特別展「回天」へのいざない⑧

10月 14th, 2012

 特別展「回天」の会期は、残すところ2週間余りとなりました。酷暑とも言える今夏2ヶ月半の間にも、多くの方々にご来館いただくことが叶いました。まことにありがとうございます。

 この予科練平和記念館にも秋の涼風が吹き渡るようになっています。回天記念館からお借りした資料は11月に返還となりますので、霞ヶ浦湖畔の秋涼を求めがてら、こちら予科練平和記念館で1人でも多くの方に回天搭乗員の足跡を知っていただきたいと思います。

 今回は回天特攻の戦果について書きます。

 昭和19(1944)年11月から始まった回天特攻は、潜水艦搭載による延べ32回(菊水隊・金剛隊、千早隊・神武隊・多々良隊・天武隊・振武隊・轟隊・多聞隊・神州隊)第18号輸送艦による1回(白竜隊)そして日本の太平洋沿岸に設置された12の基地回天隊(96的の回天が配備され待機)とまとめることができるようです。もちろん、終戦時に大津島、光、平生、大神で訓練中の回天搭乗員もいました。

 回天特攻も敵艦への体当たり攻撃です。しかし、1つ1つの回天が体当たりに成功したか否かは判然としないところがあります。それは、先回のブログでも少し触れましたが、初回の「菊水隊」による給油艦「ミシシネワ」への体当たりが成功して以後、アメリカ軍が厳重な警戒網を敷き、また駆逐艦等による潜水艦への爆雷攻撃が激しさを増したこともあって、停泊艦攻撃・航行艦攻撃に関わらず、回天を発進させた母艦の潜水艦が現場に長く留まれないために、回天特攻の成功を最終的に確認できなかったことが最大の理由です。

 戦果についてはアメリカ軍と日本軍の発表で数が違います。日本軍の記録では成功数が多くなっていますが、爆発音を遠く離れた潜水艦内で感知すると成功例と数えている可能性があります。操作の難しかった回天が本来の目的を果たせず、海底や珊瑚礁など岩場に激突し爆発した数が相当数あったと考えるのが穏当ではないかと私は考えています。

 また、アメリカ軍の発表に関しても、回天による被害を少なく発表していた可能性があります。例えば、終戦直後にサザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦は太平洋にあと何隻残っているか」と尋ねたそうです。そして一刻も早い戦闘停止令の周知・徹底を求めたと言われます。回天特攻を恐れていたアメリカ軍が日本軍を力付けないために実数を減らしていた可能性があると共に、被害を受けた軍艦があってもそれが魚雷攻撃によるのか回天によるものなのか、また機雷接触かなど原因不明が多かったという点も考慮しなければなりません。

 とにかく「回天」はアメリカ軍にとって脅威的な兵器であったことは間違いないようです。高性能な酸素魚雷の利点を受け継ぎ、存在感を消して大量の爆薬を積んだまま海中を突き進んでくるとなれば脅威そのものだったでしょう。

 以下、明らかにされている事実を記していきます。

◆回天を積んだ潜水艦の撃沈数→8隻

◆撃沈された潜水艦に搭載されていた回天数→35的(回天搭乗員も35名)

◆回天搭乗員戦死者→106名(訓練中の殉職者含む)

◆回天特攻作戦による戦死者→約1,300名(潜水艦搭乗員、回天整備員等を含む)

◆回天搭乗員名と特攻の成功が確認できる例→多聞隊(イ53潜)・勝山淳中尉(茨城県・水戸中学・海軍兵学校出身、昭和20年7月24日戦死)→駆逐艦「アンダーヒル」撃沈

 

 アメリカ軍の発表に基づけば、回天による体当たりの成功は4例を数えるばかりです。そして、戦艦や空母への体当たり例は報告されていません。

 実際には、成功例はもっとあったのかもしれません。しかし、現在を生きる私たちは、二度と回天特攻を行う必要がない、戦争のない社会を継続させる知恵を働かせることに力を注がなければならないはずです。それは、国の将来を思い戦死された方々が真に望んだことだと思うのです。

捲土重来

10月 6th, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

風にキンモクセイの香りが混じるようになりましたね。

栗、さつまいも、柿、ぶどう、秋刀魚・・・秋のおいしいものが

どんどん食卓に登場してきています。

今年も残すところあと3ヶ月になりました。

そう考えるとちょっと焦る気持ちもありますが、一日一日を

大切に、楽しんですごしていきたいものですね。

 

さて、お知らせしておりました「まい・あみ・月夜」でしたが、

台風の影響で残念ながら中止になってしまいました。

ご予定をたてていただいた皆さん、大変申し訳ございませんでした。

いろんなところから「残念だったね」というお声をいただいており、

また、関係スタッフも不完全燃焼のカタマリを胸にかかえておりますので、

また違ったかたちでのイベントを考えていきたいと思います。

お楽しみになさっていただけたら嬉しいです。

 

今日は、当館で7月に講演してくださった熟田鶴江さんの回顧展にお邪魔しました。

モダンな幾何学模様が情緒的でビビットな色彩を使って描かれている絵がとても

印象的でした。

幾何学模様の中には湖や山、人が描かれており、金箔が散らされて、絵画でありながら

工芸的なおもしろさもありました。

静物画も素敵で、厚く塗られた絵の具が躍動感たっぷりに生き生きと花をかたちづくっており、

熟田さんの心の中にいるであろう、おおらかで活動的な少女を思い起こさせました。

 

