企画展「甲飛14期生」①

1月 12th, 2013

 新年を迎えてから、はや10日が経ちました。七草粥を皆さん食べたでしょうか。鏡開きしたお餅を美味しくいただけたでしょうか。

 何と言っても健康が一番だと思います。皆様の今年一年のご多幸をお祈りいたします。

 

 さて、予科練平和記念館では昨秋より引き続き、3月31までの会期で企画展「甲飛14期生~特攻が始まった年の入隊者たち~」を開催しています。これから数回にわたり、展覧会の内容をご紹介していきます。

 甲飛14期生は昭和19年(1944年)4月以降10次に渡って入隊された方々で、予科練史上最高の4万1千人超を数えました。10月にフィリピンが陥落する際、初めて零戦による特別攻撃が始められた年であり、同年11月からは人間魚雷「回天」による特攻も始まりました。

 前年の18年には戦略上の要衝であったアッツ島、ガダルカナル島からの撤退があり、日本の敗戦が事実上秒読みに入る時代にあたります。戦死者も多数に上りました。

 このように、昭和19年は敗戦の影が日毎に濃くなりながら、未だに日本が徹底的に抗戦しようとしていたときと言えるでしょう。

 昭和19年の予科練入隊者は、甲飛14期の他甲飛15期約3万6千名、乙飛22期約1万2千名、同23期約1万3千名、同24期約1万2千名、特別乙飛6期~10期約2千4百人であり、総計約11万6千人にも上るわけです。

 戦局悪化といいながら、全国から優秀な人材がこれだけ集められたということにたいへん驚きます。

 しかも、昭和19年には飛行機の残存数、燃料不足の点からも、飛行機搭乗員としての訓練はできないことが分かっていた上で予科練生は募集されたわけで、後世に生きる者としては憤りを禁じ得ないやり方でした。

 甲飛14期生の進路は多岐に渡ります。一つ一つの事例をご紹介しながら、優秀な人材が集った予科練の翻弄された実態を通して、戦争がない社会作りのヒントを得ていきたいと考えています。

 

横田正大 氏(甲飛14期・整備兵)

 

 昭和19(1944)年6月、新設間もない愛知県碧海郡矢作村の岡崎海軍航空隊に入隊する前日、多数の同期と大阪から夜行列車にゆられて岡崎へ。期待と不安が交錯した複雑な気持ちは何ともいえない。

(中略)

 毎日の教課は少しずつ整備教育に重点がおかれ、エンジンの分解結合を何回もくり返しているうちに前期教育も終了間近になったある日、整備教育成果のテストが格納庫の片隅で実施された。

(中略)

 昭和19(1944)年12月、岡崎海軍航空隊をあとに不安と希望をもって都城海軍航空隊に転属となった。基地につくとわれわれの所属する部隊はフィリピンに転任したあとで、やむをえず関係の兵舎に配属となり「彗星」艦爆の整備にはげんだ。年があけて昭和20年2月初旬、また部隊移動で都城から串良基地(鹿児島)に出発した。

 4月以降、予科練出身者が飛行服の内に七ツ釦の軍服をつけ特攻隊として出撃する姿を何回も見送った。出撃機の中にはエンジンの調子が悪く帰還すると昼夜をとわず整備する整備員の努力は大変なもので、搭乗員との心のつながりを感じるのはこんなときである。

 9気筒エンジンからはじまり、18気筒複列エンジンの整備まで体験したが、予科練に入って空飛ぶ夢は実現できなかったが、整備員として戦力の1つの源となったことに誇りを思っている。

 昭和20年以降、沖縄に向け集結し、2日目には夜間攻撃にて飛び立つ特攻機も全国から串良基地を出撃する隊が多くなり、整備員は昼夜の別なく友軍機と掩体壕内で整備した。

(中略)

 昭和20年7月、整備部隊は転任で観音寺航空隊へ移動した。ここは練習航空隊で、練習機が列線に並んでいる。空襲が激しいので近くの小学校の講堂を宿舎にし町からはずれた道路にそって迷彩した建物(格納庫)に2機づつくらい待避させており、整備員はそれを巡回して整備していく。

 やがて昭和20年8月15日、天皇陛下の放送があるから集合という伝令が各格納庫にあり、作業を中止して宿舎の小学校に集まった。翌日から飛んでくる「グラマン」も低空できては、わが方に手を振っている姿を見たり、まわりの状況から戦争に負けたことがはっきりしてきた。(「月刊豫科練」から抜粋)

新年来たりなば

1月 5th, 2013

2013年、新しい年がはじまりました。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

新年最初の週末、いかがお過ごしでしょうか。

 

私Wは、元予科練生の方々から年賀状をいただいて

年のはじめから一人で嬉しくなっています。

伝説の予科練一期生、伊藤進さんの年賀状には、

数えで今年100歳になられることが記されていました。

本当に本当におめでとうございます!!

伊藤さんファンの私としては広くお知らせしたいと思い、

新年最初のブログでご紹介させていただきました。

ますますのご健勝とご活躍をお祈りいたしております。

 

 

昨日4日から、予科練平和記念館も通常通り開館しています。

今日も気温が低くてとっても寒いですが、午前中はよいお天気でした。

 

 

館の前の桜は、小さな芽をつけて空に向ってぐんぐん伸びているような感じがします。

 

 

「冬来たりなば 春遠からじ」

日本のことわざだと思っておりましたが、実はイギリスのロマン派詩人

パーシー・ビッシュ・シェリーという人の詩の一節なんですね。

(奥さんのメアリー・シェリーは、あの「フランケンシュタイン」の作者です。

どんなご夫婦だったんでしょうか・・・)

同じイギリスには「夜明け前が一番暗い」、日本には「夜まさに明けなんとして益々暗し」

ということわざがあるそうです。

 

そうであるならば、今年の日本は朝日がのぼって夜が明けるかもしれませんね。

美しい朝焼けが見られるかもしれません。

 

「希望」は与えられるのを待つものではなく、苦しくても自らの内に自ら

育てるものだと思います。

今辛いことも多いけれども、その分大きな幸せを抱えることができる力を

蓄えているんだ、と思って、へっぽこな私も

今年一年頑張っていきたいと思います。

 

 

館内からも澄んだ青空が見えます。

 

みなさんの一年が、この青空のように澄みきって、どこまでも行けそうな

わくわくした日々になりますよう、心からお祈りしております。

 

 

さて、新年早々お知らせがあります。

去年末に予科練平和記念館で調査協力、資料提供した

テレビ番組が放送されます。

NHK総合テレビで放送中の「ファミリーヒストリー」という、毎回様々な方の

家族のルーツをたどっていく番組で、みなさんもご覧になったことが

あるかもしれませんね。

1月中に放送される①俳優・歌手の髙橋克典さん、②(株)ローソン代表取締役社長の

新浪剛史さんのルーツを取材した回に、当館も協力しています。

 

①1月7日(月)22:00~22:50 NHK総合

「ファミリーヒストリー 高橋克典~特攻を覚悟した父・絶望の中で音楽と出会う~」

 

歌手・俳優の高橋克典の父は、戦時中、特攻隊で死を覚悟した。

ある偶然で死を免れるが、多くの仲間を失った。戦後にはその記憶に悩み、

16歳で酒に溺れた。絶望の中で音楽と出会い、横浜の市立高校で音楽教師となる。

なかなか生徒たちの気持ちをつかむことができない中で起きた一つの事件。それがきっかけで、

生徒たちから慕われるようになる。

さらに、満州・柳条湖事件後のリットン調査団。家族との深い関係が明らかになる。

(NHK ファミリーヒストリー HPより)

