうか、と
空を眺めてお願いしてしまう毎日です。
さて、今日はとっても印象深いお客様がいらっしゃいました。
当館に展示してある、写真家土門拳が撮影した
予科練生の写真の被写体となった方です。
当館のエントランスホールから入って左側のロビー1には、
予科練生の制服であるつめ襟の七つボタンにちなんで、
土門拳の写真が7枚展示してあります。
そのなかでひときわ目立つ大きな写真には、七つボタンの白い制服を着た予科練の少年が
日本刀を手入れしている姿が写っています。
まだまなじりと頬のあたりにあどけなさを残した少年の表情と
無駄なく、すっとのびる日本刀の対比が印象的なこの写真、写っているのは
甲種第13期生の岡崎圭一郎さんです。
今日、この写真から66年後の岡崎さんがお見えになりました。
同期生から、お前の写真があるよと案内されてご来館くださったのだそうです。
白髪になられた岡崎さんにお写真をお願いすると
背広をきちんとお召しになり、背筋と腕をぴんっと伸ばして直立不動。
予科練時代に培われたすばやい動作はいまもご健在です。
面影がありますよね。
昭和3(1928)年生まれの岡崎さんは現在82歳。
栃木県の足利中学3年生、15歳のときに予科練を志願して、
昭和18(1943)年10月、甲種第13期生として土浦海軍航空隊(茨城県阿見町)に
入隊されました。
土門が撮影にやってきたのは昭和19(1944)年。岡崎さん16歳のときです。
この写真は、日曜日で外出から帰ってきたあと、
岡崎さん自身も知らない間に土門が撮っていたのだそうです。
手に持っている日本刀は入隊するときに自宅から持ってきたもので、
隊内では所持が認められていたとおっしゃっていました。
土門拳はどんな人だったんですか?とうかがってみました。
― 土門さんは弟子を連れてきていました。助手ですね。私と同じテーブルで
ご飯を食べていたんですよ。31分隊4班です。
・・・土門さんはまさに「写真の鬼」でした。同じことを何度も何度もやらされました。
疲れてきて、もう終わりになるかな・・・と思っても、自分が気に入る写真が撮れるまで
「もう一度」「もう一度」と何度もやらされました。
今、ご自分の予科練当時のお写真を見てどう思いますか?
― 若かったと思います。・・・でもあのころは純粋な気持ちで予科練に入ったんですよ。
ほんとうに、純粋な気持ちです。
岡崎さんは予科練を卒業後、鹿島海軍航空隊(茨城県美浦村)で飛行訓練を受けたのち、
山形の漆山派遣隊というところで特攻隊要員となり、訓練中に終戦を迎えました。
同期生は特攻で亡くなった方も多く、人間魚雷「回天」で最初に戦死した予科練生も
同じ甲種第13期生です。
復員した岡崎さんは中学校に戻り、卒業後は薬学の専門学校に入学して
薬剤師になりました。
東京の荻窪にお店を構えて、もう55年になるそうです。
現在も現役で、薬剤師の娘さんとお孫さんと一緒にお仕事をなさっているとのこと。
にこにことお薬を渡していただいたら、それだけですーっと
気持ちが軽くなるような穏やかな笑顔です。
なんと、昭和21年に行なわれた第1回目の国体(国民体育大会)では、
バレーボールの選手として出場なさったそうです。
ポジションはどこですか?とうかがうと、9人制で今とは違うけど・・・アタッカーです、と
教えてくださいました。
やっぱり予科練生は運動神経が抜群なんですね!
お話しをうかがいながら岡崎さんのお顔をじっと拝見したら、白いまつげが
あることに気づきました。
中国では、白いまつげは強運と幸運をもたらす証だそうです。
穏やかでとっても優しい岡崎さんが、いつまでもお元気でたくさんの方を治せる
お薬を調合してくださるように、きっとこのまつげが守ってくださると思います。
岡崎さん、いつまでもどうぞお元気で。
病気やけがに苦しむたくさんの方たちを治してくださいね。
本日はご来館いただけて、お会いできて本当に嬉しかったです。
展示解説員さんたちも喜んでおりました。
お忙しい毎日だと思いますが、紺屋の白袴とならぬよう
お体どうぞご自愛くださいね。
そしてまたぜひ、今度は同じ町会の同期生とご一緒に
お運びいただけたら嬉しいです。心よりお待ちしております。
実は館内にはもう一枚、岡崎さんが写っている写真があります。
みなさんもご来館の折には、66年後笑顔の優しい薬剤師になった少年を
ぜひ探してみてくださいね。