回顧展は明日まで、JR土浦駅西口前のイトーヨーカ堂5階、茨城県南生涯学習センターで

開催しています。

お時間がございましたら、ぜひお運びくださいね。

 

 

今日は土浦全国花火競技大会です。

全国から花火師さんたちが集まって、自慢の花火を披露する大きな大会です。

熟田さんの回顧展に行くために土浦市内を通りましたが、たくさんの人たちが

楽しそうに歩いていました。

土浦市内を流れる桜川沿いには、屋台がずらっと出ていて、空には

飛行船が浮んでいました。

 

この土浦の花火大会、開催のきっかけは海軍に関係しています。

大正10(1921)年、旧日本海軍航空の中心地として阿見町にひらかれた

「霞ヶ浦海軍航空隊」において、訓練中に事故で亡くなる人が多かったことから、

土浦市にある神龍寺の住職さんが、慰霊のために霞ヶ浦湖畔で花火をあげたのが

はじまりとされています。

現在では、日本三大花火大会の一つになっているそうですね。

 

東日本大震災のあと、被災地でなくなった人たちを慰めるための

花火大会が催されましたが、なんとなくそれを思い出しました。

 

今はたくさんの人たちが楽しむイベントになっていますが、そういった歴史も

知っておくとまた違った視点で見えてくるかもしれませんね。

 

 

お昼過ぎから雲行きがあやしくなり、一時激しい雨が降って少し小雨になってきた頃、

元刑事の展示解説員Sさんが、

「今、とぉってもきれいな虹が出てるよ。しかも二重だよ」と

教えにきてくれました。

 

こっちのがよく見えるよ、と教えてくれたロビーから。

 

 

きれいな二重の虹が見えました。

「予科練生がねぇ、花火を見にきてるんだよ」とロマンティックなことを

おっしゃるデカ長。

きっと、そのとおりかもしれませんね。

 

もしかしたら、虹のアーチの下の記念館が撮影できるかも!と思い、

外に出てみました。

 

 

「何かいいことがあるかもしれませんね」と解説員Tさんがおっしゃるとおり、

なんだかわくわくする眺めでした。

 

みなさんにも二重の虹のパワーが届きますように。

きっといいことがありますよ!

 

特別展「回天」へのいざない⑦

10月 4th, 2012

 回天の出撃は昭和19(1944)年11月8日から始まりました。訓練開始から約2ヶ月後でした。イ36潜、イ37潜、イ47潜という大型潜水艦3隻にそれぞれ4的の回天が搭載され、計12的の回天が大津島基地から南太平洋を目指したのです。この初回の出撃は「菊水隊」と命名されています。

 

 当時のイ号潜水艦(全長100mを超える大型艦)は、日本と例えばアメリカ西海岸・カリフォルニア沖まで往復できるほどの航続距離をもっていました。ですから、回天特攻隊は瀬戸内の訓練基地(大津島、光など)から外洋へ出撃したのです。また、終戦間際になると、本土防衛のため日本の太平洋沿岸に設けられた基地回天隊において出撃待機をした場合もあります。

 「菊水隊」には、訓練中に殉職した黒木大尉の盟友・仁科中尉も名を連ねています。仁科中尉はウルシー環礁を目指したイ47潜に乗り込んでいました(イ36潜もウルシー環礁を、イ37潜はパラオ・コッスル水道を目指していました)。回天特攻が始まった当初は、停泊している敵艦を攻撃する「停泊艦攻撃」が作戦の主流でした。昭和19年11月頃には、サイパン・テニアン・グアムなどを含むマリアナ諸島、またその直前に「レイテ沖海戦」で有名なフィリピンでの戦闘にも日本軍は敗れフィリピンも陥落していました。アメリカ軍は沖縄などへ北上するため、マリアナ諸島とフィリピンを結ぶ線上に軍艦を停泊させていた状況でした。

 11月20日早朝、仁科中尉を含む回天5的がイ36・47潜から出撃しました。仁科中尉は、首に盟友・黒木大尉の遺骨が入った白木の小箱を提げ「後を頼みます。出発します」の言葉を残して潜水艦を離れたと伝えられます。

 午前5時47分とのことです。海上に大火柱が立ち上がりました。給油艦「ミシシネワ」に回天が突入したのでした。潜水艦内で起きたどよめきには喜びと悲しみが入り交じっていたと伝えられています。

 

 反対にアメリカ軍にとっては、まさに「青天の霹靂(へきれき)」とも言うべきことが起きたわけです。とにかく驚いたことでしょう。戦争の常ですが、回天特攻の成功によって命を落としたアメリカ軍兵士がいたわけです。その人たちにも家族がいたことを私たちは忘れてはなりません。

 この成功が幸だったか不幸だったか、とにかくそれ以後、アメリカ軍の監視は厳重になり、停泊艦への回天特攻は成功率が極端に低くなったようです。アメリカ軍にとっては当然の措置と言えるでしょう。