 

 

髙橋克典さんの父、勝司さんは、1944(昭和19)年に

甲種第14期予科練生としてここ土浦海軍航空隊に入隊しますが、

1945(昭和20)年に入って戦局が末期的な様相を呈し、

6月1日付けで予科練の訓練は中止されてしまいます。

 

練習生たちは水上・水中特攻部隊に配属されたり、土木作業や松根油作りに

従事したりと、さまざまにわかれていきました。

土浦海軍航空隊ではグライダー特攻の訓練を行う予定でしたが、

6月10日にB-29による大規模な空襲をうけて壊滅的な被害を被ったため、

急きょ秋田県合川町(現北秋田市)の国民学校(現合川東小学校)を兵舎として、

甲14期生の一部がグライダーの訓練を行うことになりました。

 

髙橋勝司さんも、この秋田基地でグライダーの訓練を受けたお一人です。

予科練平和記念館には、この時の練習生が班ごとに写っている記念写真があります。

これは、髙橋さんと同じく秋田基地で訓練をなさっていた方が寄贈してくださったもので、

戦後、この時の仲間で集まったときに、当時の上司が持っていたこの班ごとの写真を

焼き増ししてくれたものだそうです。

 

番組内でもこの写真が出てくると思いますので、ぜひご覧になってみてください。

授業や訓練を受けている様子の写真も、記念館が提供しています。

また、もしカットされていなかったら、よれよれに疲れた私Wもちょこっと映るかもしれません。

 

 

②1月28日(月)22:00~22:50 NHK総合

「ファミリーヒストリー 新浪剛史 編」

 

みなさんも日頃お世話になっているでしょうか。

コンビニ「ローソン」の代表取締役社長さんです。

この方のご親族にも予科練生がいました。

前述の髙橋勝司さんと同じ甲14期生ですが、空襲で戦友を亡くしてしまいます。

自分の身代わりのようにして戦友を亡くしてしまったことを、とても悔いていたそうです。

戦友の名前は、空襲で犠牲になった方の慰霊塔に刻まれていました。

 髙橋さんの回と同じように、訓練や授業風景の写真を提供しています。

 

どちらの回も、きっと見ごたえのあるものだと思いますので、

お時間があいましたら、ぜひご覧ください。

 

NHK ファミリーヒストリー

http://www.nhk.or.jp/program/famihis/

 

 

 

2012年最後の開館日

12月 28th, 2012

みなさんこんばんは。

学芸員Wです。

今日は今年最後の開館日。

展示解説員Tさんが、予科練1期生の3時間にも及ぶインタビューの

文字起こしを完了したことが今日のハイライトでした。

 

最後のお客様をお見送りして、2012年の業務も無事に終了です。

展示解説員のみなさんも笑顔で帰宅していきました。

ひとり、またひとりと年末のご挨拶を交わしてお別れするのは

なんとなくさみしくなるものです。

ひとりぼっちの事務室でブログを更新しながら、

今年一年も早かったなー・・・と考えています。

 

  

さて、今日の新聞等でご覧になった方がいらっしゃったら嬉しいのですが、

先日、アメリカから旧日本兵のものと思われる日章旗が寄贈されました。

 

 

天田町長(左)と寄贈者の竹田さん(右)です。

 

はるばるアメリカからこの日章旗を持ってきてくださった竹田さんは、

30年以上前にアメリカに渡り、ノースカロライナ州で子どもたちの教育に

長年携わっていらっしゃいます。

 

事の発端は去年の夏。

竹田さんの娘さんが、東日本大震災のチャリティー絵画展を開いたところ、

会場を訪れたアメリカ人の女性から、この日章旗を手渡されたそうです。

「この旗はおじが戦時中から大切に保管してきたものです。日本の旗だから、

日本人のあなたにお返しします。」

とおっしゃり、詳しいことは語らないまま竹田さんの娘さんに渡したそうです。

旗はしばらく娘さんのところにありましたが、今年の夏、竹田さんがニューヨークに

住む娘さんを訪ねたところ、

「パパ、ケリーさん(旗を渡してくださった女性)のためにできる限りのことをしてあげて!!」

と、この旗を頼まれたそうです。

竹田さんはその場で、旗を持って日本に帰国することを決意なさいました。

 

この時のことを、メールで私に教えてくださいました。

 

「私が思うことは、ケリーさんは悲惨きわまる大震災の様子をテレビのニュースで見ながら

心を動かされて、このような善意と哀れみに満ちた決断に至ったのだと思います。

それにしても彼女のこの好意は、日米両国を結ぶ親善の賜物です!

かつては敵同士で戦った国の人々が世代を超えて心を分かち合えることは、

真の国際親善であり、これほど尊いものはありません。

私はその親善の橋渡しの役目を授かったことに、大きな喜びを感じております。」

 

 

70年近くもアメリカで保管されていた旗を日本に返すため、

竹田さんは、日本の友人に相談したり、行政機関や博物館など

さまざまなところに国際電話をかけて調査をなさいました。

その最中に当館をお知りになったそうです。

 

11月の初旬だったと思うのですが、ちょうどファーストコールを受けたのが私Wでした。

竹田さんの熱心なお話をうかがい、旗に墨書された「岡崎航空隊」には

予科練生がたくさん入隊しているという縁もあることから、受け入れを決め、

準備を進めてまいりました。

 

竹田さんはクリスマスにあわせて帰国。

 日米両国をつなぐこの日章旗はまさに「ギフト」だから、といって、

クリスマス期間中の12月26日に寄贈してくださいました。

 

 

寄せ書きされた日章旗というのは、通常、入隊や出征時に

親しい人が寄せ書きをして贈ることが多いので、

旗には贈られる人の名前が書かれているものが一般的です。

でも、竹田さんがお持ちになった日章旗には人名らしきものが書かれておらず、

かわりに 「武運長久」や「岡崎航空隊」などのほか、「ワシントン」「ハワイ」

「グアム」「名古屋」「レイテー(レイテ?)」「オールマーク(オルモック?レイテ島にある

湾の名前です)」などの地名が墨書されている、という大変珍しいものです。

 

 

 

戦時中から旗を保管していたという方と直接連絡することができないため、

どのようにして所持するにいたったかの詳細がまだわかりませんが、

竹田さんの娘さんに旗を渡してくださったケリーさんが、持ち主だったおじさんに

聞き取り調査をして知らせてくださることになっています。

 

この旗がどのようなドラマを持っているのか、これから明らかになる

事実を心待ちにしているところです。

 

また、旗を所持していたアメリカの方は、元の持ち主を探しているそうです。

どんな小さなことでもかまいませんので、何かお心当たりがある方は

予科練平和記念館(029-891-3344)までお知らせください。

よろしくお願い申し上げます。

 

 

2012年も残すところあと3日。

みなさんにとってどのような1年だったでしょうか。

 

前述の竹田さんは、娘さんのチャリティ絵画展で得られた寄付金を持って

宮城県石巻市の大川小学校を訪ねたそうです。

北上川沿いに建っている大川小学校は、東日本大震災時に

川をさかのぼってきた津波によって大きな被害を受け、

全校児童の7割が死亡・行方不明になったところです。

 

被災地の復旧、復興にはまだまだ課題が山積しているなか、

被災地以外のところでは、早くも大震災の記憶が過去のものになりつつあると聞きます。

竹田さんは、被災地のこと、そして原発事故のことをとても心配なさっていました。

 

時計の針が戻ることはありませんが、まもなくやってくる2013年が、

今なお辛い状況におかれている方々にすこしでも優しい日々でありますよう

願ってやみません。

 

 

年末のお忙しいなか、私の拙い文章にお付き合いくださいまして

本当にありがとうございました。

みなさんのおかげで、こうして記念館での日常、というか、私Wのつぶやき的

散文を綴らせていただいていることに、心から感謝しております。

来年はもう少しおもしろい記事が書けるといいな、と思っておりますので、

これからもお目通しいただければ幸いです。

 

 

予科練平和記念館は明日12月29日(土)~1月3日(木)まで

年末年始休館になります。

1月4日(金)からは、通常通り開館いたします。

来年も、みなさんのお越しを心よりお待ち申し上げます。

 

それでは、どうぞよいお年をおむかえください!

