特別展「回天」の会期は、残すところ2週間余りとなりました。酷暑とも言える今夏2ヶ月半の間にも、多くの方々にご来館いただくことが叶いました。まことにありがとうございます。
この予科練平和記念館にも秋の涼風が吹き渡るようになっています。回天記念館からお借りした資料は11月に返還となりますので、霞ヶ浦湖畔の秋涼を求めがてら、こちら予科練平和記念館で1人でも多くの方に回天搭乗員の足跡を知っていただきたいと思います。
今回は回天特攻の戦果について書きます。
昭和19(1944)年11月から始まった回天特攻は、潜水艦搭載による延べ32回(菊水隊・金剛隊、千早隊・神武隊・多々良隊・天武隊・振武隊・轟隊・多聞隊・神州隊)第18号輸送艦による1回(白竜隊)そして日本の太平洋沿岸に設置された12の基地回天隊(96的の回天が配備され待機)とまとめることができるようです。もちろん、終戦時に大津島、光、平生、大神で訓練中の回天搭乗員もいました。
回天特攻も敵艦への体当たり攻撃です。しかし、1つ1つの回天が体当たりに成功したか否かは判然としないところがあります。それは、先回のブログでも少し触れましたが、初回の「菊水隊」による給油艦「ミシシネワ」への体当たりが成功して以後、アメリカ軍が厳重な警戒網を敷き、また駆逐艦等による潜水艦への爆雷攻撃が激しさを増したこともあって、停泊艦攻撃・航行艦攻撃に関わらず、回天を発進させた母艦の潜水艦が現場に長く留まれないために、回天特攻の成功を最終的に確認できなかったことが最大の理由です。
戦果についてはアメリカ軍と日本軍の発表で数が違います。日本軍の記録では成功数が多くなっていますが、爆発音を遠く離れた潜水艦内で感知すると成功例と数えている可能性があります。操作の難しかった回天が本来の目的を果たせず、海底や珊瑚礁など岩場に激突し爆発した数が相当数あったと考えるのが穏当ではないかと私は考えています。
また、アメリカ軍の発表に関しても、回天による被害を少なく発表していた可能性があります。例えば、終戦直後にサザーランド参謀長が「回天搭載の潜水艦は太平洋にあと何隻残っているか」と尋ねたそうです。そして一刻も早い戦闘停止令の周知・徹底を求めたと言われます。回天特攻を恐れていたアメリカ軍が日本軍を力付けないために実数を減らしていた可能性があると共に、被害を受けた軍艦があってもそれが魚雷攻撃によるのか回天によるものなのか、また機雷接触かなど原因不明が多かったという点も考慮しなければなりません。
とにかく「回天」はアメリカ軍にとって脅威的な兵器であったことは間違いないようです。高性能な酸素魚雷の利点を受け継ぎ、存在感を消して大量の爆薬を積んだまま海中を突き進んでくるとなれば脅威そのものだったでしょう。
以下、明らかにされている事実を記していきます。
◆回天を積んだ潜水艦の撃沈数→8隻
◆撃沈された潜水艦に搭載されていた回天数→35的(回天搭乗員も35名)
◆回天搭乗員戦死者→106名(訓練中の殉職者含む)
◆回天特攻作戦による戦死者→約1,300名(潜水艦搭乗員、回天整備員等を含む)
◆回天搭乗員名と特攻の成功が確認できる例→多聞隊(イ53潜)・勝山淳中尉(茨城県・水戸中学・海軍兵学校出身、昭和20年7月24日戦死)→駆逐艦「アンダーヒル」撃沈
アメリカ軍の発表に基づけば、回天による体当たりの成功は4例を数えるばかりです。そして、戦艦や空母への体当たり例は報告されていません。
実際には、成功例はもっとあったのかもしれません。しかし、現在を生きる私たちは、二度と回天特攻を行う必要がない、戦争のない社会を継続させる知恵を働かせることに力を注がなければならないはずです。それは、国の将来を思い戦死された方々が真に望んだことだと思うのです。