 また、同時に出撃したイ37潜はパラオ・コッスル水道で駆逐艦のソナー探知を受け、2隻の駆逐艦による爆雷攻撃を受けた果てに回天を搭載した母艦ごと爆発することとなりました。このように出撃を果たせず戦死した回天特攻隊員も多く数えることになります。

 潜水艦に搭載された回天がすべて出撃できたわけではありません。回天が故障した場合、敵の潜水艦に対する攻撃により回天が破損した場合、また作戦変更により呼び戻される場合、など戦場と日本の基地を何度か行き来した隊員もいました。

 しかし、決死の覚悟を決めて一度旅立つと日本に戻ることには大きな抵抗感が生まれたようです。日本の基地に待つ隊員の間にも何かしら「逃げてきた」というような不合理にして不人情な空気が醸されていたと言われます。この結果、進んで何度でも出撃する隊員が、つまり「早く死ななければならない」と悲壮な思いを抱く隊員が出ることにもなりました。

月夜のお知らせ 追加

9月 26th, 2012

みなさんこんにちは。

秋が深まり、さっそくフリースのお世話になりだした学芸員Wです。

ここ何日か、寒いと言ってしまいそうになるほど急に涼しくなりましたね。

急激な気温の変化で風邪をひいたりしていませんか?

あたたかいものがおいしく感じられるようになりましたので、

身体をあたためて、栄養をとって、今日も笑顔でいられるといいですね。

 

先日、家の近くの某ショッピングモールにて、

フラガールさんたちが踊っているのを拝見しました。

彼女たちのいる福島県いわき市は、震災の影響を大きく受けたところです。

震災後、激減してしまった観光客を呼び戻すために、

各地へ広報活動にでかけるフラガールさんたちを追ったドキュメントを拝見して、

それぞれ悩みを抱えながらも頑張っていらっしゃる姿に胸打たれました。

なんだかそういうことを思い出してぐっときてしまったのですが、

最後に映画「フラガール」の主題歌で踊っていらっしゃる姿を見て涙腺が崩壊しました。 

 

ハワイ出身日系5世のミュージシャン、ジェイク・シマブクロさん作曲のこの主題歌、

私Wも大好きで、辛いときにはよく聴いています。

 

星の見えない夜には 夢見るのさ 目を閉じて

名もないような花が 命をふるわせて 咲いている

 

という歌詞があるのですが、まさにフラガールさんたちをあらわしているようで

心動かされますし、とても美しい生き方だなと思います。

同時に、ちっぽけな自分は咲けているだろうか、といつも考えます。

 

 

さて、前回私Wが更新したブログでもお知らせいたしましたが、

今週末30日の日曜日に「まい・あみ・月夜」というイベントを開催します。

 

中秋の名月のこの日、竹あかりとキャンドルイルミネーションのもと、

予科練平和記念館でお月見を楽しみませんか?

 

館内では、昭和7(1932)年製の卓上蓄音機でクラシックのレコードを鑑賞したり、

普段はお客様が見ることのない照明を落とした夜の博物館を

ペンライトで探検するツアー「くらやみ博物館」を開催します。

 

今回のレコード鑑賞会では、名月にちなんで、ドビュッシー作曲「月の光」などを

お送りしたいと思っています。

「月の光」といえば、登山家ハインリッヒ・ハラーと、

少年時代のダライ・ラマとの交流を描いた映画「セブンイヤーズインチベット」のなかで、

ダライ・ラマがハラーにプレゼントしたオルゴールの曲が、この「月の光」でした。

ダライ・ラマは、みなさんよくご存知のチベット仏教の最高指導者です。

 

オーストリア出身の登山家ハラーは、第二次世界大戦中、仲間とヒマラヤ登山中に

イギリス軍の捕虜になりますが、脱獄してチベットにたどり着きます。

当時オーストリアはドイツに併合されていたので、イギリスの敵とみなされたのです。

そこで出会った少年ダライ・ラマとの交流は、暗い時代に差した一筋の光のように

ハラーを照らします。

チベットはその後、軍事侵攻してきた中国共産党により独立を失ってしまい、

ハラーとダライ・ラマの運命も大きく変わっていきます。

 

「月の光」のはかなくもやさしげな旋律は、1890(明治23)年、

ドビュッシー28歳のときに作曲されたものです。

若きドビュッシーが抱いた人妻への恋心から生まれたとも言われており、

天才詩人アルチュール・ランボーと破滅的な恋に落ちた詩人、

ポール・ヴェルレーヌの影響を受けているとも言われています。

 

さまざまなドラマを感じさせるこの「月の光」。今回は第一次世界大戦前後に

活躍したピアニスト、パーシー・グレインジャーの演奏でお聴きいただきます。

 

会場は照明をつけず、ソーラーキャンドルライトの明かりのみで、

大きな窓からは外の竹あかりとキャンドルがご覧いただけます。

午後6時からと6時半から、20分ずつ2回公演がありますので、

ご来場の際お時間がございましたら、ふらっとお立ち寄りくださいね。

 

 

昨日は「くらやみ博物館」の準備のため、館内に置いておく

ソーラーキャンドルライトの充電をしました。

光で充電して、暗くなるとろうそくのあかりのような

小さな光がゆらゆらゆれながらあたりを照らしてくれます。

 