 

 

 

元予科練生インタビューから

12月 21st, 2012

  今年の冬は寒いですね。最近では、冬至は日が短くてもなんとなく暖かかったものですが、11月から「おっ、寒いな」と思う日が非常に多い本年です。先日の天気予報で学習したところでは、偏西風の流れが例年より南に下がっている(蛇行している)ため北極圏の寒気が日本にも入りやすくなっているそうです。

 おそらく地球は人類という我がまま勝手な暴君に手を焼いているのだと思います。変にストレスが溜まり、調子悪くなっているのではないでしょうか。

 子孫のためには、現在の状態が薬を飲めば治る「胃炎」程度であることを願いたいものです。われら生き物の母なる地球を「不治の病」に追い込まない知恵が私たちに求められていると思います。

 

 地球を破壊しないことにもつながりますが、戦争のない、つまり殺し合いをしなくてすむ社会の実現を目指して、予科練平和記念館では元予科練生など昔を知る方々にインタビューを行い、その知恵が詰まった経験談を記念館で放映し、ご紹介しています。

 生きた知恵というものはたった一度きりの人生と真剣に向き合った方からしか得られないものだと思います。その意味でも、今後さらに1人でも多くの方からお話しを伺いたいと考えていますが、今回のブログでは、先日インタビューに応じてくださった方をご紹介いたします。

 

 ご紹介するのは大東秀夫さんです。

 大東さんは昭和3(1927)年に横浜でお生まれになり、現在は笠間市にお住まいです。85歳でいらっしゃいますがたいへんお元気で、さすが予科練で鍛えた方は違う、と私が心底脱帽するお一人です。

 昭和18年12月、15歳の時に乙飛24期生として三重海軍航空隊に入隊され、水上機パイロットへの進路が決まっていたそうです。横浜生まれの大東さんの心残りは、憧れていた土浦海軍航空隊への入隊が果たせなかったこと、とのこと。しかし、当時の若者らしく、予科練に入りお国のために役立ちたい一心で、予科練に入隊できた喜びそのままに訓練の日々はとても充実していたと笑顔でお話しになりました。

 大東さんの周辺では戦争の状況についての情報がほとんど得られなかったそうです。ですから隊内では「特攻」についても何も分からないに等しい状況だったようです。

 ただ、昭和19(1944)年10月には、現在真珠の養殖地で知られる三重県鳥羽市賢島へ移動し「震洋」の特攻基地建設に従事されました。その時も造っているものが何のためのものかは当然知らされず、だから何も分からなかったそうです。

 大東さんは運動神経が特に優れていたそうですが、その点からも白羽の矢が立てられたのでしょう、昭和20(1945)年3月には「伏龍」特攻隊員に選抜されました。

 伏龍については情報が少なく、今回のインタビューでは貴重なお話しを伺うことができました。記念館でも準備が調い次第、大東さんの映像を皆様に見ていただく予定です。

 ここでは、インタビューの概要をご紹介します。

 特攻隊選抜を言い渡されたときには、具体的な任務を知らされることなく、横須賀海軍水雷学校への転属を命じられたそうです。同期の中では大東さんだけが選抜されたこともあり「やるぞ」という強い使命感が湧いてきたそうです。毎日土を掘ることではない、戦うことができると気合いが漲ってきたとのことでした。

 横須賀ではじめて「伏龍」特攻であることが知らされ、内容を知って驚かれたそうです。

◇10名単位で組になった。

◇水に入る訓練→夜間に水に入る訓練→簡易潜水服を着用し、頭に浮き袋を付け(隊員の位置を知らせるためのもの)海へ潜る訓練。

◇とにかく重いため、海へ入るまでの砂浜を歩くのが大変だった→浮力が働くため海に入ってからの方が移動は楽だった。

◇海中では自由に歩き回ることなど出来なかった。頭と足の位置で水圧が違うため立っていられず、海底を手で這いながら移動した。

◇目的の地点に着くとクルッと仰向けになり水面を見ながら機雷棒を構えた。

◇深度10メートル程から見上げる太陽は満月のように見えた。

◇機雷棒は海流のために自由に扱えたとは言えなかった。

◇酸素弁を調節し、水深に応じて酸素を出すが、海から上がるときが大変で、潜水服中の酸素を抜きながら上がるため調節に失敗すると潜水服が破裂し溺死する危険があった。(装置の付いた潜水服は自分一人では着脱できないものだった)

◇訓練は潜水服の数が少ないこともあり、1人ずつ行われた。悲壮感をもって訓練をしたというより、少年であったために新しい遊具に挑戦するような気持ちでもあったとのこと。

◇大東さんの班では事故は1つもなかった。他班で事故があっても知らされることはなかった。

◇訓練中、伏龍については大東さんも実効性に疑問をもったとのこと。しかし、上官の命令は「天皇」の命令と教育されていたため、それ以上のことは深く考えなかった。

◇終戦になると特攻隊はすぐ解散となり、大東さんは実家が横浜だったためすぐに帰郷できたとのこと。

 戦後、大東さんは家族で唯一の男手として文字通り身を粉にして働き続けてきたそうです。その大東さんも「絶対に戦争をしてはならない」と強いメッセージをお寄せ下さいました。

 戦争の残酷さ、悲惨さ、無意味なことを是非とも発信し続けてもらいたい、元予科練生の大東さんから予科練平和記念館がいただいたメッセージです。

 戦争を実体験したことがない人間の集まりでもある予科練平和記念館です。しかし、臆することなく、先人の声を自身の声として、来年も引き続き普及活動に努めたいと考えています。

足利市議会議員さんがご来館くださいました

12月 21st, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

先日に続いて臨時で更新をしています。

 

昨日は栃木県から足利市議会議員の皆さんがご来館くださいました。

当館を1時間ご覧になったあと、遺書や遺影を展示している雄翔館も

見学されました。

 

 

 

昨日はとても寒くて風も強かったのですが、そのようななか、

ご多忙中にもかかわらずご来館くださいまして、本当にありがとうございました。

 

 

 

足利市ホームページ

http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/

 

 

呉市議会議員の皆さんがご来館くださいました

12月 19th, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

今日は、広島県呉市議会議員の皆さんが予科練平和記念館にご来館くださいました。

呉市は瀬戸内海に面した港町で、当町と同じように旧海軍と縁の深い土地です。

戦艦大和の展示が見られる「大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)」や、

潜水艦が展示されている「てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)」などの

展示施設も見ごたえがあります。

 

特に「大和ミュージアム」は、予科練平和記念館を建てるにあたって、

どのように運営していくか、戦時の歴史をどう展示しているか、などを

勉強するためにお邪魔させていただいたところでもあります。

 

いらっしゃった7名の議員の皆さんは、当館の運営の状況や課題、

イベントの状況等について熱心にお聞きになったあと、常設展示をご覧くださいました。

予科練平和記念館の先輩にあたる「大和ミュージアム」があるところの方たちを

ご案内するのは緊張いたしましたが、興味をもってご覧くださっているのが

わかって、とても嬉しく思いました。

 

 

当館のあとは、お隣の雄翔館で予科練生の遺書や遺影をご覧になりました。

 

 

午後からは東京での視察が控えていらっしゃるとのことで、お忙しいご予定のなか

お運びいただいたことに感謝申し上げます。

 

 

呉市ホームページ

http://www.city.kure.lg.jp/kure_top.html

 

 

全力おさんぽ

12月 12th, 2012

みなさんこんにちは。

今日は2012年12月12日です。

12が並んでいます。

だからどうした、ということもありませんが、

あとにも先にも今日は今日だけなんだな、ということが目に見えてわかる気がします。

 

そういえば、今日をいれるとあと20日で新しい年になるんだ!と突然自覚して、

なんだかうろたえた学芸員Wです。

 

目前のクリスマスの雰囲気にのまれてうっかりしているうちに24日が過ぎて、

いきなりやってくる年越しムードにあわてる自分が目に見えるようです。

意外とやらなくてはならないことが多くて忙しいこの時期、

みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

 

 

前回は「ナイトミュージアム!」の様子をお知らせしましたが、

今日はその1週間前に行った、お子さま対象のよみきかせ

「おはなしおさんぽの会&昔のあそびをやってみよう!の会」の

様子をお伝えしたいと思います。

今回4回目を迎えるおさんぽの会には、0才から10才ぐらいまでの

かわいいお客さまがたくさんきてくださいます。

 

 

 

 

読んだのはこの4冊です。

 

『お月さまってどんなあじ?』 マイケル・グレイニエツ作

昔話『ねずみのすもう』 いもとようこ作

『ちいさなへいたい』 パウル・ヴェルレプト作

大型絵本『おおきなかぶ』 A・トルストイ作

 

どの絵本も、いっしょうけんめい聞いてくれました。

 

絵本を楽しんだあとは、みんなで遊びます。

今回は秋のスタンプラリーです。

記念館のまわりと、お隣の公園にかくされた7つのスタンプを探しにいきます。

 

 

 

こんなふうに置いてあります。

スタンプは、予科練生の七つボタンにちなんで7つにしてみました。

 

どこにあるかな?

 

 

力いっぱいインクをつけています。

実は、スタンプは全部野菜でできています。

ここ⑥はオクラ。

切り口が星のような花のようなで、とてもかわいいです。

 

 

 

②はジャガイモです。

ほかにサツマイモ、にんじんなどがあって、どんぐりやイチョウ、桜などが押せる

特製の秋のスタンプになっています。

 

とっても手が込んでいますね!とお褒めをいただきましたこのスタンプ、

よみきかせをしてくれた展示解説員Mさんの力作です。

 

 

 

 

私Wは公園でみなさんの様子を見ていたのですが、

スタンプ用紙を持った子どもさんが、「全部押せた!」「ここわかんない!」「あっちにあった!」と言って

子犬のように全速力でかけまわっていました。

全部押したスタンプ用紙を見せてくれたり、どこにスタンプがあったかを教えてくれたり、

全力で楽しんでくれていました。

 

スタンプが全部集まったら、記念館に戻って、かわいいイラストがついた色画用紙を

スタンプラリーの用紙に貼り付けます。

あらかじめどちらにも毛糸の取っ手がついているので、

貼り付けるとトートバッグになります。

このバッグに折り紙で作ったきのことどんぐりを入れて終了です。

 

今回のおさんぽの会も、とても好評でした。

次回は年が明けて3月23日(土)を予定しています。

きっと春の予感でうきうきしている頃でしょう。

ちいさなお子がいらっしゃるみなさん、おさんぽがてら記念館にも

どうぞ足を運んでみてくださいね。

 

 

さて、先日、歌舞伎俳優の中村勘三郎さんが旅立たれました。

勘三郎さんと、勘三郎さんが心血を注いだ平成中村座は、私Wの人生に

大きな影響を与えてくれた大恩人だと勝手に思っておりまして、大きなショックを受けております。

 

笑顔を忘れそうになったときに見た中村座でのお芝居の帰り道、

ライトアップされたスカイツリーがあまりにもきれいだったのを思い出します。

 

平成中村座は、江戸時代の芝居小屋の雰囲気を再現した仮設の劇場で、

浅草の観音様の先、隅田川沿いに立ちます。

勘三郎さんは、この平成中村座をニューヨークまでもって行って、英語でせりふをしゃべったり、

ニューヨーク市警が出てきたりする演出で観客をわかせました。

400年以上も前のものが現代のアメリカでウケるというのは、考えてみるとすごいことです。

 

歌舞伎を若い世代の人たちに見てほしい、と、渋谷・Bunkamuraのシアターコクーンで、

現代の演出家を迎えて斬新な表現方法や解釈で生みなおした歌舞伎「コクーン歌舞伎」も、

毎回チケットがなかなか取れない大人気の舞台でした。

歌舞伎座や新橋演舞場とは違って、若い世代の方たちがたくさん見にきていて、

通常の歌舞伎にはないカーテンコールもあって、刺激的でおもしろくて、すばらしいものでした。

 

勘三郎さんは、歌舞伎は展示ケースに閉じ込めてありがたがって見るものではなく、

今をライブで生きている人たちが作りあげるエキサイティングな舞台なんだということを

身をもって示してくださったように思います。

それは、歌舞伎400年の伝統を全身で受け継ぎ、大切にしているからこそできることで、

型があるから型破りができる、というのは、勘三郎さんがおっしゃっていたことです。

 

公私ともに誰からも愛された勘三郎さん。

ファン一人ひとりを大切にしてくださった勘三郎さん。

来年4月に新しい歌舞伎座のこけら落としをひかえていたし、

お孫さんも生まれて、これからますます充実して

円熟した芸を見せてくださっただろうと思うと、残念でなりません。

公共の場をお借りしてこのように申し上げるのもどうかとは思いましたが、

みなさまどうぞお許し下さい。

 

たくさんの感動とすばらしい舞台を残してくださったことに

感謝申し上げ、ちっぽけな一ファンですが、

ご冥福を心からお祈り申し上げます。

 

イベント報告

12月 8th, 2012

 12月に入ってしまった、と思うまもなく一週間が過ぎて、先人が言う通りに時が経つ早さばかりを感じる師走です。

 例年より冷え込みが厳しいこの季節ですが、季節をさかのぼって今秋以降に行われたイベントについてご紹介いたします。

 

 今回は10月14日(日)に行われた「予科練平和記念館学習会~戦跡を巡る~」です。

 昨年から始まったこの学習会も3回目を迎えました。今年5月には鹿島海軍航空隊跡地(美浦村)大日苑(稲敷市)などを巡りました。

 今回は人間爆弾「桜花」特攻と関係が深い神之池(ごうのいけ)海軍航空隊跡地、および資料を見学するため桜花公園(鹿嶋市)神栖市歴史民俗資料館(神栖市)を訪問しました。

 当日は、予科練平和記念館のお隣、自衛隊武器学校(土浦駐屯地)での記念行事と重なり、参加者の駐車場確保に奔走することとなりました。ご不便をおかけした皆様には、あらためてお詫び申し上げます。