ご飯の日光を求めて、台車に乗って館内をうろうろ。

 

 

暗くなってから点けてみました。

・・・正直こわいです。

ひと足お先にハロウィンがきた感じです。

ゆらゆらゆらめく光が、逆にこわさを演出しています。

試しにペンライトを持って歩いてみましたが、一人ということもあって

普段眠りっぱなしの危険を察知するアンテナみたいなもののスイッチが

いっせいにONになったような感覚になりました。

しかも、この暗さで午後6時前です。

「くらやみ博物館」が始まるのは午後7時10分から。

ご参加をご検討中のみなさま、どうぞ心してお越しください。

驚かすことはありませんが、途中でどこかふしぎなところに迷い込まれませんように・・・。

夜の博物館は、学芸員でも知らないことがたくさんあるのです・・・。

 

 

さて、今回の「まい・あみ・月夜」をIBS茨城放送さんが取り上げてくださいました。

9/24(月)、午後の「スマイル・スマイル」という番組の中の

「ここが気になる!」というコーナーで、

パーソナリティの木村さおりさんが紹介してくださいました。

 

木村さんは予科練平和記念館に何度かお越しくださっていて、

以前も同じコーナーで当館をご紹介くださったことがありました。

ご本人はとても気さくな美しい方で、私は最初にお会いした時から大ファンです。

声も優しくて聴きやすいので、番組を楽しみになさっている方も多いのでは、と思います。

当日もぜひご来場いただけたらうれしいです。

 

 IBS茨城放送

http://www.ibs-radio.com/?act=Program&program_no=108

 

 

また、9月26日(水)発行の情報誌「ezpress.」10月号でもご紹介いただいて

おりますので、こちらもぜひご覧ください。

月刊ezpress.

http://ezpress-ideal.com/

 

 

当日は雨天決行です。もし雨が降ってしまったときでもキャンドルは点灯する予定です。

館内イベントは行いますので、ぜひご参加ください。

みなさんのご来場をお待ちしております。

 

 

「まい・あみ・月夜」

9月30日(日)17:30~20:00

予科練平和記念館敷地内 全無料

 

【館外】

竹あかりとキャンドルイルミネーション

琴の生演奏 17:30~・19:00~

お団子とお茶の無料配布(午後5時半から 先着200名様)

 

【館内】

小さなお子様にうさぎのバルーンアートプレゼント 17:30~19:00  エントランスホール

蓄音機で聴くクラシック 18:00~・18:30~ 各回約20分  ラウンジ

くらやみ博物館 19:10~19:50 ※受付にて先着20名様整理券配布  館内展示室

 

※ご注意

館内でのご飲食はご遠慮いただいております。

お車でご来場のお客様は、館前の駐車場をご利用下さい。

満車になりましたら臨時駐車場へご案内させていただくこともございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月夜のお知らせ

9月 14th, 2012

みなさんこんにちは。

まだまだ残暑厳しいですね。

出張で炎天下の東京をうろうろしていたら

熱中症になりかけた学芸員Wです。

日中の暑さが続いていますので、みなさんもどうぞ

ご自愛下さいね。

  

記念館は今日も暑い一日でした。

夏の空のように、もくもくした雲がたくさんでていました。

 

さて、今月30日(日)は中秋の名月で、満月です。

みなさんのお宅でも、お月見をなさいますか?

ともすればお月見団子のほうに気をとられがちですが、私Wも

毎年この季節を楽しみにしています。

 

実は、予科練平和記念館からもとってもきれいな月が見えます。

そこで!今年は阿見町の商工観光課、観光協会とコラボして

中秋の名月にあわせたイベントを開催します。

詳細は館のHPや、再来週、私Wの更新するブログでお知らせしたいと思いますが、

本日は少しだけ、アウトラインをご紹介させていただきます。

 

 お月見のイベント「まい・あみ・月夜」

日時 :9月30日(日) 17:30~20:00

場所 :予科練平和記念館及び館まわりの芝生広場

参加 :無料

 

館の周りでは、竹でつくった「竹あかり」とキャンドルのやわらかな光が

みなさまをお迎えします。

琴の生演奏もあります。

ゆっくりのんびり、夜のお散歩をしながらあかりと名月を楽しみませんか。

 

館内では、1932年製の蓄音機で、昭和のはじめごろに録音された

クラシックのレコードを鑑賞する会や、

普段はお客様が目にすることのない真っ暗闇の夜の記念館を、

ペンライト一つで探検する会を企画しています。

 

当日は先着200名様にお月見団子とお茶を無料でお配りしますので、

こちらもお見逃しなく!