 予定より少し遅れながらも無事に出発し、稲敷市の大杉神社に立ち寄ってお参りしてから鹿島方面へ向かいました。

 これまでは阿見町近辺の戦跡巡りでしたが、今回は片道約90分を要する遠出でした。バス車中で「桜花」の学習会となりました。資料は当館歴史調査委員が作成してくれたものです。

「桜花」について

◇昭和20(1945年)3月から6月まで使用された(現在の陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地付近にあった第一海軍軍需工廠で生産される)。

◇マル大の名称で開発され「桜花」と命名された。

◇搭乗員は第一線部隊を除く全国の実施部隊搭乗員から選抜された(回天や震洋隊員のように、予科練や飛行予備学生など基礎教育中の者から選抜されたのではなかった)。

◇桜花は攻撃目標である敵艦付近まで「一式陸上攻撃機」の胴体に吊られて運ばれ、発進した。

◇桜花搭乗員戦死者55名(うち予科練出身者38名、飛行予備学生出身者11名)。一式陸上攻撃機搭乗員戦死者数365名(うち予科練出身者233名、飛行予備学生出身者24名)。

◇桜花部隊は昭和19年10月に百里原基地(現在の小美玉市)で編成され、桜花・一式陸上攻撃機・零戦などから成り「神雷部隊」と呼ばれた。同年11月に神之池海軍航空隊に移動し訓練開始。

◇訓練は零戦をグライダーのように操る方法が主だったが、一式陸攻から切り離されて着陸する訓練が1回だけあった。桜花には着陸用のそりが付けられていたが事故が多く、多数の殉職者を出した。

◇桜花特攻作戦は鹿屋基地(鹿児島)から10回の出撃を数えた。目標は沖縄上陸作戦中の連合艦隊艦船。

◇桜花は一式陸攻から切り離される前に、母機の一式陸攻もろとも撃墜されることがほとんどだった。

◇桜花の戦果は駆逐艦1隻撃沈。他、3隻に損傷を与えたにとどまる(アメリカ軍発表に基づく)。

 

 特攻という体当たり攻撃の発想が生まれたことには大きな問題点があるわけですが、桜花がたどった結末をこうして後世に知ると、更に「なんということが行われてしまったのか」と思わざるを得ません。

 予科練平和記念館第7展示室にて公開している上田兵二氏の遺書を以下にご紹介し、今回のブログを閉じます。

 

上田兵二(福島県出身、第7神雷桜花隊、昭和20年5月4日戦死、乙飛17期、20歳)

遺書

死 顧みれば二十年星霜の父母の御厚恩に対し深く御礼申し上げます。何一つとして御恩返しも出来ず甚だ遺憾に思ふ所があります。併しながら遂に其の時が参りました。此の未熟なる小生も○○の一搭乗員として敵空母を枕として太平洋の飛沫と消え父母の御恩に報いる事の出来た事を誠に喜びに堪えません。此れも皆生前父母様の御厚恩の賜と深く感謝いたします。身体は亡びても魂は永遠に護ります。

一億同胞の期待するが如き働きもなし得ざるも鬼畜米英に対し少々たりとも精神的物質的損害をあたへた事は御厚恩に対し万分の一なりとも誠に喜びに堪えません。もとより小生も名誉の功の為に突撃したのではありません。只護国の神として靖国神社にまつられる丈でも高栄の至りです。神州男子の誉此の上もなくこの感激を胸に抱きて、吾は七生報国を誓ふものなり。

後の事は宜敷御願い致します。お母さん兄弟姉妹の御健康御幸福をお祈り致します。

昭和20年2月17日

海軍一等飛行兵曹 上田兵二

母上様

一 婦女関係ナシ

一 金銭貸借ナシ

ナイトミュージアム!

12月 1st, 2012

みなさんこんにちは。

学芸員Wです。

師走の12月、いかがお過ごしでしょうか。

冬の訪れとともに、風邪やノロウイルスが流行りだしたそうです。

皆さんもどうぞお気をつけくださいね。

 

前回、元予科練生で現在は大阿舎利(だいあじゃり 特の高いお坊さんをいいます)の

酒井雄哉(さかい ゆうさい)さんをご紹介しましたが、

実は当予科練平和記念館の解説員さんのなかで、実際に

大阿舎利にお会いした方がいらっしゃるんです。

 

解説員Sさんは、酒井大阿舎利が2度目の千日回峰行の終盤、

京都市内を歩いていた時にお会いしたそうですが、

やはり厳しい行をなさる方だけあって、パワーのような、オーラのようなものを

感じたそうです。

 

解説員Sさんと私Wは、兄弟構成が同じで、大学が同じで、

しかもサークルまで同じだったことが先日判明しました。

大先輩と一緒にお仕事をすることができて、とても嬉しいです!

また、Sさんにあやかって、ひょっとしたら私も

酒井大阿舎利にお会いできる機会がいただけるのでは?!と

密かに期待しております。

 

 

さて、昨日の夜はイベント「ナイトミュージアム!」を実施しました。

夜の予科練平和記念館の中を、ペンライトで照らしながら探検するツアーです。

ツアーは2回行い、当選された50名のお客様が、普段とは違う雰囲気の館内を

楽しまれました。

 

 

 

 

 

このすてきな写真を撮ってくださったのは、常陽リビング誌のS記者です。

やはりプロが撮る写真は違いますね!

雰囲気がとってもよく伝わってきます。

私はツアーをナビゲートしていて全然写真が撮れませんでしたので、

大変ありがたくブログに掲載させていただきました。

S記者さま、ありがとうございました!

 いつも丁寧に取材してくださり、素敵な記事にしてくださってありがとうございます!

 

 

ご参加の皆さんは小学生から年配の方までと幅広く、

お友達どうしやご家族でご参加くださった方も多かったです。

みなさん楽しそうにペンライトでいろいろなところを照らしていらっしゃいました。

 

 

最後には、天井の高いロビーにマットを敷いて、

その上に寝転がってみたりしました。

ロビーには窓がたくさんあるので、昼間は空がきれいに見えますが、

夜になると、月や星、それからぴかぴか光りながら飛行機が飛んでいるのが見えます。

 

当日はあいにく曇り空で、皆さんに館内から見えるきれいな月をお目にかけることが

できなくて残念に思っておりましたが、それでも、寝転がって天井を照らすだけでも

おもしろい雰囲気でした。

 

実はこれ、休館日に職員で救急救命講習をした際に、床に寝転がって上を見たら、

天井が高くてなんだか気持ちがいいな、と思いまして、

いつか皆さんにも体験していただきたいと思ったことから、今回やってみました。

 

当日の館内は、私たち職員も見たことがない、参加された方の光だけで作られた、

不思議だけどなぜかあたたかい空間になっていました。

 

暗がりの中自分の光で見つけた資料は、きっといつもより特別なメッセージを発して

いたかもしれませんね。

 

私たち館の職員も、特別でとても楽しい時間を過すことができました。

ご参加くださった皆さん、ありがとうございました!

 

 

特別展「回天」最終章

11月 22nd, 2012

 11/20(火)から予科練平和記念館では企画展「甲飛14期生~特攻が始まった年の入隊者たち~」が始まりました。

 今夏に開催した特別展「回天」では、回天特攻に関わった甲飛13期生をご紹介しました。回天搭乗員となったのは昭和18年12月の後期入隊者たちでした。

 その翌年、昭和19年に甲飛14期生は入隊を果たします。甲飛13期生も約28,000人もの入隊者を数えたわけですが、甲飛14期生は予科練史上最高の4万人超でした。

 その数には日本の戦局悪化が如実に表れており、また昭和19年10月に始まった特攻作戦によって予科練生の訓練内容や進路に大きな影響が出ることとなります。

 かつて海軍の航空戦力を力強く支えた予科練も、終戦間際には時代に翻弄された感は否めず、優秀な人材が失われたり、その能力を充分に発揮できなかったと言えるでしょう。  

 甲飛14期生を通して、戦争や予科練について皆様にも様々に考えていただきたいと思います。

 また、館所蔵の未公開資料も多数展示しておりますので、どうぞご来館下さい。

 

 さて、先回のブログに引き続き、元回天搭乗員・塩月昭義様の講演会レジュメをご紹介します。シリーズで回天のことをご紹介するのはこれで最後となりますが、予科練とも直接的につながる回天を通して、これからも皆様と様々に考えていきたいと思います。

 

【回天の事故と故障】

 導入できる新技術をすべて取り入れたとは言え、ほとんど試用期間も取れず操縦法も手探りで始めるしかなかった回天は、乗り物としては極めて不完全で訓練中に故障や事故が頻発した。

「回天の故障」

 〈冷走〉 エンジン起動時に点火せず燃焼ガスも高圧水蒸気も発生しないためにほとんど出力がなく走行不能で訓練は出来なかった。過度に低速にすると冷走することがあった。

 〈気筒爆破〉 エンジン起動時に燃焼室に海水の注入ができず燃焼室が溶損する故障。

 〈出力不足〉 魚雷は爆弾や砲弾と同じでただ一回の使用に耐えるだけの強度しかなく通常の内燃機関にあるピストン・リングもないため注意しないと摩耗による出力低下が起きる。

「訓練中の事故」

 〈イルカ運動による海底突入〉回天の横舵機は深度制御と姿勢制御(走行中に指定された深度をとり出来るだけ水平に近い姿勢を保持するための制御)という2つの機能を全うしなければならないため、潜り始めに尾部が浮いて大きな水しぶきをあげたり浅い深度で高速走行すると水面に飛び出したり潜り過ぎて浅い海では海底に衝突あるいは突入するいわゆるイルカ運動を起しやすい。海底は砂や岩が普通で衝突してもさしたる問題はないが、河口の先では泥沼になっているところがあり突入するとスクリューの逆回転機能のない回天は自力では脱出できなかった。

 〈衝突〉回天には特眼鏡という小型の潜望鏡がついていたがこれは浮上した時の海上観測用で水中ではせいぜい数メートルしか視界が効かずしかも走行中にはかなりの流圧がかかるので必ず特眼鏡は引っ込めて潜ることになっていた。そのため水中では盲目走行で自分の位置を知るには海図上の進路に時間と速度の積で計算した距離を記入して現在位置を知るしかなかった。この計算を間違えると潜ったまま島や陸岸に衝突する危険があった。

 また回天では浮上するときに頭上に何があるか知る方法はなく、たまたま浮上したところに船や浮遊物があれば衝突し重大な事故となった。

 さらに航行艦襲撃の訓練中に横舵の動作に異常があって指定した深度より浅いところを走行していて目標艦の艦底に衝突する事故があった。襲撃は全速で突入するのでこの場合の衝撃は極めて大きく回天の艇体は大きく破損するので搭乗員はすべて死亡した。

 

「大神基地における事故」

 〈衝突事故〉航行艦襲撃訓練たけなわのころ久堀隊長が訓練の帰途、見張り船(回天の訓練を見守りかつ訓練海面に民間の船が紛れ込まないように監視する船)に衝突して特眼鏡を壊した。その数日後今度は私が訓練に赴く途中に見張り船の制止も聞かず紛れ込んできた機帆船(焼玉エンジンと帆を併用する民間の小型船)に衝突した。どちらも一歩まちがって回天のどこかに穴が開いて海水が入れば沈没はまぬがれなかった。苦笑いをして上がってくるか別府湾の底で魚の餌になるかの違いはほんの数秒か数十センチの差でしかなかった。

 このような不可抗力ともいえる事故ばかりでなく故障発生時の搭乗員の応急処置如何により助かるものも助からないことがあるので搭乗員たるものは多数の応急処置のすべてを知悉し事故の状況に応じた最適の処置を選ぶ必要があった。

 2つの事故を見た大神基地隊の司令は我々久堀隊4人に特別休暇を命じた。翌日、弁当や缶詰を詰め込んだ籐製の小さなピクニック籠を下げて、クラブ契約のしてあった近くの網元さんの家に行き風通しのよい二階の大広間の畳の上に寝そべって古雑誌などを読みながら過ごした一日は文字通り忙中閑の楽しい思い出である。

 〈海底突入事故〉第一次出撃隊の訓練が終わり、我々が第二次隊員達の訓練の応援に忙しかったときに大神基地での最大の事故が発生した。7月25日に私は隊長と一緒に目標艦に乗っていた。午後3時にその日最後の原村隊員の発射が予定されていたが大分手間取っているなと思っていると追躡艇が全速で近づいてきて回天を見失ったという。隊長は“射点沈没(発射地点での海底突入)の算、大なり”と素手で発射指揮所に手旗信号するとすぐ目標艦で発射地点に引き返し、薄暗くなった海面に僅かな気泡を見つけて“ここだ”と指差して錘のついた浮標を入れさせた。

 先任隊長が救助作業の指揮者になり、サーチライトをつけて潜水夫を入れ尾翼にワイヤーをかけて引っ張っても、半分以上を泥沼に突っ込んだ回天はびくともしなかった。対岸の大分航空廠から駆けつけてくれた救難艇で引っ張ってもだめであった。

 私は作業船に先任隊長と一緒に乗り込んで発射指揮所の司令との連絡信号手を務めた。その当時の夜間の近距離通信はもっぱら懐中電灯の点滅によるモールス通信であった。

 訓練用の回天には頭部の爆薬室に海水を満たしておき事故で沈没したときに圧搾空気で排水して浮上する応急ブロー弁用のコックが操縦席の横にあった。原村も操作してみたが泥沼の圧力で排気弁が開かずあきらめたと後で言っていた。

 空襲警報が鳴り潜水夫を引き上げてサーチライトを消し、爆音が遠くなるのをじっと待っている間に先任隊長が“今あいつを死なせると後が大変だなー”とぽつりと言った。それを聞いた私は何とか助けなければと思った。

 10時間といわれた酸素欠乏の限界時間が近づいたとき、残された手段は回天にかけたワイヤーを回天と直角の方向に引くことしかなかった。回天が折れれば搭乗員を助けることができないかも知れないことを覚悟しての決断であった。

 ほぼ垂直に飛び上がるようにして浮上した回天が水平に落ち着くのを待ちかねたように飛び乗って金槌でハッチを叩いた先任隊長が中からの確かな応答を聞いて“生きてるぞーっ”と叫んだとき、まわりに集まっていたすべての作業船の上から一斉に“うぉーっ”という歓声が上がったのを忘れることができない。

 桟橋で待っていた軍医長と一緒に担架に付き添って白々と明け始めた坂道を医務室に急ぐ途中で“本日の総員起しを07:00とする(徹夜した作業員にしばらくの睡眠時間を与える)”という隊内放送を聞いた原村が“おれのためにみんなにえらい迷惑をかけたなー”というのを聞いたとき、軍医長の心配していたガスによる神経障害はないなと安心した。