 

 

館のまわりのこことか

 

こことかが、すてきな空間に大変身する予定です。

 

竹あかりは、こんな感じです。

 

かぐや姫のお部屋に置いてありそうですよね。

ほのかなあかりのゆらめきは、人が心地よいと感じる

1/fのゆらぎのリズムなんだそうです。

さらに、ろうそくからはマイナスイオンも放出されているのだとか。

9月30日は予科練平和記念館が癒しの庭になりそうです。

 

 

同じ9月30日(日)には、以前予科練平和記念館で美声を聞かせて

くださった元茨城放送アナウンサーの藤田加奈子さんが、

牛久市のギャラリー牛久(牛久市南2-7-60)で朗読会を開かれます。

当館の売店でも扱っています絵本「ニワトリおばけ」の朗読もありますので、

こちらもぜひチェックしてみてくださいね。

 

  

さらに、同じ9月30日から10月7日(日)まで、土浦駅前のイトーヨーカ堂

土浦店で、熟田鶴江さんの絵の回顧展が行われます。

鶴江さんは、今年7月14日(土)に、講演会「昭和ガールズトーク」で、予科練生との

初恋のお話を聞かせてくださいました。

米寿を過ぎてもなおお若い感性をお持ちの鶴江さんの、初の大規模

回顧展とのことで、とても楽しみです。

お時間がございましたら、皆さんもぜひ足を運んでみてください。

鶴江さんがいらっしゃることもあると思いますので、昔のお話も

聞けるかもしれません。

 

 

芸術の秋、スポーツの秋、読書の秋、旅行の秋・・・。

秋は楽しみが多いだけではなくて、成長する機会もたくさん与えてくれます。

みなさんにとって、実り多いすてきな秋になりますように。

 

 

特別展「回天」へのいざない⑥

9月 14th, 2012

 回天の訓練は国内の4基地で行われました。

◇大津島基地(山口県周南市)

 1944(昭和19)年9月開隊・訓練開始。

◇光基地(山口県光市)

 1944(昭和19)年11月開隊・12月訓練開始。

◇平生基地(山口県熊毛郡平生町)

 1945(昭和20)年3月開隊・4月訓練開始。

◇大神基地(大分県速見郡日出町)

 1945(昭和20)年4月開隊・5月訓練開始。

 回天はこれらの基地から、イ号潜水艦という全長100メートルを超える大型潜水艦(日本の潜水艦は大きさ順にイ、ロ、ハと区別される)などの甲板に2的から6的(回天は○隻ではなく、的〈てき〉と数えた)搭載され外洋に出撃する場合が1つありました。

 また1つは、日本国内の太平洋沿岸に本土防衛のための基地回天隊が設置され、それらの基地から直接出撃する場合がありました。

 今回は、元搭乗員の手記をご紹介し、訓練の様子を知っていただきたいと思います。

小林秀雄氏(故人。大正10〈1921〉年生。大津島、光、平生基地を歴任後、第23突撃隊浦戸基地〈高知県〉にて終戦を迎える)

■訓練はどんなものだったのでしょうか。

 まず、座学による訓練があります。座ってテーブルで指導官の話を聞くわけですね。機械の構造がこうなっている、とか。しかし実際には乗らなきゃ分かりませんから、その兵器の置いてある調整場というんですが、そこへ行って自分なりに勉強するわけです。

 それから観測訓練です。特眼鏡(潜望鏡)で見る訓練、船の形を見て、戦艦だとか巡洋艦だとかを覚えたり、それから船がどのくらいの速さでどっちを向いて走ってくるのか、方位角が何度だとか、そういう観測の訓練がありました。

 地上で実際の兵器を動かしての訓練は私たちの時はできませんでしたから、第1回の搭乗訓練の時は、のっけから自分で動かしました。

 実地の一番最初は航法ですね。ただ簡単なところを回って帰ってくる。次は狭水道通過法といって、非常に狭いところをどうやって通るかということ。それが次には目標艦に突撃する、ぶつかる訓練ということになります。そういうことを何回もやって積み上げていくわけですね。

 一般的にはこの訓練は黎明薄暮やります。朝早くか夕刻暗くなってからですね。従って搭乗員は朝早い人は3時半くらいから起きて準備をして出てゆきます。で、乗った人の研究会というのが夜ありますから、そこで経験者の話を聞くわけです。

■基地での生活を教えてください。

 一般的には朝6時に起きまして、体操をして食事をして、それから普通の課業が始まります。それでだいたい4時くらいまで、一定の課程があります。今日は航海についての話があるとか、水雷の発射について講話があるとかですね。で、4時ごろから課外の授業ということで、主に搭乗員を集めて運動をします。例えば、ラグビーをするとか、棒倒しをするとかですね。

 じゃあ5時以降、夜はどうかというと、自由のときは私は碁を相当やってました。ただ外出はできませんでした。そういう生活でしたね。

 

        (回天記念館図録より抜粋)

 去る8月26日に、やはり回天搭乗員であった塩月昭義様(元甲飛13期生・奈良空。光、大神基地を歴任後、第21突撃隊麦ケ浦基地〈愛媛県〉にて終戦を迎える)を講師にお迎えして講演会を開催しましたが、次回の9月30日には訓練内容の詳細について体験した方ならではのお話をうかがう予定です。

 ご関心のある方はどうぞご来場下さい。

おじいちゃんに聞こう!

9月 1st, 2012

みなさんこんにちは。

現在、水戸芸術館で行われている

「水戸岡鋭治の鉄道デザイン展 駅弁から新幹線まで」を見て、

鉄道の魅力に目覚めそうな学芸員Wです。

 

水戸岡さんは、JR九州新幹線「つばめ」や「ソニック」、特急「ゆふいんの森」などの

デザインを手掛けたことでも知られるデザイナーさんで、

世界最高の鉄道デザイン賞「ブルネル賞」を4度受賞なさっているそうです。

すごいですね!!

鉄道以外にも、駅舎、バスから家具まで、その仕事は幅広く、使う人のことを考えた

あたたかで心地よい空間デザインが魅力です。

 

 

「心地よい空間を作れば、人間はリラックスして、楽しくなり、笑顔になり、

一言しゃべりたくなり、歌いたくなる。そういう空間を作ることが、デザインの

仕事だと思います。(中略)豊かな対話というものは、精神的にも肉体的にも

心地よい環境でなければ、なかなか実現しません。そのために、素材、色、形、

使い勝手のすべてをデザインしなければなりません。それらがすべてそろったときに、

おのずと心地よさが生まれて、豊かな気持ち、対話が生まれると思います。」

(「メカライフな人々№24 (株)ドーンデザイン研究所代表 水戸岡鋭治氏」 

『日本機械学会誌』2010.3 Vol.113より抜粋)

 

 

水戸岡さんのこの言葉を理屈抜きに実感できる展示で、デザインのおもしろさ、

奥深さを改めて感じました。

また、空間の大切さということも再認識しました。

予科練平和記念館が扱うような、歴史的でありながらとても個人的な資料を

展示するうえでも、空間は大切な要素だと思っています。

その資料が持つ意味をどうやったらうまく伝えることができるのか。

資料にとっても見てくださる方にとってもいい空間はどんなものなのか。

いろいろと考えることができた今回の展示でした。

 

あそべるしかけも考えられていて、展示室内でスタンプラリーが楽しめたり、

室内を走っているミニトレインに乗ると、係のおねえさんが手を振ってくれたりします。

車内の売店が再現されている展示室では、実際にものを買ったり食べたりすることも

できます。

私がうかがったときには、5~6名のお母様方が、ジュースを飲みながら

お話の花をたくさん咲かせていらっしゃいました。

 

「水戸岡鋭治の鉄道デザイン」展は、今月30日まで開催していますので、

みなさんもどうぞ足を運んでみてくださいね。

 

水戸芸術館

http://arttowermito.or.jp/gallery/gallery02.html?id=330

 

 

さて、今日から9月。

8月半ば過ぎからは夏の終わりのさみしさを感じていましたが、

9月に入ったとたん秋への期待が強まってきました。

残暑の厳しさは変わらないのですが不思議なものです。

 

今夏、予科練平和記念館では初の試みとして、8月11日(土)と25日(土)の二日間、

夏休み中のお子さんを対象としたイベント

「ものしりおじいちゃんに聞こう!阿見の昔のはなし」を開催しました。

 

当館のブレーン、歴史調査委員さんたちが、お客様からの質問に

直接お答えするというものです。

 

 

一見、企業説明会のように見えますが、

夏休みの宿題を持ったお子さんがお話を一生懸命に聞いています。

戦争のこと、空襲のこと、戦争中の暮らしのこと。

いろんな質問をしています。

 

 

 

時にはマンツーマンでお話をします。

町内の小学生が町の歴史などを調べる「まちづくり探検隊」の隊員さんたちも

来てくれて、熱心に質問をしていました。

 

 

 

お子さん以外の方も。

ワイワイお話をするなかから新たな発見も出てきます。

 

 

 

今回お話をしてくださった歴史調査委員さんたちは、町で発行した図書『阿見と予科練』

『続・阿見と予科練』を執筆なさっており、町の歴史や戦時の歴史にとてもお詳しい方々です。

メンバーには元予科練生もいらっしゃいますので、ご参加くださったみなさんには、

普段の講演会などでは聞けないお話も聞いていただけたのではないでしょうか。

 

調査委員さんたちは、毎週水曜日に記念館に集まってお仕事をなさっています。

今回参加できなかったけど知りたいことがある、というみなさん。

よろしければ水曜日にお越しください。

4名のものしりおじいちゃんたちがいろいろと教えてくださいますよ!

現地調査ででかけていることもありますので、事前にお電話でお問い合わせ

いただくと確実です。

 

 

 

 

 

特別展「回天」へのいざない⑤

8月 30th, 2012

 「回天」の発案者、黒木博司大尉は大津島回天基地での訓練開始2日目に殉職します。

 それは、昭和19年(1944)9月6日でした。その日は午後に入ると風がたいへん強くなり、ふだんは穏やかな瀬戸内の海に白波が立つばかりでなくうねりさえ大きくなったと記録されています。

 海の状態を危険と判断した指揮官によって訓練中止が決められたものの、黒木大尉は再考を強く求めたようです。盟友とも言える仁科中尉から「今日はやめた方がいいでしょう」という進言があったそうですが「天候が悪いからといって敵は待ってくれない」と訓練続行を黒木大尉は望み、ついには17時40分に樋口大尉が操縦する回天に同乗し訓練に出ました。

 訓練時には見張りをする船が付きましたが、この時の訓練に付いた2隻は遭難した回天を発見することが出来なかったそうです。その後、捜索隊が編成されましたが、黒木・樋口両大尉が乗った回天が発見されたのは翌朝9時のことだったと伝えられます。前日の様子が嘘のような、いつもの穏やかな海に戻っていたそうです。