 回天には事故で長時間閉じ込められたときのために通称“提灯”という炭酸ガスを吸収して酸素を放出する化学装置と長時間の事故のための応急糧食が用意されていた。提灯を開いたのは当然としても、応急糧食まで開けて全部平らげたという原村の研究会での報告にはみんなあきれた。司令以下2千人に及ぶ基地の全員が如何にして助け出そうかと苦慮しているときに当人は平然と非常食料を平らげているとはあきれた神経である。潜水夫の靴音やワイヤーの音が聞こえていたので助かると信じていたという。応急糧食の中身は言わなかったが素晴らしくうまかったそうである。

〈漏水事故〉回天の整備作業が終わると仕上げとして漏水がないか確認するために必ず“水漬け”という試験が実施された。魚雷調整場の横にある細長いプールのような水溜で水漏れを検査するのである。

 私は非常に稀な漏水事故を経験した。回天にはキングストン弁(海水タンクに海水を注入するための弁)が操縦席の下にあった。その軸からなぜか漏水したのである。

 キングストン弁を閉じておけば回天全体の浮力に変化はないが潜るときに前部に流れる海水のためにダウンがかかり、なかなか戻らない。どうしてもだめなら応急ブローを使うことにして傾斜計を見ながら潜航したが深度50メーターぐらいでやっと上昇を始めた。別府湾は深かったが瀬戸内海の基地の訓練海面は浅くこのような試みは無理であったろう。

 

【大神回天隊】

 昭和19年の11月になると大型潜水艦の甲板上に回天を4基ないし6基積んだ特別攻撃隊が山口県の大津島基地から出撃するようになった。翌年の春には近くの光基地からも出撃が始まり、基礎訓練を受けながらそのたびに見送りに出る我々にもひしひしと戦局の逼迫が伝わってきた。桟橋に並んで見送る我々に笑みをうかべて応える出撃隊員もいた。

 基礎訓練がようやく終わったころ、急に第4番目の訓練基地要員として同僚約240人とともに別府湾北岸の大神(おおが)基地に行くことになり4月初めに巨大な戦艦が光基地のはるか沖を西進(今思えば戦艦大和の沖縄出撃)するのを見た数日後に大神に着いた。

 着いてみると大神基地にはバラック兵舎が数棟建っているだけであった。われわれは翌日から早速建設工事の応援にとりかかった。近くの川に砂利とりにトラックで往復したり、飛行機の格納庫のような回天の整備場の屋根ふきに上がったりした。整備場のわきには巨大なコンプレッサーで空気を圧縮・液化して酸素を分離抽出する酸素工場や、回天に装備されるきわめてデリケートなジャイロコンパス付の自動操縦装置(電動縦舵機)のための専用調整室などが続々と完成し、回天を整備場から湾内に上げ下ろしするトロッコのレールも敷かれて5月末には回天の試験発射ができるまでになった。これだけの工事をわずか2月足らずの突貫工事で完成させ二千名に及ぶ要員による終夜の魚雷整備体制を整えたこと自体、当時の海軍の回天によせる期待がいかに大きかったかを物語る証左に他ならない。

  今にして思えばこの2ヶ月の訓練開始の遅れが結果的に私をあの戦争に生き残らせることになったといえる。人の運命などは何が幸せになるかわからないものである。

 待ちかねたように6月からは日本海軍独特の月月火水木金金という休日なしの猛訓練が始まった。私の初搭乗は6月1日でそれから1ヵ月半の間にほぼ1日おきに21回搭乗して訓練を終えた。

 発射訓練のあった日は毎晩司令以下の兵科士官と下士官搭乗員が全員夕食後の士官室に集まり当日の訓練に関する研究会が開かれた。初めの頃は回天の基礎的な操縦法や、事故や故障の発生した時の応急処置の適否などが主な議題であったが、襲撃訓練が始まってからは搭乗員がその日の実際の襲撃状況を射法効果図として図上に表し、目標艦の側から見た結果と照合して斜進角度決定の緒元すなわち目標艦の進路・速力および襲撃距離という3つの数値の測定技術の向上法や占位運動の適否が論議された。

 魚雷は砲弾や爆弾と同様にただ1回の使用に耐えるように設計された兵器で回天の訓練に使用された魚雷ももちろんそうであった。そのため訓練の終わるたびにエンジン部分を分解掃除して磨耗した部品を取り替える必要があり整備員の苦労は並大抵ではなかった。それでも整備が間に合わなくて訓練に支障を来たしたことは一度もなかった。

 度重なる空襲で主要な工場の生産力が低下するなかで回天の生産はかなり順調であった。それに対して回天を搭載する大型潜水艦は数少なくなっていたため、陸上の拠点から回天の持つ速くて長い足を活かして敵の機動部隊や本土上陸部隊を邀撃することが回天の主な任務となり、私たち8人は豊後水道の入り口にあたる麦が浦という愛媛県の小さな漁村の近くで待機することになった。

 8月3日の夕刻に待ちに待った輸送艦が到着すると大神基地は戦場のような騒ぎになり、完璧に整備され頭部に爆薬を装着して特眼鏡に注連縄を巻いた出撃回天8基を輸送艦に搭載する作業が整備員総出で深夜過ぎまで続けられた。出撃搭乗員8名は揃って士官浴室で沐浴し第3種軍装に着かえて夕食を済まし出撃祭典を待った。

 出撃祭典は深夜0時に基地本館内に祭られていた回天神社の前で始められ、神戸の湊川神社から贈られた七生報国の鉢巻を締めてもらって別れの杯をくみかわし、桟橋に並ぶ夜目にも白い非理法権天(注)や南無八幡大菩薩の幟の下でみんなに挨拶して輸送艦に乗り移ったときには午前2時をまわっていた。輸送艦はすぐに出航した。(注 非理法権天:非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権力に勝たず、権力は天命に勝たずという楠木正成の幟に記された文字。人事はつまるところ天命のままに動くという意。ヒリホウケンテンと読む。)

 艦内で一休みして甲板に出てみるとすでに夜が明けており、佐賀ノ関の精錬所の高い煙突が右手に見えた。これからカンカン照りの豊後水道を横断しなければならないのであるが、そのころは既にアメリカの艦載機は我が物顔に本土上空を飛び回っており、潜水艦は瀬戸内海にまで入り込んでいると言われていて彼らのいずれにも発見されることなくかつ触雷することもなく対岸に到着できる確率はきわめて小さかった。むろん護衛艦などあろうはずもなく輸送艦自身の対空装備といえば前甲板に口径12.7センチの高角砲が1門と両舷に25ミリ機銃が2丁ずつ計4丁あるだけであり、海鷹のようにロケット弾を装備した艦載機の編隊に発見されればひとたまりもないことは明らかであった。

 大神基地の建設工事のころ、数人で近くの川で砂利取りをしている最中に空襲警報が鳴り、人っ子一人見えなくなったところで北九州爆撃の定期便になっていたB29の編隊を見上げていたところ、対岸の家並みの瓦屋根にカンカンカンと音がしてアレッと思うまもなく目の前の水面にシュッシュッシュッと一列に水しぶきが上がった。それを見てハッと気がついて飛び退いたそのあとにチッチッチッと火花が飛んで砂利が跳ねた。

 状況からみて我々を狙った機銃掃射であることは明らかであり、味方戦闘機の上昇限度を越える高空から地上に静止している人物が見分けられることに驚くと同時に、射撃の正確さに舌を巻いた。快晴の海を航行中の輸送艦ならばその積荷まではっきり見えるはずで、B29の編隊に発見されて一斉に銃撃されれば何が起こるか分からなかった。

 信じられないほどの幸運に恵まれて目的地の麦が浦に着いたのは午前11時半であった。直ちに地元の漁船まで総動員して揚陸作業がはじめられ2時間たらずで8基の回天は海に面した5本の岩のトンネル内に引き込まれた。