 訓練コースをやや北に外れた水深約15メートルの海底で、先端から約3分の1ほど泥をかぶり海底に突き刺さった状態で回天は発見されました。引き上げられハッチが開かれたとき、取り乱した様子もなく2人は息を引き取っていたということです。

 両大尉は、酸素が尽き絶命する間際まで手帳に事故原因などを書き記していました。

 今回の特別展でも黒木大尉の手帳のレプリカを展示していますが、これからその内容を抜粋してご紹介します。

【黒木大尉】

「十九年九月六日 回天第一号海底突入事故報告」

・当日一八時一二分(中略)海底に突入せり。

・調深五メートルに対して実深二メートル、前後傾斜は二~三度、時には四~五度となりしことあり。

→実深2メートルの位置にいたとき深度計を5メートルに設定したため回天が急に先頭を下に向ける形で海底に突っ込んでしまったということ。

・五分間隔に主空気一分間放気(中略)気泡を大ならしむ。

→事故等があったとき回天から空気を放出して泡を出し、位置を知らせること。この日は大時化だったため捜索隊が気泡を発見できなかった。

・一九時四〇頃「スクリュー」音二を聞く。前者は直上にて停止せるものの如し。但し爾後遂に何等の影響なし。

・(中略)最初の実験者として多少の成果を得つつも、充分に後継者に伝ふることを得ずして殉職するは、不忠申訳なく、慚愧に耐へざる次第に候。

・仁科中尉に 万事小官の後事に関し、武人として恥なき様頼み候。

・(中略)父上、母上、兄上、妹御達者に。

・呼吸苦しく思考やや不明瞭、手足ややしびれたり。〇四(時)〇〇(分)死を決す。心身爽快なり。心より樋口大尉と万歳を三唱す。

・〇六〇〇、猶二人生存す。相約し行を共にす。万歳。

【樋口大尉】

指揮官に報告。予定の如く航走、一八・一三潜入時、突如傾斜DOWN二〇度となり、海底に沈座す。その状況、推定原因、処置等は、同乗指揮官黒木大尉の記せる通りなり。事故のため訓練に支障を来し、まことに申訳なき次第なり。後輩諸君に、犠牲を踏み越えて突進せよ。

七日〇四〇五。呼吸困難なり。訓練中事故を起こしたるは、戦場に散るべき我々の最も遺憾とするところなり。しかれども犠牲を乗り越えてこそ、発展あり、進歩あり。我々の失敗せし原因を探求し、帝国を護るこの種兵器の発展の基を得んことを。周密なる計画、大胆なる実施。

〇四三五、呼吸著く困難なり。

〇四四〇、生即死。

〇四四五、国歌斉唱す。

〇六〇〇、猶二人生く。行を共にせん。

〇六一〇、万歳(壁書)。

  回天の操縦はとても難しかったと聞いています。回天の生みの親とも言える黒木大尉が訓練開始早々に殉職したことはその一端をうかがわせるでしょう。

 黒木大尉、樋口大尉の無念さはその遺書と言える手帳の内容からもうかがえます。

 この殉職を契機に、仁科中尉を中心として、むしろ結束して訓練に励んだと伝えられています。

終戦記念日

8月 15th, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

今日は67回目の終戦記念日です。

いろいろな方がそれぞれの思いで過していらっしゃるとおもいます。

穏やかな一日になりますように、お祈りしています。

 

予科練平和記念館は本日無料でご覧いただけます。

展示をご覧になって、普段は意識することが少ない“戦争”というものに、

改めて思いを馳せてみませんか。

 

 

 

近くのハス田には、ハスの花がきれいに咲いています。

 

 

グリーンとピンクと白の色合いがなんともやさしく涼しげで、すてきです。

 

 

さて、予科練平和記念館に学芸員実習の大学生がきてくれています。

学芸員の資格を取るために必要な実習で、実際に学芸員の仕事を手伝って

実地的なノウハウを学ぶものです。

 

ほこりをかぶった状態で寄贈された軸をクリーニングしています。

とても一生懸命話を聞いてくださって、お仕事も丁寧なので、

大変助かっています。

ブログを更新するのもお仕事の一つということで、今日は彼女に参加していただきました。

 

 

はじめまして。学芸員実習のために、一週間予科練平和記念館にお世話になっています。

右も左も分からないありさまですが、学芸員の方々や職員の方々には、非常に多くのことを教えていただきました。毎日が初めて知ること、体験することの連続で、大変勉強になっています。

実習期間もあと少しとなりましたが、最後まで真剣に取り組み、一つでも多くのことを学んで帰りたいと思います。

 

 

実習は残念ながら今日までとなってしまい、寂しい限りです。

浅学の私Wがお伝えできることはわずかですが、少しでも

学芸員という仕事の責任や奥深さを感じていただけたら嬉しいなと思っております。

 

実は彼女に教えてもらったことで、とても印象に残ったことがあります。

彼女の大学は東京九段の靖国神社の近くにあるそうですが、毎年この時期になると、

神社で年配の方がじっとうつむいて座っているのをよく見かけるそうです。

 

その方はどのような思いでそこにいらっしゃるのか。

私のようなものには、その方の深い思いを推し量る術はありません。

けれども、そういう方がいらっしゃることを、心のどこかにきちんと留めておかねばならないと、

この話を聞いたときに思いました。

 

 

最近、昭和な装丁に惹かれて買った松下幸之助著『道をひらく』という本に

こんな言葉を見つけました。

 

ながい一生のうちに 人はいくたびか

自分の将来を左右する岐路に

血のにじむ思いで 立たねばならない

ながい歴史のうちに 国もまた いくたびか

みずからの行くすえを鋭く見きわめるべき

意義深い時期に みまわれるー

 

あなたはいま 何をもとめて日々努力し

日本はいま 何をめざして進んでいるのだろうか

ともに育ち ともに暮らしているこの国を愛し

日本人自身のすぐれた素質を大切に思うならば

政治家も経営者も 勤労者も家庭の主婦も

おたがい 他にのみ依存する安易な心をすてて

みずからが果たすべき責任にきびしく取り組もう

この国日本の 百年の計をあやまらないために

 

 

松下幸之助さんは、みなさんがよくご存知のパナソニックグループ

(旧松下電器産業)の創始者です。

私が生まれる前に書かれた本ですが、まるで今の日本の状況を

見ているかのような言葉だと思い、驚きました。

 

先の大戦から67年。

東日本大地震から2回目のお盆です。

 

この時期になるといろいろ考えることがあるのは、天国から懐かしい方々が帰っていらして、

何かささやいてくださっているからかもしれませんね。

みなさんは、今日をどのようにお過ごしになりますか?

 

特別展「回天」へのいざない④

8月 9th, 2012

 今回は、「回天」が誕生したあらすじをお話したいと思います。

 日本海軍は、太平洋戦争においても艦隊決戦、つまり軍艦がある距離を置いて船団を形成し、敵艦を攻撃・沈没させようとする形の戦いが起きると予想していたようです。

 そのため、射程約40キロメートルを誇る大砲9門を備えた大和、武蔵などの巨大戦艦も建造しました。

 同時に、日本海軍は酸素魚雷(九三式魚雷)を開発していました。これは水中を高速で進み航続距離が長く、しかも燃料として酸素を用いるために排気ガスが水蒸気となり海水に吸収されて無航跡となる優れた魚雷でした。

 しかし、太平洋戦争では航空機が主力兵器となったため、日本海軍が想定していた艦隊決戦は起きませんでした。つまり、大和、武蔵がいくら大砲を放ってもその遙か遠くから航空機が飛来し、軍艦を攻撃する時代に変わっていたのでした。そのため大和、武蔵が華やかに活躍できなかったのと同様、酸素魚雷も武器庫に多くが眠ったままだったのです。

 一方、真珠湾攻撃が行われた約半年後、ミッドウェー海戦で日本海軍は敗れ戦局が悪化し始めます。その後、山本五十六大将が戦死した昭和18年には、アッツ島、ガダルカナル島などの拠点から日本軍は撤退を余儀なくされ、翌昭和19年2月には南太平洋の重要基地であったトラック島が攻撃されて、基地に集められていた航空機がほぼ壊滅するという事態に陥りました。

 戦うための航空機が数少なくなった日本海軍は、航空機以外の武器に目を向けるほかなかったと言えるでしょう。

 昭和18年当時、呉海軍工廠魚雷実験部(P基地)で特殊潜行艇(甲標的)の訓練・改良、及び新兵器の開発に努めていた黒木博司大尉、仁科関夫中尉(階級は戦没時のもの)は、こうした状況下で酸素魚雷に人間が乗り込む「人間魚雷」の開発に考えが進んでいったと思われます。

 

 回天には脱出装置が付けられていません。これは隊員が生還する可能性をもたない作戦や兵器は認めない伝統をもつ日本海軍にとって容認できない武器でした。しかし、トラック島攻撃以降の情勢を受け、開発上の難点でもあった脱出装置を付けないままに回天は開発されることとなったのです。

 「回天」とは、天を回(めぐ)らす、つまり運勢を変える・形成を逆転させる、などの意味をもちます。約1.5トンもの炸薬を積み込む回天が体当たりに成功すれば、航空機を満載した空母も真っ二つになるほどの威力を見せたに違いありません。追い込まれた日本海軍も期待を寄せたことでしょう。

 しかし、私は黒木大尉、仁科中尉が回天の成功で日本がアメリカに勝利できると考えていたようには思えません。

 例えば、回天には「菊水紋」が描かれます。この菊水紋は、南北朝時代の武将・楠木正成が用いていた紋です。楠木正成は後醍醐天皇に味方し、武家政権を目指して反目した足利尊氏と最後に湊川(現在の神戸市)で戦うこととなります。九州から攻め上る足利尊氏の大軍に対して勝ち目のない戦いを楠木正成は挑み、敗れて自害します。自害の際、「七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」と語ったと伝えられます。これは「七生報国」と表される精神ですが、この精神は菊水紋とともに回天特攻隊員に引き継がれました。

 この他、イタリアが日本・ドイツを裏切る形で早期に連合国に降伏することを黒木大尉が予想していたなど、残された記録を読んでも、回天は敵になんとか一矢報いたい、日本人の誇りを守るために戦う武器だったように私には思えるのです。