 8月12日の昼近く、本部より12時間待機が発令され、すべての仕度をしてトンネルにこもり次の指令を待ったが遂に次の発令はなく翌朝待機命令が解除された。回天で文字どおり“回天の偉業”が成就されると信じていた隊員にとって8月15日の敗戦の報はショックであったがアメリカの報復をおそれた日本海軍は早々に我々を除隊復員させた。

「搭乗員の心理」

 短い海軍生活で、もっとも印象に残っているのは勿論大神の回天隊である。初搭乗の時の記憶はいまだに私の脳裏に残っている。夕食後の士官室の黒板に翌日の搭乗割を記入する先任将校の手元を見ていて自分の名前を確認した私は搭乗する回天の番号と発射時刻をメモして直ちに宿舎に帰り、前から用意しておいた自分の第1回目の訓練計画を注意深く再検討して寝ずに待っていた指導官に見てもらい細かな修正を繰り返して最終的にOKをもらった時には日付が変わっていた。

 それから私は薄暗い常夜灯の点った大浴場に行き、ぬるい風呂に入って下着を着替え、脱いだ下着を洗濯して星明かりで干し場に干した。もしも事故で死んだ場合、汚い下着を着ていたり遺品の中に汚れた下着があったりしては恥ずかしいからである。

  睡眠不足で訓練に臨むと勘も判断力も鈍り、訓練効果が上がらないだけでなく事故や故障が起きた時の応急措置を誤る危険も増すから搭乗前夜には十分に睡眠をとっておくようにと先輩に言われていたので、さあ寝ようと思って床についたものの初搭乗の興奮や事故の心配などでとても眠れたものではなく遂に一睡もできないまま“総員起し”を迎えた。いつものとおり朝礼や体操を済ませて皆と一緒に食卓についたが、今夜ここに座って夕食がとれるだろうかと思うと食事はのどを通らなかった。

 徹夜作業を経験された方はおわかりと思うが、翌朝のあのなんとなく体が浮いたようなそして頭の中に霞がかかったような気分で命がけの訓練に出かけるわけで、自分の手に負えないような故障や事故に出会わないようにと回天神社に深々と頭を下げて特別のご加護をお願いしたうえで発射指揮所に向かったものである。神頼みという言葉は無責任の代名詞のように使われるが、人間は自分の能力の限界を超える困難に直面すると準備を尽くした後は神に祈るしかない。大学入試の合格祈願とは次元の異なる祈りである。

 今思えば一睡もできないまま訓練に赴いた最初の二、三回の搭乗が最も危険であった。少し慣れて前の晩に十分眠れるようになると訓練もだんだん充実してきて技量も上がってくる。それでも21回の搭乗訓練中に生きて帰れたのは僥倖としか言いようがないような不測の大事故に遭遇した。同僚や他の基地の例から考えても訓練中に1回ないし2回の死の危険をすり抜けた搭乗員だけが出撃できたのである。

 出撃搭乗員に選ばれることは回天隊員として最高の名誉でありそのために日夜研鑚を積むわけであるが一旦選ばれれば死は目前に迫っており、覚悟して志願した身ではあってもなんとなく重苦しい気分になってくるのは避けられない。出撃待機中のある日、窓の外を眺めながら郷里の景色や台所に立っている母のうしろ姿などをなんとなく思い出していると軒端でチュンチュン鳴いている雀が目にとまった。無心に戯れている雀を眺めながら、彼らは天から与えられた寿命を自然のままに全うすることができて幸せだなと一瞬うらやましく思った。隊員の作詞した軍歌で“弱冠二十歳の若桜・・・”と歌っていた私はそのとき満18歳と6ヶ月で、“はたち”という歳には届くことのないあこがれがあった。

 人間はいかに使命感に燃えようとも自分の命を犠牲にすることに全く頓着しなくなることはありえない。特にものを考える余裕ができたときに深刻である。しかしながら、出撃祭典で七生報国の鉢巻を締めてもらったときには全身に電撃が走り、一瞬にして自分自身が神になったと感じると同時に使命を全うしようという意欲が湧然と盛り上がって来た。その後の長い人生においてもこのときに勝る感動を味わったことはない。

 多くの特別攻撃隊員が尊い命を自ら進んで国家に捧げた。どの隊員も多数の志願者の中から選ばれた心身ともに健全な若者であったが、人間である以上、出撃前に多少の迷いはあったかも知れない。しかしながら最後は使命感に燃えて気力充実した状態で突入したに違いないと私は自分の経験から思う。そうでなくては突入ができるはずがない。

 特に回天では突入するとすぐ衝撃信管の安全装置を解除し電気信管用の電池を接続する冷静な操作と、目標に命中するまで何回でも再突入する強靭な精神力が要求されていた。

  特別攻撃隊員に限らず、人のために命を捧げることは人間の死に方としてこれ以上崇高なものはないと今でも私は信じている。

「回天神社と高校生」

 平成14年4月、別府湾北岸の大神にあった旧海軍の人間魚雷回天の訓練基地跡に当時の隊員約70名が集まり、回天神社と呼んでいた隊内神社を戦後ずっと預かってもらった近くの住吉神社において元隊員その他の寄金により再建された回天神社の改築記念遷宮祭と犠牲者の合祀を地元の皆さんのご協力を得て盛大に執り行った。

 その夜の懇親会が始まる直前、地元の高校生男女数人が引率の先生と共に会場を訪れ、“終戦直前に別府湾で米艦載機に襲われ擱座した‘海鷹’という航空母艦のことをクラブ活動で調べているうちに、昭和20年7月に人間魚雷回天の訓練の目標艦になったという記録を発見しましたがその時のことをご存知ありませんか”と玄関近くにいた私の友人に聞いたという。友人が“勿論知っています。その時海鷹の下を回天で実際にくぐった4人のうちの2人も来ています。”と答えたところ“是非お目にかかってお話を伺いたい”ということになり、私ともう一人の隊員が会ってわずかな時間であったが話をした。

 回天神社という小さな祠があることは知っていてもその由来を知らず、まして自分達と同じ年ごろの若者が国家に命を捧げるための訓練をしていたという事など思いもよらなかった高校生達は、その後地元の老人たちに聞いたり残された資料を調べたりして目の前の海であった事を記録に残そうとした。高校生たちの作った記録の中で彼(女)達は最初に“国を守るとはどういうことか”という政治の根源的な問題を問いかけている。

 このような若い人達が現在の日本にいること自体が私にとっては信じられないほど嬉しいことであった。また半世紀以上も昔のわずか数ヶ月の付き合いを忘れず、回天神社改築の企画当初から全面的に協力して下さった地元の皆さんや、新社殿を総ヒノキ作りで釘一本使わずに精魂込めて組み上げて下さった棟梁の心情に心から感謝している。

 “日本という国は侵略戦争を起し大勢の若者を戦場に送り特攻攻撃を命じて多数の戦死者を出し、残虐行為で世界中に多大な迷惑をかけた末にその報復で都市のほとんどを焼け野が原にされ多くの国民が塗炭の苦しみを味わった暗い過去をもつ国である、などと教えられた私たちはそれをそのまま生徒に教えてきました。ところが皆さんの話を聞いて以来このような人たちが命を捧げてまで守ろうとした日本という国はそんな悪いばかりの国ではなかったのではないかと気付き、生徒たちと一緒に事実はどうであったのかということを本気で考えるようになりました。”

 これは高校生たちとの数年にわたる付き合いのなかで担任の先生があるとき述懐してくれた言葉である。